高度な文明を持っていたアステカならびにインカを少数の手勢で困難を克服して征服したコルテスとピサロは、その功績にもかかわらず、内部の対立、国王の思惑に翻弄され、征服地の統治から排除されて望んでいた夢を果たすことなく、不本意な死を遂げたという共通点がある。「野蛮」な先住民にキリスト教文明を与えるという偉業を成し遂げた英雄という見方と、冷酷非道な破壊者、侵略者という否定的評価が生前からあった。二人共下級貴族の出身であったが、サラマンカ大学で法学を学んだコルテスに対し、ピサロは庶子で実父にも冷遇されろくに教育を受けていなかった。二人はほぼ同時期にエスパニョーラ島のサントドミンゴに渡り定住と遠征隊に加わることを繰り返していたが、いち早くコルテスがキューバ総督ベラスケスが派遣するメキシコ遠征隊長としてアステカに侵入した。コルテスは現地語を介するマリーナ(マリンチェ)等の通訳やアステカと敵対しているトラスカラ人を巧みに用い、1521年ついに首都テノチトランを陥した。
一方1524年にパナマ市の有力者となっていたピサロは、南に黄金の国があるという噂からアルマグロと共同出資して第1回遠征隊を出したが失敗、1529年にスペイン国王との協約を結び兵を募って1531年に再び遠征隊を率いて南下、当時首都クスコのワスカルとキートのアタワルパの南北の王の間で内戦が発生し、また北部で疫病が蔓延してバランスが崩れていたインカ帝国に侵入、北部のカハマルカでアタワルパを捕虜にし傀儡王とした後殺害、ピサロは1533年にクスコに入り多くの黄金を手に入れた。
コルテスにせよピサロにせよ、スペイン人征服者・統治者の間では戦利品の取り分をめぐって分裂・合流を繰り返されたが、それに王室が介入し利用した。滅ぼしたモクテスマ二世の遺児たちにも気を配ったコルテスも、王に無視され統治者として認めるよう起こした訴訟は引き延ばされ、メキシコで死を迎えたいと帰還を図ったが叶わず1547年12月にセビーリャ郊外で、一方ピサロもワイナ・カパックの娘との間の子ども達を含め認知や財産相続を図っていたが、1541年6月にリマの自宅でアルマグロ派により殺害された。
本書は100頁に満たない小冊子であるが、二人の征服者の人となり、戦略、征服後の統治の違い、共通していた王室の介入など要点をよく取り纏めており、優れた歴史解説書となっている。
〔桜井 敏浩〕
(安村 直己 山川出版社 2016年11月 95頁 800円+税 ISBN978-4-35048-9 )