『サイゴン・タンゴ・カフェ』 中山 可穂 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『サイゴン・タンゴ・カフェ』  中山 可穂


表題作は、17歳で文壇デビューし将来を嘱望された女流作家が、45歳で傑作を発表した直後に失踪し、ベトナムのハノイでひっそりとタンゴ・カフェを営んでいたが、その最後の作品執筆から現在に至るには女性編集者との秘められたやり取りがあったというもの。妻が夫と別れた不倫関係のあった女性と共に、ベトナムに旅行することになり、女性はサイゴン川のほとりで持参したバンドネオンを弾くが、それには離婚で傷ついた過去が関わっていたという「バンドネオンを弾く女」、そしてブエノスアイレスを舞台に、タンゴを踊ることで心を許した日本の貿易商社支店上司に横領の濡れ衣を着せられた女性が、退社を余儀なくされ帰国後の彼の葬儀に出て、裏切りへの怒りから香典を持ち去る「現実との三分間」、娘がタンゴの勉強のために勤めを辞めてブエノスアイレスに行き、バンドネオン奏者と結婚すると連絡してきた娘の式に出るためにはるばる赴いた母と娘に共通する忌まわしい過去を抉り出した「フーガと神秘」、老バンドネオン奏者に飼われた猫の目を通じて、同じアパルタメントに済む殺し屋が、皮肉なことに彼を密かに恋い慕う若いタンゴダンサーの女を殺さねばならなくなった時に、猫が取った行動は実は作家自身の今の姿に...という「ドブレAの悲しみ」の5編を収録している。

「幻想的イマジネーションの飛翔といった独特の作風」(本書の著者紹介)で作品を発表してきた著者が、アルゼンチン・タンゴに魅せられて、これらの小説を書くためにダンス教室に通い、バンドネオンを習い、ブエノスアイレスを訪れ、「身も心もタンゴに惑溺し、タンゴを聴きながらでしか出てこなかった文章や台詞がたくさん詰まっている筈だ」(文語版あとがき)というとおり、アルゼンチン・タンゴにのめり込んだ作家ならではの短編集。2008年に同じ出版社から出た単行本の文庫化。

(角川書店(文庫)2010年1月360頁629頁+税)