星名は1866年に現在の愛媛県宇和島市に生まれ、東京英和学校(現青山学院)を出て1891年に日本人へのキリスト教伝導のためハワイへ渡ったが、1894年頃には伝道者の仕事から離れ様々な職業に就き日本から呼び寄せた久子と結婚、長女の病死を契機に1904年にテキサス州に移り3年ほど滞在した後に一旦帰国した。1908年にブラジルへの第1回移民船笠戸丸が出た翌年単身でブラジルへ渡り、リオデジャネイロ州の農園で労働に従事した後米作開墾を試みたが失敗しサンパウロへ出て、南米最初の邦字新聞『週刊南米』の創刊に関わり、サンパウロ州西部ソロカバナ線北端のブレジョン、梅弁殖民地の経営に携わり、当時の貧しい日本人コロノ移民が自分たちの土地を買えるよう尽力した。1924年には公使館から大使館に昇格したリオデジャネイロから初代田付七太大使がブレジョンにも視察に来るほどになったが、その直後サンパウロで起きた革命騒動で政府軍に追われた革命軍の略奪や強盗の襲撃などで自身も身近な人も被害を受けた。その後「移民の父」と言われた上塚周平等と図り蝗(いなご)・旱魃被害で困窮した日系農家のために日本政府の低利資金借款取り付けに奔走した。彼が種を蒔いたブレジョン殖民地一帯は現在アルバレス・マシャード市となり、人口2.2万人の15%を占める日系人が特に農牧関連商工業、野菜・果物栽培、養鶏、酪農などで大きな役割を果たすまで成長している。一方、ハワイやテキサスでの在住時に覚えたのか野球に詳しく、ブラジルの日本人野球を金銭面でも応援した。しかし、1926年12月に低利資金融資問題で日本領事と打ち合わせ後に戻ったアルバレス・マシャード駅のホームで、彼の農地において請負契約を履行しなかったため紛争があったブラジル人コロノに狙撃され、61歳でジャカレー(鰐)の綽名で呼ばれ毀誉褒貶の多い波乱の生涯を閉じた。
日本人移民の草創期にハワイ、テキサス、ブラジルをまたいで先駆的な役割を果たした、行動半径が広くスケールの大きい、まさしく魁傑と言える一人の海外移住者がいたことを内外の多くの資料から明らかにしている。
〔桜井 敏浩〕
(不二出版社 2017年11月 329頁 3,800円+税 ISBN978-4-8350-8061-1)
〔『ラテンアメリカ時報』2018年春号(No.1422)より〕