馬場 香織(北海道大学大学院 准教授)
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メキシコの治安と麻薬対策の現状と課題 馬場 香織(北海道大学大学院 准教授)
はじめに
2024 年11 月末、米国のドナルド・トランプ次期大統領は自身のSNS への投稿で、メキシコとカナダに対して大統領就任初日に25%の追加関税を課し、両国からのフェンタニルをはじめとする違法薬物と違法入国者の流入が止まるまで続けることを宣言した。これに対し、メキシコのクラウディア・シェインバウム大統領は、トランプ氏に宛てた書簡のなかで、米国における移民や薬物依存症の問題は脅しや追加関税では解決できず、相互の協力と対話が必要であるとしたうえで、フェンタニル等の違法薬物のメキシコ国内における取り締まりを強化する姿勢を示した。実際このやりとりの数日後に、メキシコ当局はシナロア州で過去最大量となる約1.5 トンのフェンタニル(4 億ドル相当)を押収したことを発表し、また本稿執筆時点で、メキシコ連邦議会ではフェンタニル等の無許可の生産・流通・販売を厳罰化する憲法改正が進められている。
米国では近年、薬物の過剰摂取による死者が急増しており、その多くがフェンタニルをはじめとする合成薬物による被害とされる。フェンタニルの原料物質は主に中国からメキシコへ違法に流入し、メキシコ国内の違法ラボで錠剤などに加工され、米国に密輸される。麻薬密輸が米国との間の経済・通商に影響を与えうる外交問題へと発展する一方、メキシコ国内では引き続き治安問題への懸念が大きい。シナロア州では2024 年9 月以降、メキシコ最大級の麻薬犯罪組織シナロア・カルテルの幹部イスマエル・サンバダ(通称エル・マジョ)が米国で逮捕されたことに端を発する内部抗争の激化により、約4 か月で600 人以上の死者を出す危機的状況が続いている。
麻薬密輸をはじめとする組織犯罪と治安問題は、国内・国際の両面でシェインバウム新政権にとって最大の課題を突きつけているといえるだろう。本稿では、組織犯罪と治安問題の現状と、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール前政権(2018–2024 年)の政策を振り返ったうえで、新政権の課題と展望について論じる。
組織犯罪と治安問題の現状
ロペス・オブラドール政権が2018 年12 月に発足したとき、メキシコの治安は過去最悪ともいえる状況にあった。図1 に示す年間殺人件数は、前任であるエンリケ・ペニャ・ニエト政権期(2012–2018 年)の2015 年以降急増し、2019 年にピークの3 万5693 件に達した。ロペス・オブラドール政権2 年目となる2020 年以降、年間殺人件数はやや減少傾向にあるが、依然として従来の水準にも戻っていない状況である。
ペニャ・ニエト政権下で暴力が激化した背景には、前任のフェリペ・カルデロン政権(2006–2012 年)が着手し、ペニャ・ニエト政権でも継続された、麻薬カルテルに対する政府の強硬策がある。そこではカルテルの弱体化を目的として大物幹部の逮捕や殺害が大規模に行われ、その結果、組織の内部分裂と新たな覇権をめぐる争いが激化し、中小の犯罪組織が乱立して、市民の犠牲も増えることとなった。暴力が一部の地域から全国に拡散したのもこの時期の特徴である(馬場 2018)。
現在に至るまでメキシコ国内のカルテルの勢力図は変容を繰り返しているが、最大の勢力を誇るのがシナロア・カルテルとハリスコ新世代カルテル(CJNG)である。シナロア・カルテルはシナロア州を拠点に主に北西部を広域にわたって支配し、CJNG は中部からメキシコ湾南部にかけての地域を押さえている。2 つのカルテルは軍隊並みの重装備を有し、トランスナショナルなネットワー