連載エッセイ21:メキシコ車旅 映画「イグアナの夜」余話 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ21:メキシコ車旅 映画「イグアナの夜」余話


連載エッセイ20

メキシコ車旅 映画「イグアナの夜」余話

執筆者:富田眞三(米国テキサス州在住ブロガー)

前回に続き富田氏によるメキシコ車旅の映画「イグアナの夜」余話をお届けします。

1964年に封切りされた「イグアナの夜」というアメリカ映画をご記憶だろうか?映画のロケ地には、メキシコ東部の太平洋岸に面する、当時は小漁村だったプエルト・バジアルタ近辺が選ばれた。そして、今回のメキシコ車旅で、我々はそのプエルト・バジアルタ近辺を旅して来た。


「イグアナの夜」のルートを楽しむ富田氏のファミリーの写真

「イグアナの夜」は1961年ブロードウェイで上演された、同名のテネシー・ウイリアムズ作戯曲をベースにして映画に翻案したもので、ジョン・ヒューストンとレイ・スタックが製作を担当し、二つのオスカーに輝くヒューストンがメガフォンを握った作品である。撮影はメキシコの名カメラマン・ガブリエル・フィゲロアが担当した。

主役を演じた、リチャード・バートン、エヴァ・ガードナー、デボラ・カーとロリータ役で一躍スターになった、スー・リオンの4人はいずれも当時彼らの絶頂期にあったことを考慮に入れると、いかにこの映画が桁外れだったかが分かる。

ヒューストン監督にとっても4人の大スターをまとめて行くことは大仕事だった。エゴの強い大スターが4人もそろえば、火花が散るだろうことは予測できた。前兆はあった。デボラ・カーの夫のピーター・ヴェルテルはエヴァ・ガードナーとの不倫がうわさされていた。レイ・スタックが嫌がるエヴァに出演を承諾させるのに、三か月かかったのも理解出来る。一方、バートンも当時不倫関係にあった、エリザベス・テイラーを伴って来ていた。

主役たちにピストルをプレゼント

そこでヒューストンはバジヤルタに旅発つ前に、4人の主役たちとエリザベス・テイラーを集めて、各人に一丁づつデリンジャーの小型ピストルをプレゼントして、こう語った。「箱の中には各々の名前を記した黄金の弾丸も数発づつ入っている。ロケ中、必要になったら使ったら良い。そうしてくれると、私に降りかかってくる面倒を回避できるからね。」

監督の思惑通り、ロケ中ピストルを使った者はいなかった。72日に亘ったロケ中バートンは朝食からビールを飲み、エヴァは演技で感じる不安を酒で紛らわせるのが常だった。スー・リオンの恋人に至っては、見境なく女優たちにいちゃつくので、監督から撮影現場に近づくのを禁じられた程で、何が起こっても不思議ではない緊迫した状態で撮影は進行していたにも関わらずだった。

ところが、主演の4大スターたちよりも遥かに大きな関心を呼んだのは、エリザベス・テイラーだった。リチャード・バートンと共演した、クレオパトラの完成後、休暇をとった彼女は主役のバートンの愛人として、ロケに加わる許可を得ていた。

世界的大スターの二人は、互いに正式に結婚した伴侶がいたため、この情事と逃避行が米国はもとより、世界中のマスコミの注目を集めたのは、当然の成行きだった。監督のヒューストンは、「バジヤルタにはイグアナより多い芸能リポーターが集結した」と後に自伝に書き残しているほどだった。パパラッチの走りが現れたのが、この時だったと言われている。

二人がメキシコ市空港に着いたとき、バートンとリズを見ようと、500人以上のファンと野次馬が殺到して、リズはファンに揉みくちゃにされ、彼女はハンドバッグと片方の靴を無くした、という。

こんな秘境が世間をはばかる愛の逃避行中の、リチャードとリズにはピッタリだった。1963年封切りの映画「クレオパトラ」で共演した、リズもリチャードは共に家庭を持つ身だったので、二人は不倫関係にあった。この映画で当時としては桁外れの700万ドルを入手したリズは、休暇をとって、三人の幼子を伴ってリチャードのロケに参加したのだった。

だが、その後結婚した二人は10年間無事に過ごした後、離婚したが、数年後二人は再婚し、一年で再び分かれた。従って、エリザベスは7人の男と8回結婚する、という記録をのこしている。そして、そんな二人がプエルト・バジヤルタに現れたので、その名は世界中に知れ渡った。

さて、ここで映画のあらすじをご紹介しよう。

ストーリーは教会牧師のローレンス・シャノン博士(リチャード・バートン)が教会の日曜学校の若い女性教師と「不適切関係」を持ったことによって、教会を追放され、神経衰弱になって入院したことから始まる。二年後、やっとテキサスの旅行社のガイドの仕事にありついたシャノンは、テキサスのミッション・スクールの女性教師たち15人を案内して、メキシコのプエルト・バジヤルタに行くのである。

シャノンは教師たちのリーダーのミス・ジュディー・フェロー(グレイソン・ホール)の姪に当たる、16歳のシャーロット(スー・リオン)の誘惑に負けて、二人だけで密会している現場を、ミス・フェローに見つかる。怒ったフェローは旅行社に圧力をかけて、シャノンを首にしようと図る。

腹を立てたシャノンは、一行の乗るバスとグループ一行を、プエルト・バイヤルタの、電話もないコスタ・ヴェルデ(みどり岬の意)ホテルに連れていけば、フェローも旅行社と連絡を取れないだろうと考えたのである。ホテルは彼の友人フレッドが経営していると思っていたが、着いてみるとフレッドはすでに亡くなっていて、今は色気たっぷりで男好きのする未亡人、マキシン・フォーク(エヴァ・ガードナー)が経営していた。

同日、ホテルに二人の客が着いた。あちこち旅して描いた絵を売って暮らしている、マキシンとは対照的にしとやかなハンナ・ジェルクス(デボラ・カー)と100歳近い祖父の詩人だった。宿賃も払えない二人のために、シャノンはマキシンに後払いで泊めてやるように、説得してやった。こうして、シャノンと彼を巡る、三人の女性が一堂に会した。

長い夜更けたころ、イグアナとさそりがうごめくホテルで、彼の弱点である、性欲とアルコールを克服しようとするシャノンを、再び17歳のシャーロットが誘惑する。それを咎められたシャノンは酔っぱらって暴れると、マキシンのホテルの二人のビーチボーイが、彼をハンモックに縛り付ける。ちょうど、彼らが食用にするために、木につないで太らせているイグアナのように…。
すると、シャノンに好意を抱くハンナがハンモックに縛り付けられた、シャノンにケシの実茶を与えて介抱した後、縄をほどいて開放してやった。その夜、ハンナの祖父は長い詩を彼女に口述筆記させる。口述し終わって彼は息を引き取る。

三人の女たちも、各々シャノンとの混乱した関係を清算するのである。シャーロットは伯母と先生たちとバスでホテルを後にし、マキシンはシャノンと二人でホテルを続けようと決心する。そして、ハンナは最後の恋のチャンスを失って、一人さびしく旅発っていくのである。(以上)

映画のロケ地・ミズマロイア

先日、プエルト・バジアルタ近辺のサユリータ(Sayulita)という、人口5000人の海辺の村で十日間を過ごした際、一日友人の大型ヨットを借りて、プエルト・バイヤルタがある、バンデーラ湾内を周航したときのことである。昼食を取りにマライカ(Maraika)ビーチのホテル・レストランに向かった。ここは陸路がまだないため、海からしか接近できない。ちょうど、半世紀前の「イグアナの夜」のロケ地ミズマロイアと同じ条件のビーチなのだ。

マライカと同様、ミズマロイアは映画が撮影された1960年代、陸路からのアクセスはなく、ここに行くには海から上陸する以外、方法はなかった。この地は無住の地だったため、電気、水道等などはなく、ビーチの後背部は2,000~3,000㍍級の西部シエラ・マドレ山脈が人間の侵入を阻んでいた。ジョン・ヒューストン監督は非社交的性格の人物で、こういう人跡稀な場所、特に海辺が好みだった。

従って同映画のプロジューサーのレイ・スタークが、ロケ地にミズマロイアを推薦したとき、ヒューストンが即決したのは、当然だった。不便な点は、ハリウッド映画の資金力があればいくらでも改善できる。映画のロケはパパラッチ、記者、カメラマン、芸能レポーターが簡単に近寄れない場所で、72日間にわたって行われた。ジョン・ヒューストンはプエルト・バイヤルタに撮影本部を設置して、村唯一のホテル・エル・パライソに宿泊した監督、出演者、スタッフ等は毎日、ヨットでミズマロイアまで出勤したわけである。


ヨットから撮影した、現在の「イグアナの夜」のロケ地だったミズマロイア・ビーチ

プエルト・バジヤルタ、「イグアナの夜」以後

バジヤルタの歴史を語るとき、「イグアナの夜」以前と以後に分けて書く必要がある。

「イグアナの夜」以前のプエルト・バジヤルタは最も近い空港のある、グアダラハーラから車で16時間かかる小漁村に過ぎなかった。今は3時間で行ける高速道路が通っている。映画「イグアナの夜」によって、バジヤルタはさなぎが蝶、それも世界的に通用する蝶に変身したのである。これはロケに来た、4大スターとバートンに同伴したエリザベス・テイラーたちを争って取材した、芸能リポーターのお蔭もあったが、「この大変身」の仕掛人と言うか、触媒の役を果たしたのが、ジョン・ヒューストン監督だった。

映画を企画、監督したヒューストンによって、映画は米国を初め世界中の映画ファンが映画館に駆け付ける、大ヒットとなり、その結果この地は世界的に有名になった。数年後、当時のロペス・マテオス・メキシコ大統領は、国策事業として、プエルト・バジアルタを一大リゾートに変貌させるである。メキシコ観光省は、古くからある漁村の南部の何もない海辺を開発して、高速道路を建設し、国際空港を開き、巨大客船が接岸できる波止場を作ったのだ。そして今では、41の4~5星印の一流ホテルがプエルト・バジヤルタに軒を連ねている。


プエルト・バジャルタのビーチでパンを売っているおじさん

あの頃、筆者はすでにメキシコに住んでいたが、政府の観光産業への思い入れは、「観光は煙突のない産業である」というスローガンによく表れており、実際大成功するのである。メキシコのビーチが一大観光資源になることをメキシコ人に教えてくれたのが、自らメキシコの海辺に釣りのための別荘を建てたジョン・ヒューストンだった。

当時のプエルト・バジヤルタは今は旧バジヤルタと呼ばれるようになり、新しく開発された、世界的リゾートの方がプエルト・バジヤルタ市になっている。今では人口も32万(2018年)に増え、年間500万の観光客が空路、海路、陸路から訪れる観光地になった。映画の封切りによって、小さな村がリゾートに大変貌した例は世界的にも珍しいと言われる。すべてはメキシコの海を愛した、ヒューストンのお蔭である。

プエルト・バジヤルタ市は、ヒューストンへの感謝を込めて市内にヒューストン広場を作り、永遠に市民の記憶に残る監督の銅像を立てた。そして、1978年、バジヤルタ市が属するハリスコ州は彼とリチャード・バートンに「ハリスコ州名誉アミーゴ」の称号を贈っている。

メキシコを愛したヒューストンにとって、この名誉アミーゴ称号は、ハリウッド大通りの「ウオーク・オブ・フェイム」に埋め込まれた、彼のプレートより嬉しい栄誉なのではないだろうか。

メキシコ車旅 終わり

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