連載エッセイ91:田所清克 「ブラジルの大衆音楽」その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ91:田所清克 「ブラジルの大衆音楽」その1


連載エッセイ88

田所清克 「ブラジルの大衆音楽」その1
A música popular do Brasil

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

(その1)

19世紀のブラジルでは、明らかにヨーロッパの影響を受けたと思われる音楽が、特に中流社会の人々のパーティや寄り合いの場で演奏されていた。

 シキーニャ・ゴンザーガの手になる「オープン・ウィングス・マーチ」(Ó Abre Alas) は1899年に発表されたが、アフリカ音楽の影響を強く受けた、カーニバルのために作曲された初めてのものだろう。

 音楽は当時、オペラ劇場もしくは野外で行なわれることが多かった。それ故に、歌手にはオーケストラやバンドの音量に負けないだけの声量なり肺活量が求められていた。しかしながら自由なリズムでシンプルな歌詞ということで誰にも歌え、結果として「オープン・ウィングス・マーチ」は急速に人気を獲得していった。

 第一次世界大戦の頃のカーニバルに、特別の共通のリズムがあるわけではなかった。真のサンバとも言えるものは1917年の、エルネスト・ドス・サントス(ドンガ)およびマウロ・デ・アルメイダの「電話にて」(Pelo Telefone) が最初かもしれない。この曲は新鮮味がありいかにもブラジル的なビートであることから、民衆の心をつかみ人気を得た。

 ブラジルの大衆音楽は、クラッシック音楽と平行して進展し、双方が影響し合った。ヨーロッパ音楽から受け継がれたギター、ピアノ、フルートといった伝統的な楽器に、クイッカ、タンバリン、時にはフライパンなどが奏で打ち鳴らすリズムと掛け合わせることによって、大衆音楽は実に豊かなものとなる。

(その2)

 1930年代に入ると、ブラジルの大衆音楽は”黄金時代”を迎える。これには強力なマスメディアの一翼を担っていたラジオの存在は看過し得ないものがある。
 通称ピシンギーニャ(Pixinguinha) で知られるアルフレード・ダ・ロシャ・ヴィアーナ・フィーリョ(Alfredo da Rocha Vianna Filho)は、この時代に活躍した作曲家にして演奏家の筆頭に挙げられるだろう。
 まず、無声映画の伴奏をする小さなオーケストラのメンバーからスタート。その後「エイト・バトゥ―タス」(Os Oito Batutas) を結成し、リオのパライス・シネマの待合室などで演奏していた。
 才能あふれ技術的な知識も確かなフルート奏者でもあった彼は、初めてオーケストラのためにショーロを作曲した人物でもある。そして、当時のオーケストラのスタイルを彼独自の技巧へと応用させながら、楽器言語の基礎ともいうべきものを作りあげたりもした。そのこともあってか、フルートの独奏者として数多くの調べを奏でたヴィアーナ・フィーリョは、芸術の域まで高めたという点で評論家たちから激賞された。
 代表作と言えば、「愛情」(Carinhoso)、「薔薇」(Rosa)、「君の髪は否定しない」(Teu Cabelo Não Nega)等であり、ご存知の方も少なくなかろう。

写真:ピシンギーニャ

(その3)

他方「イザベル村の作曲家」(compositor de Vila Isabel) と呼ばれているノエル・ローザ(Noel Rosa) [1910-1937]も、ピシンギーニャと同じ時代の人物である。
 「最後の願い」(Último Desejo)に代表される情緒的なテーマ以外に、社会情勢を主題にした「露がだんだん落ちて来る」(O Orvalho Vem Caindo)や、「酒場でのおしゃべり」(Conversa de Botequim)が好例の一般民衆向けのものなどを題材にして、大衆音楽のレンジを拡めた点で瞠目すべきである。故にその影響は、シッコ・ブアルケ・デ・オランダ、マリア・ベターニャ、マルティーニョ・ダ・ヴィーラ等にまで及んでいる。

 ブラジルでは屈指の作曲家であるアリ・バローゾ(Ary Barroso) [1903-1946]もまた、ピシンギーニャ、ノエル・ローザ、イズマエル・シルヴァ、ラマルチーネ・バーボと同世代で、このジャンルの黄金時代に生きた人である。アリ・バローゾの曲の構成のみどころは、そのリズムとブラジルの大地から湧き上がる高揚感が強調された、メロディーの緻密さにあるように思う。サンバ「ブラジルの水彩画」(Aquarela do Brasil)や「バイアーナのトレイの上で」(No Tabuleiro da Baiana)などはその好例だろう。
 彼の作品は海外でも広く受け入れられており、オーケストラやレコード会社、米国の映画会社とも契約を結ぶに至っていた。このことがナショナリストの一団から批判を浴びる要因にもなった。
 バローゾの海外への進出と宣伝に向けて一役買ったのが歌手のカルメン・ミランダである。ハリウッド映画にも出演し、すでに国際的にも名を馳せていた彼女に彼が負うところはすこぶる大きい。

写真:アリ・バローゾ

(その4)

1950年代になって、モダンジャズとは幾分異なる、ビー・ボップ(be-bop) とクール・ジャズ(cool jazz)がブラジルの大衆音楽に流入した。音楽スタイルの新たな解釈がなされ、ジャズの持つ即興性などにより、そうした流れを支持するディック・ファルネイ(Dick Farney)、レニー・アンドゥラーデ (Lent Andrade)、ルーシオ・アルヴェス(Lúcio Alves)たちは、大衆音楽の技巧面の可能性を広げる意味で寄与した。
 彼らはナショナリストの非難の的とはなったが、ボサノバの基底を築いた点で黙過し得ない。そのボサノバは、アントーニオ・カルロス・ジョビン(Antônio Carlos Jobim) 、ジョアン・ジルベルト(João Gilberto) 、ヴィニシウス・デ・モラエス(Vinícius de Moraes) 、カルロス・リラ(Carlos Lyra) 、ナラ・レオン(Nara Leão) 、ロベルト・メネスカル(Roberto Menescal) 、ジョニー・アルフ(Johnny Alf) などが、ブラジル音楽を再評価することに関心を寄せるようになる、1958年以降に発現する。
 当時の大衆音楽に劇的な変化が見られたわけではない。しかしながら、包括的な特徴を有するbossa novaは、メロディー面ではより精巧に、ハーモニーに関してはあまり伝統にこだわらず、よりくだけた解釈の下、ブラジル的特徴のリズムで、ボサノバの字義「新しい傾向」通り音楽界に革新をもたらすこととなる。
 クラッシック音楽やジャズの要素を内に孕んでいるとはいえ、ボサノバはノエル・ローザ、ピシンギーニャ、アリ・バローゾなどの、大衆音楽の作曲家たちの影響を強く受けている。が、他方において、大衆音楽とクラッシック音楽とのギャップを埋めつつ、ブラジル流というかあるいはかたちとリズムをもってこの国の音楽の魅力を存分に世界に知らしめた。

写真:アントニオ・カルロス・ジョビン

(その5)

ボサノバの発現と共にこのブラジルの大衆音楽は創造性の時代へと移り変わった。それに合わせて、あまたの作曲家や歌手を生み出した。サンパウロにあるパラマウント(Paramount) 劇場でのショーは、大衆のみならず批評家たちにも好評を得ることになり、成功へと導いた。
 このお陰でレコードの売り上げはうなぎのぼりとなり、音楽を紹介するテレビの番組も生まれる。例えば、サンパウロを拠点とするテレビ局ティヴィ・レコードの「ザ・ベスト・オブ・ボサ」(The Best of Bossa)や、同じくサンパウロのエクセルシオール テレビ局の「ジェネラル・リハーサル」(General Rehearsal) などがそうである。
 1965年には、エクセルシオール局が「ブラジルポップ音楽の最初の祭典」 (First Festival of Brazilian Pop Music)を企画・放送する。これは後に、レコード局で放送されるようになり、人気の番組となった。
個人のアパートで誕生したボサノバであるが、形式もテーマにも変化が見られたので、テレビを通じて広く大衆に受け入れられた。かくして、多くの方がご承知のシコ・ブアルケ・デ・オランダ、ジルベルト・ジル、エドゥ・ローボ、ジェラルド・ヴァンドレーをはじめ、能力のあるそうそうたる歌手が画面を賑わした。

写真:ジルベルト・ジルとルーラ大統領

(その6)

偉大な創造的な作曲家のシッコ・ブアルケ。その彼は、シンプルではあるが、詩に対するセンスも大いにあり、抒情的な曲を書き上げた。作曲家活動の後半は社会問題にも重きを置くが、初期の作品を特徴づける、形式へのこだわりを捨象したわけでは決してなかった。
一方のジェラルド・ヴァンドレーは、北東部を主題とし、この地に特有のモード・ハーモニーを民俗音楽研究の拠り所としつつ曲を製作した。
 民俗音楽と言えば、セルジオ・リカルドもヴァンドレ同様に、このジャンルに傾倒した人であろう。が、社会問題にも関心があったことでその種の曲を作っている。グラウベル・ローシャ監督の映画「太陽の地の神と悪魔」(Deus e o Diabo na Terra do Sol)のサウンドトラックは、セルジオ・リカルドの代表作にもなっている。のみならず、「失恋のジュリアーナ」( Juliana do amor perdido)や「案山子の夜」(A noite do espantalho)では彼自身がプロデュースし監督した作品でもある。
 その外、「アラスタン」(Arrastão) の作品でエドゥ・ロボは、エクセルシオールテレビ局が主催する最初のブラジルポップの祭典(Festival de Música Popular Brasileira) [1965年]で優勝を勝ち取り、1967年にも「ポンテイオ」(Ponteio)で3位に入賞している。
 1965年にはサンバ・カンソンの影響を受けた歌手で作曲家のロベルト・カルロスの主導の下に、国際的なイエー、イエー、イエー(Iê, iê, iê) の影響を受けた“若い世代”(Jovem Guarda) [1960年代の都会のロックンロール的な音楽傾向]の動きが始まった。この動きが受け入れられた背景には、音楽リズムの質や、主要な演奏者のカリスマ性、新たなスタイルを紹介するテレビ番組の登場、さらには、ロベルト・カルロス自身の名声などが考えられる。
 “若い世代”はイエー、イエー、イエーを模倣するにとどまらず、その解釈においてブラジル的要素を採り入れもした。結果として、自然でくだけたスタイルの、ボサノバの楽聖ジョアン・ジルベルトの楽曲を想起させるものにもなる。そんな中にあってロベルト・カルロスは、イエー、イエー、イエーの歌手であるというレッテルから脱皮することによって、より幅広い大衆から受け入れられるようになった。
 1967年はブラジルの大衆音楽にとって刻印すべき年であったかもしれない。つまりこの年には、都会的なダンス音楽のリズムであるマルシャ・ランショ(marcha- rancho) が成功を収め、その一方で、ゼー・ケティとイルデブランド・ペレイラ・マットスが「黒いマスク」(Mácara Negra) の作品で、カーニバル曲としては優勝の栄誉を受けている。しかも、彼らの一枚のレコードが米国でも発売され、トム・ジョビンが作曲したものを10曲も歌っているからだ。
 さらに、この年の5月のリオで開催された「国際歌謡祭」では、後世名をなすことになる気鋭のミルトン・ナシメントとグーテンベルグ・グアラビーラが紹介されもいている。音楽的天稟のある前者は、直截的で飾らない、ありのままのスタイルに真骨頂があり、高い声を活かした持ち前の歌唱力は、音楽的表現の源ともなっているように見える。

写真:ロベルト・カルロス

(その7)

カエターノ・ヴェローゾの「喜び、喜び」(Alegria, Alegria)およびジルベルト・ジルの「日曜日の公園で」(Domingo No Parque)は、ブラジル音楽においてボサノバと同じく、トロピカリズモ(Tropicalismo) という革新的な潮流を生んだ。この新たな音楽形式はトロピカーリア(Tropicália) とも呼ばれる。
 ところが名称そのものが、『大邸宅と奴隷小屋』の著者であるジルベルト・フレイレの言説であるポルトガルによる新植民地主義を想起させるということで、カエターノ・ヴェローゾはあまり好んで使用しなかったらしい。
 いずれにせよ、1960年代後半に生起したその音楽を中心にした芸術運動が、軍政下に席巻していたナショナリズムの色濃い音楽への、アンチテーゼとして発現したことは、もっと注目してよい。そして、前衛や国内のポップや外国の影響の下に、文化面に影をおとし刷新をもたらした。
 すべての美しいものを積極的に採り入れようとする動きであったことからすれば、トロピカリズモは大衆音楽とアバンギャルドのクラッシック音楽はむろん、「ジョーベン・グアルダ」との垣根をとりはらった。
 翻って、北東部に端を発する音楽は、コルデル文学(Literatura de Cordel) に基づいている。キテット・ヴィオラードやバンダ・デ・パウ・エ・コルダらは、北東部の伝統楽器であるマラカトゥ、ラベッカ、アゴゴー、サンフォーナ、ベリンバウなどを駆使して、現代的なアレンジとハーモニーの技巧による演奏で注目される。
 その一方で、マルチーニョ・ダ・ヴィオーラ、パウリーニョ・ダ・ヴィオーラ、エルトン・メデイロス等の伝統的なサンバも特筆される。例えば、作曲の才能のあり構成技巧に知悉しているパウリーニョ・ダ・ヴィオーラの場合は、ミュージカル「黄金のバラ」(Rosa de Ouro)および1965年に録音した「ローダ・デ・サンバ」(Roda de Samba)で知られるところとなる。そして1969年、レコード・テレビ局主催の音楽祭でも入賞している。昨今では、作曲家のファグネール、ベルシオール、ドミンギーニョスなどが新しい楽曲の創造に向けて挑戦している。

(大衆音楽についての執筆を終えて)
Terminando a escrita sobre a música popular do Brasil
ーMeu caro amigo Manuel Martins me ofereceu a utilíssima informação sobre essa músicaー
これまで、ヴィラ=ロボスを中心にしたブラジルのクラッシック音楽に次いで、大衆音楽について素描した。が、残念ながら現在の大衆音楽の情況については触れていない。というよりは、この数年ブラジルに出向いていないことで把握できていないことや、認識不足で言及できないのが実際である。
せめて今日の大衆音楽全般、その傾向や話題のシンガー等に関する情報なりとも言及したいと思いで、詩人にして作曲家、作者のマヌエル・マルチンスさんにその辺の事情についてメールで尋ねて見ることにした。すると、即座にメールが届いた。Manuelさんご自身も、現在の若い世代の音楽をあまり聴いておらず、分からないそうだ。それ故か、大衆音楽の現況を綴ったものではなかったが、それに増して下記の貴重な情報を頂いた。従って次回からは、これまでの論考を補筆する意味で、その情報のさわりの部分を翻訳紹介しつつ、大衆音楽についての記述を終えたいと思う。
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