『日本大使公邸襲撃事件 —占拠126日と最後の41秒間』 ルイス・ジャンピエトリ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『日本大使公邸襲撃事件 —占拠126日と最後の41秒間』 ルイス・ジャンピエトリ


1996年12月17日夕に在ペルー日本大使公邸での天皇誕生日祝賀パーティ会場にペルーの極左集団MRTA(トゥパク・アマル革命運動)の完全武装コマンド14名が侵入し、招待されて来たいたペルー政府・軍の要人、フジモリ大統領の親族、外交団、日系企業の代表などを人質に取り、ペルー政府に新自由主義経済政策の変更、収監されているMRTAメンバーの囚人全員の釈放、襲撃したコマンドと囚人、人質の一部のセルバ(密林)地帯への安全移送、戦争税(身代金)の支払いを要求した。人質のかなりはその後順次解放されたが、最終的には筆者を含む72人が翌年4月22日のペルー3軍の特殊部隊のトンネルを掘っての急襲作戦で解決されるまで126日間幽閉された。

筆者は退役海軍提督で、現役時代は特殊部隊を率いてテロリストのセンデロ・ルミノソ(“輝ける道”毛沢東主義極左集団)鎮圧に関わったことのあるテロ対策専門家であり、人質になった時から突入作戦の最後の41秒間の生死を分けた瞬間までを克明に綴っている。

筆者たち一部の政府高官やボリビア大使などのグループは、早くからフジモリ大統領がテロ集団をほぼ壊滅状態に追い込んだ熾烈な戦いの経験、大統領の性格と政治的立場などから、話し合いによる解決は見込み薄を考え、内部からテロリストや人質たちの行動や習性などを政府情報機関へ伝えることに注力し、差し入れ品に仕込んだ盗聴マイクと隠し持ったポケベルなどを駆使して、かなりの連絡を取ることに成功した。これが突入作戦の正確度を増し、また人質の脱出を助ける大きな役割を果たしたのである。

この占拠事件については、その後青木大使自身による『人質 —ペルー日本大使公邸の126日間』(クレスト)、MRTAに同情的な元書記官の小倉英敬『封印された対話』(平凡社)や太田昌国『ペルー人質事件解読のための21章』(現代企画室)、事件中突撃取材し、撮影した日本企業代表者の写真等を地元誌に提供し公開されて問題になった共同通信ペルー特別取材班の『ペルー日本大使公邸人質事件』(共同通信社)、人質になった日本企業代表の話しを纏めた『ペルー日本大使公邸事件 一年目の真実 —日本人人質が明かす監禁百二十七日』(『新潮45』1998年5月号)など、境遇や立場の違いからのこの事件の見方は大きく異なる。すなわち、フジモリ大統領の強硬策での解決と日本政府等が強く求めた話し合いによる解決の交渉の実現可能性、大使館と地元警察等の危機管理が希薄だったことの責任、そしてコマンドの要求とそれをフジモリ政権が応諾するかの実現性、突入後に少なくとも3人のコマンドが一旦は生け捕りになったといわれるが最後は全員射殺と発表されたことの真偽と背景事情、これに対するに突入時に射殺されたペルー最高裁判事と特殊部隊指揮官等2名の戦死への言及などについて、本書と読み比べるとそれぞれが一面的な記述であることに気がつくであろう。

しかし、テロリストの実態に通じた筆者らによる外部との情報連絡の努力や自力脱出プランの検討などから、情報漏れの恐れがあり信用出来ないからとまったく隔絶されていた日本人関係者たち、そしてひたすら和解交渉の進展に望みを託し、早くからテロリストの釈放は絶対しないと米国等とも了解を交わし武力解決を準備していたペルー政府に圧力をかけ続けていた日本政府が、いかに国際的な対テロのインテリジェンス・サイクルから遊離しているかを、冒頭に付された佐藤 優(当時は外務省国際情報局主任分析官)と手嶋龍一(元NHK特派員、外交ジャーナリスト)の対談でも鋭く指摘しているが、決してテロとは無縁ではない日本でも参考になるドキュメンタリーである。

(ビル・サリスベリ、ロレーナ・アスセジョ共著沢田 博訳イースト・プレス2009年3月299頁1800円+税)