連載エッセイ18:マルビーナス (英名フォークランド)紛争 と日亜関係 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ18:マルビーナス (英名フォークランド)紛争 と日亜関係


連載エッセイ17

マルビーナス (英名フォークランド)紛争と日亜関係

執筆者:筒井 茂樹(元伊藤忠ブラジル会社社長、CAMPO社副社長)

「ビオラ大統領の訪日にまつわる話」

アルゼンチン初の国民の直接選挙で選ばれたペロン大統領(左派正義党 1946-55,1973-74)の死後、1974年、アルゼンチン初の女性大統領にペロンの妻イサベルペロンが選ばれましたが(1974-76)、1976年、軍のクーデータにより失脚。ビオラ軍政大統領が誕生しました。1980年5月、ビオラ大統領がアルゼンチンの大統領としては初めて訪日されましたが、大統領の訪日に先行して、中銀次官が大統領訪日の根回しのため、来日されました。 当時、私は伊藤忠商事で、中南米諸国の窓口である海外企画統括部の中南米課長をしていましたが、偶々、中銀次官が、日本で最初に訪ねて来たのが伊藤忠であったため、私が面談することになりました。話の内容はアルゼンチン国営製鉄所ソミサの近代化計画に必要な資金として日本政府と1億ドルのローン交渉をするためでした。

「ローンの見返りに、パタゴニアへの移住の提案」

問題は次の内容です。日本政府からのローンの見返りにアルゼンチン最南端のパタゴニア(大西洋に流れ込むコロラド河を境に、ほぼ南緯40度以南の地域で、110万キロ平方メートル、日本の約3倍の面積、極寒の地として知られる。)に日本人移民を100人受け入れると言う話でした。私は直ちに、貴方は今の日本を全く理解していない。戦後復興を果たした日本は、今や日の出の勢いにあり、誰も移民をする人はいない。ましてパタゴニアの様な僻地に行く人はいない。日本政府に、例え好意であっても、見返りとしてそんな話をすればなる話もならなくなると言ったところ、お前は生意気だ。日本の様な小さい国では、移民は必要だし、喜んでパタゴニアに移民を希望する人達も沢山いると思う。と彼が反論したので、アルゼンチン人が住めない極寒の地に何故日本人が行くと思うか。アルゼンチンが好意でパタゴニア移民の話をしても我々日本人はバカにするなと言う感情になる。悪いことは言わないので、日本政府には移民の話はするなと念を押しました。それでも彼は伊藤忠の次に訪問する某商社に相談する。お前では話にならないと激怒して伊藤忠を出て行きました。

私は早速、彼が次に訪問する某社の中南米課長に電話をして、アルゼンチンの中銀次官との話の内容を伝えたところ、筒井さんの言う通りだ。私も筒井さんと同じことを言うと言って呉れました。結局、彼は私が言ったことが正しいと理解したようで、日本政府には移民の話はしなかったとのことです。そしてビデラ大統領訪日時、無事ソミサ国営製鉄所向けの1億ドルローンの契約が日亜間で交わされました。

「当時のアルゼンチンは中南米一の先進国」

当時私はアルゼンチン中銀次官の気持ちも分かる様な気がしました。実は1973-77年まで私はブラジルに駐在していましたが、私達家族の楽しみは、当時、垢抜けした物が全く無かったブラジルからブエノスアイレスのフロリダ通り、コリエンテス大通りで、ブラジルにない鞣しの良い毛皮や靴、その他アクセサリーに南米のパリをみた感じでした、。また、私が若い時から憧れたタンゴの生演奏も私達を喜こばせてくれました。当時、既にブラジルでは大臣2人を含む日系の成功者を多数輩出していたにも拘わらず、アルゼンチンでは大多数の日系移民は花屋と洗濯屋でした。政財界、教育界にもこれと言う成功者はいませんでした。またアルゼンチン人は、当時の日本を殆ど知らず、日本は戦後の復興は果たしているが、まだまだアルゼンチンの政財界トップ、富裕層は日本を小国としか見ていなかったようです。

「マルビーナス紛争の勃発」

時は経ち、私は2度目のブラジル駐在を1980年8月より命じられました、役職は中南米総支配人補佐でした。従い総支配人に随行或いは代理で、メキシコを除くメキシコ以南アルゼンチンまでの各国を訪問し、経営の分析、打ち合わせをすることが仕事でした。そんな中、1982年4月、マルビーナス紛争が勃発しました。アルゼンチン大統領として初来日された軍政ビデラ大統領の後任で、同じく軍人のビオラ大統領は経済不振の責任を取り僅か9か月で退任。1981より軍政ガルテイエリ大統領が誕生しましたが、年間3000%に達するハイパーインフレと失業者の急増により、国民の不満が爆発し、ブエノスアイレスの5月広場に何十万人の民衆が詰めかけ、ガルテイエリ大統領の退陣を迫るデモが連日続きました。ガルテイエリ大統領は国民の目を外にそらし、この危機を乗り切るため、兼ねてより英亜間で領土問題が続いていた英国領でアルゼンチンの最南端に位置するフォークランド島を1982年4月2日に、マルビーナス島は今でもアルゼンチン領土で有ると国民を煽動して、アルゼンチン軍がマルビーナス島に上陸、無血で島を占領しました。

「アルゼンチン人は典型的なラテン民族(楽観主義者)」

私は総支配補佐として、早速アルゼンチンを訪問し、例の大統領訪日の根回しに来た中銀次官を始め、色々な人から意見を聞きました。彼等は元々アルゼンチンの領土で英国から遠く離れた島を無血で取り返したに過ぎず、ガルテイエリは良くやったと言う称賛の言葉が返ってきました。私が領土問題は国の威信が掛かっているので、そんなに簡単なものではない。きっと、サッチャー首相は軍隊を派遣して来るよと言ったところ、例の中銀次官からお前は相変わらず生意気だなと言われました。然しそれから1週間も経たない内に、サッチャー首相の命により、チャールス皇太子を乗せた軍艦がアルゼンチンに向け、英国を出港しました。もしアルゼンチンで戦争が起これば、伊藤忠アルゼンチンの商売に大きなインパクトが出ると思い、今度は総支配人と共に再度アルゼンチンを訪問し、ミラノのスカラ座、パリのオペラ座と共に世界三大オペラ劇場と言われるコロン劇場を訪問しました。豪華な毛皮のコートを纏ったアルゼンチンの観客に、今、英国は軍艦を派遣し海上を進んでいるが、こんな危機的状況下でオペラの観劇をしていて大丈夫かと観客数人に、ポルトニョールで聞いたところ、マルビーナスは元々アルゼンチンの領土であり英国から遠く離れた島には損得を考えても、英国が軍事行動を起こすとは思えず、軍艦は脅しに過ぎない。ガルテイエリは良くやったと異口同音に言っていました。然し結果は英国海軍がアルゼンチンに到着するや、数週間で英国の圧倒的な勝利に終わり、その間アルゼンチンの軍人が数千人戦死しました。

アルゼンチン国民の変わり身の速さには驚きました。今まで軍部やガルテイエリ大統領を称賛して来たアルゼンチン国民は、戦争が敗戦で終結するや、軍部を批判し、ガルテイエリ大統領を死刑にすべきだと言う意見すら出てきました。そしてマルビーナス紛争後アルゼンチンは軍政から民政に移管されましたが、その後は、歴代民政政権は汚職とポプリズムで、アルゼンチン経済の混乱は残念ながら、収束の気配は見られません。

「マルビーナス紛争における日本の対応と大来レポート」

話を元に戻しますが、欧米の主要国は英国を支持し、アルゼンチン移民の50%以上を占めるイタリヤですら、、いち早く英国を支持しました。アルゼンチン国民にとって、この事実は大きなショックであったようです。そんな中、日本は英国も大事だし、アルゼンチンも大事だとして、態度を決め兼ねている間に戦争は終わり、日本の態度に米国、英国を含む欧米諸国は批判的でしたが、アルゼンチンは、日本がアルゼンチンに好意的中立を保って呉れたと高く日本を評価しました。(本当は態度を鮮明にしなかっただけです。) 

このマルビーナス紛争を境に、日本はアルゼンチンに取って友好国になりました。そしてアルゼンチンは戦後の復興計画を国際開発センターの理事長(元外務大臣)の大来佐武郎氏に依頼してきました。 大来佐武郎氏は30人以上のエコノミストをアルゼンチンに派遣し、マクロ経済、農業、工業, 運輸 貿易の5分野にわたる大来レポートを作成しアルゼンチンの要望に応えました。

この大来レポートは後にアルゼンチンで有名となり、アルゼンチン国民の日本を見る目は一変したとアルゼンチンの日系人は口をそろえて言っていました。このマルビーナス紛争を境に、アルゼンチンの日系人の地位が花屋と洗濯屋から大きく向上しました、例の元中銀次官は後に伊藤忠アルゼンチン会社の顧問として働いて呉れました。その後彼に会いましたが、私を褒め称え、面痒い思いをしたことを今も忘れません。

2019年7月3日  筒井茂樹