セオドラ・ルーズベルトは1904年に米国大統領に再選された際に再出馬はないと公言したにもかかわらず、12年の大統領選挙に所属の共和党を離れ新党から立候補し惨敗し、しかも共和党のタフト大統領の再選をも妨げた。非難を浴び失意から隠遁した彼に南米4カ国での講演とアマゾン学術調査旅行の話が持ち込まれた。1913年10月ニューヨークを出航した時には、元大統領の旅行は多くの人沢山の物資による大遠征隊となっており、二男のカーミットをブラジルのバイアで乗せ、自然歴史博物館の推薦するアマゾンに詳しい鳥類学者シェリー等の科学者も加えていたが、ブラジル政府はアマゾン地域の探険に半生を費やしてきたロンドン大佐(現在の国立インディオ財団(FUNAI)の前身の原住民保護局の初代局長となり、ブラジル北西部のロンドニア州は彼の名を採った)に同行を命じた。また、外相はルーズベルトに当初の計画旅程ではなく未開の「謎の川」下りを薦めたことから、この旅行は困難と危険をともなう探険旅行に変わった。
12月にブラジル西南のコルンバで共同指揮官となったロンドン大佐と合流し遠征が始まったが、米国から持ち込んだ現地にそぐわない物資が多過ぎて始めから出発が延び延びになり、やっと謎の川の出発点に到達したが人員と物資を絞り込み、ジー・パラナ川探検隊と分けざるを得なくなった。2月初めに隊員と人夫で川下りを始めたルーズベルトとロンドンの率いる隊は、先住民の攻撃にさらされ、急流に阻まれ、食料不足に苦しみ、マラリアや赤痢をはじめとする病気や怪我、昆虫や肉食魚、毒蛇等に身体を傷つけられ、ついには人夫の一人による同僚の射殺を含め死者まで出る苦境の中で、ルーズベルト自身も病と傷口の化膿が悪化した。なんとかゴム採取人が入り込んで来ているところまで辿り着き、さらに急流の川下りの試練が続いたものの、やっと4月26日にロンドン大佐の部下が救援物資を携えて溯行したキャンプまで到達した。
その3週間後、1914年5月19日にニューヨークへ帰還したルーズベルトは英雄として迎えられたが、一方で1,600km近い謎の川を発見したのはでっち上げだとする中傷と体調の衰えに悩まされた。ニューヨークとロンドンでの講演で中傷に論駁し遠征の成果を証明した。後にブラジル政府は謎の川を「リオ・ルーズベルト」と名付けたが、ポルトガル語で発音し易い「リオ・テオドロ(セオドロ川)」とも呼ばれている。探険中彼を死の瀬戸際まで追い込んだ高熱と感染症から19年1月に60歳で波瀾に富んだ生涯を閉じた。
著者は『ナショナル・ジェオグラフィック』誌の記者・編集者も務めたジャーナリストで、アマゾンの自然描写・解説も詳しい。ただポルトガル語発音表記やカトリックの神父を牧師と訳した部分が混在するなど、訳・校閲のミスが散見されるのは残念である。
〔桜井 敏浩〕
(カズヨ・フリード・ランダー訳 エイアンドエフ 2016年4月 475頁 2,600円+税 ISBN978-4-9907-0653-1 )
〔『ラテンアメリカ時報』2016年秋号(No.1416)より〕