連載エッセイ46:チリの海と川と湖を漕ぐ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ46:チリの海と川と湖を漕ぐ


連載エッセイ45

チリの海と川と湖を漕ぐ

執筆者 鈴木 均(元日商岩井(株)サンチャゴ駐在員)

カヤックの事始め

日商岩井(株)(現 双日(株))のサンチャゴ駐在員として勤めていたのは、もう25年も前になる。忙しかった記憶はあるが、さて、何をしていたのか、今となってははっきりとは思い出せない。しかし、チリの大自然のときめきだけは、体にしっかりと焼き付いている。東を見れば、4,000mにもなるアンデス山脈があり、西は太平洋が日本まで繋がっている。湖と川と海を、長さ4.5mのファルホーク(注:カヤック。現在は、モンベル社に吸収されて、アルフェックとなっている。)で漕ぎ回った。

カヤックに乗り始めたのは、1970年代まで遡る。その頃の仕事は、オーストラリアを担当していた。当時は、交通機関のストライキが、しょっちゅう起こっていた。しかも、組合が産別のため、パイロット組合のストが終わると、次の日にはスチュワーデス組合のストが始まる。それが終わると、今度は地上整備員の組合と、際限なく続いていた。仕事が終わり、さあ帰国だとキングスフォード・スミス空港に行くと、「今日は○○組合のストライキ。飛ばないよ。」と言われて、すごすごとシドニーのホテルに戻った。手持ち無沙汰でオペラハウスの前でぼんやりしている時に、僕の未来を決めてしまう事件が起こった。

岸から、何やら小さな手漕ぎの舟が出て行き、港の沖の方に係留しているヨットに近づいた。ミズスマシのように軽々と弧を描く。そして、あっという間にヨットに乗り換えた。ヨットが沖に出て行った後には、係留索に小さな舟が繋がれていた。あれは何だろう。偶々散歩で通った人に聞くと、カヤックだという。岸近くはヨットの係留費用が高いので、沖合に停めておき、そこまでの行き来にカヤックを使っているのだという。僕の目には、もうカヤックしか映らなくなっていた。

帰国すると直ぐに、カヤックを教えてくれる所を探した。これが、無い。散々探した挙げ句、2~3ケ月後にやっと見つけた。そして、1979年には、それまで大好きだったスキューバダイビングをきっぱりと辞めて、カヤックにのめり込んだ。伊豆半島や三宅島への週末の旅は、多摩川や長瀞川に変った。そんな訳で、当世大流行のゴルフに親しむ機会を失った。

駐在に赴任する荷物には、ファルトボート(注:折りたたみ式カヤック)が入っていた。果たしてチリで漕ぐ機会があるかどうか分らないままに、持って行かないという選択種は、全く思いつかなかった。

旅に出る

金曜日の夕方に、サンチャゴのバスターミナルから、長距離バスに乗る。大都市間のバスは、Tur BusやPullmanなどの大手が経営していて、車両もなかなか快適だ。社内で、カナッペやワインの無料サービスもある。何よりも便利だったのは、大きな荷物を積める事だ。食料とお酒を現地調達するとしても、ファルトボートとテントと生活機材だけで、30kgを越える。サンチャゴから1,040km南のプエルトモンや、460km北のコキンボなどの大都市に朝早く着くと、今度は田舎バスに乗り換える。舗装していない道路を走るバスのため、大概はフロントガラスに大きなひびが入っている。対向車が、石を道路から跳ね上げるためだ。正面に行き先が書いてあるが、必ずしもそこへ行くとは限らない。乗る前にまず行き先を確認する。バスに乗ってから、突然行き先が変更になることもある。

目的の地でカヤッキングを楽しむと、逆の経路で日曜日の夜バスに乗り、月曜日の早朝にサンチャゴに戻る。シャワーを浴びて、満足に少したるんだ顔で、事務所にでる。勿論、お客様のいない週末・休日の楽しみだ。ツアーを予定していても、突然の来客で中止しなければならない事もある。駐在員は、ぐっと堪えて、笑顔でお迎えする。

海の旅

例えば、1995年の年末・年始には、プエルトモンから南のフィヨルドを旅した。単身赴任だから、身軽だし、瑣事には囚われない。日本へ帰るとなると、片道だけで2日はかかる。そして又、戻ってこなければならない。帰国を選択するか、大自然の旅を選ぶかは、最初から結論が出ているようなものだ。未だE-mailもLineも無い時代だ。愛する妻との会話は、とりあえずテレパシーだけで勘弁してもらった。

カヤックは、概ね時速6kmくらい出る。海流と風の具合にもよるが、気分により、毎日30~40kmを漕ぐ。合計で200kmくらい旅しただろうか。フィヨルドは、幅が200mくらいから、最大で5kmくらいある。景色も、生き物も何もかも、休む間もなく変化する。

カヤックを漕いでいる途中、船にも人にも殆ど出会わない。スペイン語も日本語も忘れそうになる。怖くなったり寂しくなると、琵琶湖周航の歌を、ちょっと外れた音程で、思い切り大声で歌う。気力がよみがえる。パタゴニア北部のフィヨルドは、大体20kmに一軒くらいインディオの家があった。人間だったら誰でも良いと言ったら叱られるが、ちょっと傾いた家でも見かけると、無性に人恋しくなることがある。早速上陸して、卵や竈で焼き上がったばかりのパンを、市価の倍くらいの値段で、有り難く譲っていただく。アラウカーノ語訛りのスペイン語だろうか、何を言っているのか、もう一つ良くわからない。そんな旅が続く。

出発前に、安全対策だけは、十分に立てていた。そう言っても、未だGPSが有ったわけでは無く、携帯電話だって、アタッシュケースで運ぶほど大きかった。何よりも超お金持ち用の道具だった。だから、コンパスと地図が頼りだ。地図は、軍事地理研究所が管理している。出発前に、軍の販売所で購入する。チリは、未だアルゼンチンと国境で時々小競り合いをしていたから、重要な場所は、白色に塗りつぶしてある。但し、いくら事前に調べても、実際とは異なるのが良いところだ。

Fiordo Comau

フィヨルド奥のレプテプという集落まで漕いだら、フェリーに乗ってプエルトモンに返ろうと考えていた。ところが、この場所に到着しても、何もない。フェリーの港どころか、家も見えない。困った。周辺を散々漕ぎ回って、魚を捕っているインディオをやっと見つけた。「去年の地滑りで、みんな埋まっちまったよ。俺しか住んでいないよ。フェリー、来るわけないだろう。」そんなことも知らないのかと言う顔をする。知るわけはないだろう。出発する時に聞いた人は、「ああ、あそこには商店もあるよ。」と言っていた。

幸いに、途中インディオからパンを買ってきたし、非常用のタピオカの粉末も持って来ている。岩にはムール貝が沢山着いている。沢水で炊くと、絶妙な味がする。あっと言う間に、貝塚ができる。しかし、ワインが切れた。野営の焚き火を前にして、禁断症状と戦った。岸の直ぐ近くまで泳いで来るアシカが、水しぶきを上げる。「くそ。あいつは、サーモンの刺身を食ってるんだろうな。」テントから顔だけを出して、南十字星をさがす。薄ぼんやりと流れる銀河の真ん中に、傾いた小さな十字架が見える。「おお、ここは南米だ。」

翌日、何十キロか漕いだ先の入り江で、商店を見つけた。兎に角、アルコール燃料を補給しないと、僕のエンジンが動かない。「セニョール、残念だな。ウチはアルコールのライセンスがないから、売っていないよ。」「え~。」「でも、あんたはラッキーだ。おれ用の酒が何本かあるよ。あんたは友達だから、特別に譲ってあげても良いよ。」「お~。心の友よ!!ありがとう。」ここでも、市価の2倍は取られた。

湖の旅

チリ第二の都市コンセプシオンを、チリ最大の川ビオビオが流れている。この川の支流のラハ川に沿って、ひたすら東へ走ると、アルゼンチン国境まで10kmもないラハ湖に着く。国境を越える幹線道路と言っても、生やさしい路ではない。冬場には積雪で閉鎖されるし、時には雪崩で流されてしまう。ラハ湖畔は、一応国立公園に指定されているものの、流石に人影が少ない、と言うか、殆ど人間を見かけない。

岸辺からファルホークに乗って、一時間ちょっと漕ぐと、湖の最奥に着く。ここには、電力会社の小さな埠頭があるだけで、し~んと言う静けさが耳にうるさい。勿論、誰もいない。石の上に座り、アンデスの雪山を見上げながら、名も知らない高山植物に目を驚かす。お昼を食べると、早速散歩と露営地を探しに出かけた。

Laguna del Laja

10分くらい歩いただろうか。空気が綺麗だから、思い切り深呼吸をする。ふと気がつくと、山の切れ目から20人ばかりの男が、馬に乗って静かに出てきた。僕の方に向かって近づいて来る。上半身裸の奴もいる。まるで西部劇のメキシコ山賊のように、弾帯を肩から斜めに吊している。腰にはピストル、手には自動小銃を持っている。中には、軽機関銃をもっている奴もいる。「参ったな。」

「こんにちは、悪いけど僕はお金を持ち合わせていないよ。」「どこから来たんだ。」「日本。」ざわざわとした。先輩方の努力もあり、日本人はチリで大切にされている。「どうやって来たんだ。」「あそこにあるカヤックを漕いで来た。」先方に何か誤解があったのか、急に尊敬するような顔つきに変った。そう言えば、グレートジャーニーの関野春さんが、1993年12月にチリ最南端のナバリーノ島を出発し、タンザニアに向けてこの辺りを通って行った。

「日本人を初めて見た。俺たちは、国境警備隊だ。」力が抜けた。赤いパスポートを見せた。ここは、チリ・アルゼンチンの国境に近いから、密輸のルートにもなっているそうだ。公務員なら、公務員らしい格好をしていて欲しい。荷物を岸辺に置いてきたので、ポケットを探っても何もない。晩のおつまみ用に持って来た柿の種を、何袋か見つけた。「これは、日本のお菓子だ。プレゼントするよ。」隊長らしき人が、口に入れる。顔が曲がった。「日本人と言うのは、こんなものを食べるのか?」

いつの間にか、国境警備隊員は山の切れ目に消えて行った。良く統制が取れている。改めて考えて見ると、アルゼンチンとチリは、未だ国境紛争の最中だった。数年前には、銃撃戦もあったという。両国が最終的に平和協定を結んだのは、1999年6月になってからだ。Campo de Hielo Patagonico Sur (南パタゴニア大陸氷床)条約と言う。

Lago Rihniue  

今思い起こせば、こんな話はエピソードのほんの一部に過ぎない。堂々と言える事もあるし、未だ内緒にしておきたい事もある。講談の水戸黄門漫遊記と同じくらい、長い話になる。お酒が付くなら、幾晩話しても尽きないだろう。但し、25年も前の昔話だ。

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