連載エッセイ7:バカンスを考える - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ7:バカンスを考える


連載エッセイ7

バカンスを考える

執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

1)ラテン人が考えるバカンスとは

 スペイン人もイタリア人もラテンアメリカ人もバカンスを大いに大切にする。夏休みともなれば、1カ月まるまるとる。北半球では7月や8月、南半球では、クリスマス休みから1月、2月にかけては、夏に加えてカーニバルもあり、全く仕事にならない。北半球では、夏休み中に訪問されても、政府や企業とのアポイントはまずとれない。したがって、アポイントは6月中にセットして、9月以降に行動を開始するということになる。

海外駐在中に、ラテン系の人々にとってのバカンスとは何かを考えた。最初に考えたことは、バカンスはどのような効果があるかということである。彼らは、「バカンスの無い人生はない」、「バカンスのために働いている」とよく言う。また、年に1度は長期のバカンスをとることによって、しっかり休養し、頭をからっぽにすると、新しいアイデアやプロジェクトに挑戦する気が出てくると言う。日本人は、あまり休暇を取らないし、組織内では、休暇を取りにくい雰囲気にある。しかし、私の経験でも、休暇を取った後はフレッシュな気分になるし、やる気も出てくる。

第2の点は、バカンスの内容である。日本人だと休暇と言えば、どこか旅行に行き、あちこちを慌ただしく巡るというものである。しかし、彼らのバカンスは、総じて、自分たちが住む場所から、他の場所、主として海や山に移り、静かに過ごすのが主流である。自分で別荘を持っている場合、親戚や友人の別荘を借りる場合、長期で安くアパートを借りる場合等いろいろ考えられる。トレーラーカーで移動する場合もある。

第3の点は、費やすお金である。日本人の場合、休暇となるとお金がかかるとすぐに考えがちである。なぜなら、名所旧跡などを回ったり、外食したり、ホテルや旅館に宿泊したりするとそうなる。しかし、彼らの場合は、一般的にそれほどお金を使うわけではない。車の中や車上にいっぱい家財道具や衣服等を乗せ、バカンス先に移動し、移った先で、同じ生活をするのがほとんどである。スーパー等で食品などを購入し、自分たちで料理する。外食などは極力控えるし、毎年同じような場所に行くので名所旧跡訪問も少なくなる。要するに、極端に言えば、移動に要するガソリン代だけが上乗せされるだけである。ドイツ人ともなるとトレーラーでスペインに来るので、車の中で寝ることになり、宿泊代はかからない、スーパーで食品を購入し、自分たちで調理するので外食代もわずかである。スペインやイタリアでドイツ人観光客の評判が良くないのは理解できる。以上のことを参考にすると、彼らが、フットワーク軽く、バカンスに出かけ、バカンスを日常茶飯事的にエンジョイしていることがよく理解できよう。

2)プール・サイドでⅠ週間過ごすには

 メキシコに勤務していた時の話である。メキシコシテイは海抜2200メートルの高地にあるため、空気も薄く、健康管理上良くない。そこで制度として、3カ月に1回、高地手当というのがあり、確か3泊4日くらいの休暇が認められていた。行先は海抜0メートルで、空気の濃い保養地アカプルコである。1970年代半ばのアカプルコは、まだカリブ海のカンクンも開発途上であったため、全盛期であり、250室の内プールが150あるラス・ブリサス・ホテルや大きなプールが11あり、ゴルフ場もあるアカプルコ・プリンセス・ホテル等々5つ星のホテルがたくさんあった。私の家族も中心部のホテルや空港近くのホテル等、様々なホテルに宿泊した。

最初にアカプルコ訪問した時は、物珍しさに、セントロ(中心部)に出かけたり、有名な崖からの飛び込みショウなどを見学し、あちこち回った。 しかし、よく考えてみると、アカプルコには休養にきているのであって、あちこち回るためではない。そこで、2度目からは、プール・サイドまたはビーチに1日中じっとしていることにした。やってみると、これが大変で、まさに苦痛であった。日本人の常としてなかなかじっとしていられない。周りのメキシコ人や外国人はプール・サイドで何もしないで寝そべっていたり、本を読んだりしている。たぶん、これは訓練の問題であろうと考え、駐在中に、Ⅰ週間はじっとしていられるように歯を食いしばって頑張ってみた。訓練の甲斐もあって、駐在の最後の時期ともなると、Ⅰ週間くらいなら、本さえあれば、じっとしていられるようになった。訓練は大切である。

3)セマーナ・サンタ、ロシオ、四月祭り

 初めての出張は、1973年に、ブラジルで開催された「サンパウロ日本産業見本市」のアテンドであった。3月下旬に開幕したのだが、その前にカーニバルにぶつかった。事務局員の大半は、ブラジルにおけるカーニバルの位置づけをよく理解しており、サンパウロからイグアスの滝まで車で出かけてしまった。私にも誘いがかかったが、懸案の仕事で手一杯の状況であったので、とてもその気にならなかった。カーニバルの時は、すべてがストップすることを認識していなかったことも行かなかった理由である。その後は、メキシコ駐在、チリ駐在を経験したので、バカンスの重要性がわかりかけてきた。要するに、バカンスの時期は、じたばたしても仕方がないという分かりきった結論である。

 セビリャ万国博覧会は1992年4月20日に開幕した。その直前に、セビリャの誇る「聖週間」(Semana Santa)とロシオ巡礼(Rocio)のシーズンを迎えた。万博というスペインにとって世紀のイベントを開催するのだから、博覧会公社の役職員も休まないで、参加国の懸案事項を少しでも解決してくれるのだろうと甘く考えていた。ところが、この期間、公社の事務所はすべて完全にドアを閉め、職員全員が「聖週間」を楽しむのである。がっかりしたが、腹を立てても仕方がない。過去の経験・訓練から、こちらも十分に、「セマーナ・サンタ」のイベントを楽しむことにした。日頃の人脈が効を奏して、セビリャ市長の招待状が届き、ジェトロ・マドリードの仲間と一緒に出かけた。特別席で、人力によるマリア像やキリスト像の山車の行進をはじめとする荘厳な儀式を見ることができた。我々の後ろには、スペインの有名な女優であるイサベル・パントーハが座っていたのも良い思い出である。ロシオの巡礼もスペインの友人から誘われたので、仲間と一緒に巡礼の様子を見せてもらい、どのように組織されるかを教えてもらった。

開会直後には、セビリャの春祭り(4月祭り、Feria de Abril)が続いた。この時期は、ブラジルのカーニバルのようにセビリャ中が浮き浮きする。祭りが始まると、セビリャの住民は、着飾って4月祭りの会場に行く。会場には、カセタと呼ばれるテントで埋め尽くされる。それぞれのカセタで踊ったり歌ったり飲んだり食べたりする。招待券・招待状がないとカセタに入れないシステムになっている。幸い、これまた、日頃の人脈形成努力が功を奏し、2か所からの招待状をもらっていたので、仕事をしばし忘れて、日本館の事務局員を連れて、歌、踊り、ワインを大いに楽しんだ。

4)バカンスの勧め

ようやく、私もラテン系の人々の考えるバカンスを理解し、その対応もしっかりできるようになった。昨今、日本人はラテン系からすると些細なことに振り回され、少しでも失敗したり、失言するとバッシングに会う。それによって、寛容性も失われ、国民がこぞって委縮気味である。ここらでラテン系のようにしっかり、短期・中期・長期のバカンスを取り、頭を空っぽにして、新しい発想で前に進めば、日本人の寛容性を取り戻すことができるかも知れない。日本人も、「自分もバカンスを取らないが、部下にも取らせない」から「自分部下も積極的にバカンスを取る」という発想転換を望みたいものだ。