連載エッセイ121:広橋勝造 「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その2 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ121:広橋勝造 「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その2


連載エッセイ118

「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その2

執筆者:広橋勝造 医療機器のメンテナンス会社経営 ブラジル在住50年

11.波

高校時代、良く玄界灘を泳いでいた。高校の運動場の先が海岸だったからだ。泳いだと言っても水泳は得意ではない俺は浮かんでいる程度だ。昼休みは暑い日など15分くらい20メートル程度沖に出て、涼を取ってから走って教室に戻った。間に合わず下着を着けずに制服だけを着けるのはよくあった。高校卒業後、東京に就職(九州からの集団就職は珍しく、殆どは広島、神戸、大阪、遠くて名古屋だった)、東北から来た奴等と夏には社員旅行で千葉や伊豆半島の海水浴場に出かけた。最初に行った海水浴場(多分、鎌倉あたりじゃなかったか)で初めて太平洋に浸かった。海水パンツなんか着た事がなかった(持っていなかった)俺はヘコを巻き付けて打ち寄せる太平洋の波に頭から突っ込んだ。見た目は穏やかな大きな波は俺を軽々と持ち上げ、それから海岸に打ち上げられ、俺の体は芋の皮をはぎ取るように上下ゴロゴロと回され、しっかりと結んでいたヘコが波にさらわれた。それからパニックになって、その後どうなったか記憶にない。この太平洋の大きな波にもう一度挑戦した。それはブラジル移民の時だ、移民船“あるぜんちな丸”は途中ハワイの真珠湾が一望できる岸壁に3日間停泊した。到着したその日の午後(3時頃だったかな)同船者の同年代の若者達(25~30才位)とワイキキの浜辺に繰り出した。よっしゃー! ハワイと云えばあのサーフィンだ。俺はウキウキして挑戦することにした。映画で見た事があったからどうにかなるだろう、と思って、サーフボードを20ドル程度だったか覚えてないが一時間借りた。半ズボンにアロハ・シャツ姿でサーフボードを片手に颯爽と浜辺を歩き、サーフィスタがチラホラ見える所でボートに寝そべって太平洋に漕ぎ出した。よし!見てろよ・・・。何人かのサーフィスタはボートに跨り、うねる波に揺られて夕暮れかなんかを待っている様だった。それから何分間かあの映画で見た波を求めて沖に漕ぎ出した。我に返って、今日はあの波がない様だと判断し始め、ふと後ろを見ると、あるはずのオワフ島が無い!大きな静かにうねる波は水面ギリギリにいる俺の視界を遮っていた。俺は急に鳥肌が立って恐怖に陥り、まるで太平洋のド真ん中に一人取り残されたと思った。それからが大変、戻らなくてはならない、大海原で波の中に一瞬小さく見える島に向かって一生懸命漕ぎ始めた。暫く(実際はただの5,6分だと思う)漕ぎ続けた。あっ!人の声が聞こえる。海岸の白波が目に入った。救われたのだ。生きて帰れたのだ。(今、思うに、ただの二、三十メートル沖まで出た事だと思うが自分の周りが太平洋の静かな大きな波に囲まれ世界が遮られた事でパニックになったのだろう)。海岸に精神的にヘトヘトになって這い上がり、何もなかったようなそぶりでサーフボードを返しに行った。それから“波”恐怖症で海岸が嫌いになった。美しい海岸が沢山あるブラジルに50年間、3,4回しか海水浴に行っていない。息子達がかわいそうだった。そのせいだろう、長男は水泳(潜水)の上手い女性と結婚しオーストラリア・シドニーへ移住した。

12. 横断歩道

何所だったか思い出せないが、日本のある街で信号機付きの十字路で“青”信号で渡ろうと1歩踏み出すと、信号待ちのはずの車線の先頭の小型乗用車が待っていたかの様に【プァー!】と俺に向かってクラクションを鳴らしてきやがった。全く予期しないクラクションだったから、俺は驚いて飛び上がって尻もちをつくところだった。信号機は俺には“青”で奴には“赤”である。何でだ?俺は車道に立ったまま「何て酷い事を、この野郎!」と思って車を睨んだ。車にはハゲた痩せた老人が真面目な目付きで睨み返してきた。一緒に来ていた一番下の姉―さんが「勝っちゃん!こっちよ!」と俺に注意を促した。歩道にパリの地下鉄用の階段に似た入口があった。そう云えば俺は無意識に侵入阻止のガードレールをマタイでまでして渡ろうとしていた。しかし、邪魔する車は一台もないのに、わざわざ地下道を通って向こう側に渡らなければならない日本の習慣に怒りを覚えた。これぞ、くそ真面目で受け入れられない現代日本のカルチャーショックだった。東京の友人は多分ハラハラしながら俺に同行してくれていたに違いない。無事に帰国(俺にはブラジルに戻る事)して、サンパウロの酒飲み友達が「あっ、無事に帰って来たね。幸運だったなー。多分、訪日して1週間後には病院か刑務所にブチ込まれているんじゃないと心配してたよ」・・・。本当に幸運であった。次の訪日が怖い。訪日はもう断念するか・・・。

13.ベッピンさんへの誉め言葉

俺も当り前の男だ。綺麗な、美しい女性が前を通ると「うぁー」、と身震いし“ジー”(”ジロッ“とではない)と後ろ姿を観る。それはブラジルで、である。ちょっと日本ではまずい行為の様で、目立ってしまうが、こそっと、つい見てしまう。ブラジルではほとんどの男が女性の後ろ姿、特にお尻を観る、皆がそうするから、見なかったら逆に目立ってしまう。しかし、日本ではご法度だ。日本人とブラジル人の二つの魂を獲得した俺にはこの件は大問題だ。一度、代理店をさせてもらっている広島のあるメーカーで、事件が起きた。海外営業部で会議が終わり、お茶をいただき、部署の片隅で休憩している時だった。一瞬、女性事務員達だけになった。男は俺だけだった。俺「皆さん・・・だな~」とブラジル式にお褒めの言葉を言ってしまった。スムーズに稼働していた海外営業部が急停止した。二人が席を立ってツンとして足早に何所かに行った。多分、便所だろう。残った女性も仕事を止め、俺をチラッと見たり、何やらヒソヒソ話を始めた。そこへ、ブラジルへ時々来てくれる部長が入ってきた。部長は普段と違う雰囲気に直ぐ気付き「如何した?」、一番年上の女性が部長に駆け寄り、何か部長に耳打ちした。部長「あっ、広橋さん、やっぱり、やっちゃった・・・」、それから、部長は「広橋さんは・・・でブラジルから・・・だから、悪気じゃなく・・・で、お前たちを・・・しようと・・・したんだ」と苦しい言い訳を並べて何とか女性達の爆発を抑えてくれ、俺は命を救われた。あの事件後、2年間はブラジルに対する対応がボイコットに合い、少し支障を被った。その後、ブラジルへの対応は北米支社が事務的なアメリカ式の冷たい対応をする事になった。しかし、ファイナンス方式等は自由で楽になった。

ブラジル式誉め言葉、直訳:
A. うぁー、きみー、美しいねー。  (序の口、ただのお世辞で女の子は全く喜ばない)
B. うぁっ!、俺をワクワクさせるね。 (それで?何?それだけ?つまんないわねー)
C. うぉ~!、きみー旨そう(SEXが)女の子、一日中嬉しそうになる、最高の誉め言葉)

14,南半球:

山手線の何駅か忘れたが、発車しようとしていた電車に駆け込んだ。座席は満員だったが立席はかなり余裕があった。入口ドア近くの鉄棒を握って出発に備えた。“ガタン”と逆の方向に動き始めた。確かにホームの案内看板の“何々方面”に従って正しい方向の電車に乗った、と確信していたので大驚きだ! 俺「うぁ~!エヘイ!(間違えた)!」余りの驚きで無意識に大きな声を出してしまった。その声を聴いた周りのお客さん達は何処か普通でない雰囲気を持つ俺の突然の大声で俺以上にびっくりして2,3人が飛び上がった。カバンを落とした人が1人いた。多分、彼等は突然狂人が暴れだしたと思ったのでは・・・、俺は約束の時間に間に合わなくなったと思い電車に飛び乗った事に後悔しながら、恥ずかしくて顔を上げられなかった。電車はスピードを上げ車内アナウンスを始めた【次は“○○駅”、“○○駅”です。出入口は右側です。お降り際はホームが△ですのでお気を付けください】、“○○駅”!?、意外だ、俺が行きたい方向じゃないかこれで合ってるんだよな、と不思議に思った。この電車の出発時の驚きがブラジル帰国まで何度か続いた。この不思議な現象の原因が分かった。それは俺の体に染み付いてる南半球の太陽は北にある事だった。だから東西が逆で西に行くのに東に行く様に体が感じ電車出発時に驚いていたのだ。日本人に被害を与えなかった事が幸いだ。

15,フランク・シナトラ:

ノバヨーキ(ニューヨーク)から日本メーカーの方が来伯した。弊社を訪れてくれた。商売には繋がらなかったが、接待した。夜、食事が終わってから時々行くカラオケ・バー“風”に連れて行った。和服を着たママがいて、東洋街のカラオケで一番上品な所だった。俺(よーし、英語の歌をお披露目して、喜ばせるぞ)との魂胆でフランク・シナトラの“上手いウエイ”を歌う事にした。うまいウエイのイントロのゆっくりしたメロディー(チャン、チャン、チャーララ、チャン、チャン、チャーララ)が聞こえてきた。「ヒロハシさーん・どうぞ」と呼び出しがあった。丁度ナッツを口に入れた瞬間で、口をモグモグさせながら10センチほどの壇上に上がり、無理やりナッツを飲み込み、喉にナッツの欠片が引っ掛かり苦しんだが、何とか・・・、渡されたマイクを片手に、体をリズムに合わせて少し横ぶりして、気分はフランク・シナトラになりきって、歌い始めた。・・・・・・、一生懸命、完璧な発音で英語バージョンで歌い終わり、得意顔でソファーに戻った。 ノバヨーキから来た方「広橋さん、”My Way”にポルトガル語バージョンがあるとは知りませんでした」と真面目な顔で言ってきた。俺、それ以来絶対に英語の歌を歌わなくなった。ブラジル50年の年月で体の隅々までブラジル弁が染みつき、如何しようもないのだ。

16.50年ぶりの温泉:

東京の友人、彼のお母さんが手配してくれた箱根の温泉に連れて行ってくれた。彼のお母さんには50年前、移民船あるぜんちな丸の出港まで2週間ほど世田谷区にあったお宅にお世話になった。優しい方だ。 友人が運転する車で箱根に着き、ロープウェイやガスや湯気が立ち込める場所にあるお土産屋でゆで卵を食べたり、あちこち見て歩き、夕方前に温泉旅館に着いた。早速友人「温泉だ!」、俺はもたもたして少し遅れた。彼は慣れた旅館で直ぐ俺の視界からいなくなった。シーズン外れでお客さんは少なく、まだ明るい時間で俺達独占の旅館みたいであった。チョット手間取って、旅館の浴衣を着て、湯舟に向かった。現れた湯舟の入り口に着いて、中に入ろうと、のれんを潜ろうとした時、のれんに“女湯”と記されているのに気付き、変態男の濡れ衣から逃れる事が出来た。“男湯”はその向こうにあった。50年間人前で裸になった事がなかった俺、公共の場で浴衣を脱ぐのに抵抗があったが、勇気を出して(チョット大げさ)脱ぎ捨てた。手拭を忘れ、あそこを隠すものがなかったが、湯気が立ち上る湯舟に急いで入った。友人は既に湯舟でくつろいでいた。俺「いい湯だな、ハハン、いい湯だな、ハハン、ここは・・・・いい湯だな」昔聴いた植木等かお笑いグループかの歌をなんとか思い出して口ずさみながら、お湯に入った。俺「湯舟で思い出したよ。ブラジルで毛ジラミを貰っちゃった時、困ったよ、湯舟が無くてね・・・。毛ジラミを絶滅させる為には冷たーい風呂にブルブル震えながら10分程度浸かるんだ。そうすると、毛ジラミが寒さに負けて、ぷぁ~と浮いてくるんだ。それを、2,3回続けると、やっと退治できるんだ・・・、これは一番いい方法で・・・、・・・」、そんな話をしながら、友人を見ると、“あっ!”友人ではない、見知らぬ人であった。その日本人は俺が入るのと同時に湯舟から飛び出して“さっ”と着替え室の方に走り去った。あの客、2度とこの旅館に来ないだろうなー。そう思った。悪い事してしまった。てっきり湯気の中の野郎は友人だと思っていた。今から気を付けよう。もう遅いか・・・。

17.俺が去った日本:

俺がブラジルに来てから15年ほど経った頃、ブラジル人とよくビールを飲みに行った。
俺「(日本って素晴らしいだろう!・・・で、・・・で、凄いんだよ)」酔いも回っていつもの日本の自慢話を始めた。もう聞き飽きたブラジル人「(そうだな、日本、近頃、特に経済が良くなり・・・)」、俺「(そうだろう、日本人は勤勉で優秀なんだ)」、友人「(お前の言う通りだ)」、俺「(俺の言う通りだ)」、友人「(確かに、それにはちゃんとした原因があるからなー)」、俺「(確かな原因?なんだ?)」、友人「(お前が去った国は栄えるんだ)」、途端にビールが不味くなった。

18,成田の検問所:

帰国(ブラジルへ)の為、成田に向かった。“何とかエクスプレス”が成田空港に直行するが、最後のアポイントメントのある事務所を訪ねてから、山手線やら何とか線を乗換、成田に向かった。スピードが遅い、各駅停車みたいにもたもたしながら電車は走った。それに、この電車は成田空港に乗り入れない。しまった、交通機関を間違えた様だ。成田駅に着いたが成田空港ではない。俺(如何しよう。チェックインまで余り時間がない。手荷物も少しあるし・・・)、考えた末、(空港まで直ぐそこだろうから・・・)、タクシーで行く事に決めた。想像した通りそう遠くなかった。飛行場の駐車場が見えてきた。空港の敷地内に入ろうとした所で長い棒を持った警官が立ちはだかり行く手を遮った。臨時の検問所だ。重要な要人か誰かが、乗り降りするのだろう。警官「何か身分証明出来る物かパスポートを見せてください」、パスポートと航空チケットは一緒にしてしっかりと失くさない様に封筒にしまって荷物に入れてある。あっ、そうだ、財布の中にブラジルの身分証明書(RNE)がある事に気付き(ブラジルは身分証明書を携帯して歩かなくてはならない、義務でもある。俺の想像だが、自分が死体になった時、警察に自分が誰であるか知らせるためだろう)(身分証明書だけではない、納税者番号カード(CPF)も必要だ。これは、月賦払いの買い物したりする時に必要である)どちらもクレジットカードと同じサイズで、そんなに嵩張らない。それで、何時も財布に入っている。俺は自然にRNE(外国人登録証明書)カードを、取り出して差し出した。警官はカードを見て、両手で丁寧に受取り、チラッと見た。カードはカラーでブラジル政府のマークが入り、マークと一緒に大きな青文字で“REPUBLICA FEDERATIVA DO BRASIL(ブラジル連邦共和国)”と記され、その下に小さい字で“CEDULA DE IDENTIDADE DE ESTRANGEIRO(外国人証明書)”と記されて、登録番号、クラス、期限、名前、父母の名前、生年月日、出身国、入国期日等が細かく記され、大変カッコいいカードである。特にブラジル政府のマークはアメリカのCIAやFBIのマークの様にカッコよく、カードを受け取った警官は、勘違いしたのか「ハッ、」とカードを返してくれて、一歩下がり俺に敬礼をして、タクシーの運転手に”どうぞ、通って下さい“と敏速な行動をした。俺は急に何処かの(俺にはどこでもいい)国の要人になった気分て、成田空港に乗り入れた。タクシーの運転手も少し俺に対する態度が変わり、車が止まると、走って荷物を降ろし、丁寧に帽子を取って、颯爽と車から降りた俺に挨拶した。俺は飛行機に乗るまで南太平洋の小島の偽者の要人だった・・・。

19,日本の不良少女達:

20年頃前、今の医療関係の仕事を始めた頃、9人のブラジル医師達を引率して日本メーカー訪問ツァーを行った。とにかく大変であった。その事はさておき、その時に起きたカルチャーショック事件である。ブラジル人は必ず食事にはビールが必要だ。それで、高級レストランを避け、気軽な街角の広いレストランに入った。ワイワイ、ガヤガヤ、ブラジル人が好む雰囲気だ。真面目な医師もいたが、異国に来た事で、少し羽目を外してくれた。皆、美味しい食事に満足し、おつまみを少し注文して、ビールを楽しんだ。我々ブラジル人グループからそう遠くないテーブルに6,7人の少女がビールを飲んでいる。俺にはそう映った。他のブラジル人達にもそう映ったようだ。ブラジル人“A医師”「(広橋!ちょっと、あのなー、あの後ろでビールを飲んでる少女達、不良じゃなのか?)」、俺「(さー、知りません。私もだいぶ日本を離れていたから・・・。今の日本の状況が分りません)」、“A医師”「(それにしても、未成年で良く飲むじゃないか)」、俺「(ブラジル人みたいには飲めないですよ)」、ビールを飲むかモーテルで時を過ごすしかないブラジルの内陸部のミナス州の首都ベロホリゾンテ市から来た”R医師”「(ヒロ!日本は少女にビール飲ませても良いのか?)」、俺「(勿論、ダメでしょう)」、“R医師”「(そうだろう)」、”T医師“「(でもなー、楽しそうに飲んでるじゃないか)」、”R医師“「(ヒロ、あの子達にビールをプレゼントしたいから、通訳してくれ)」、俺の了解も受けずに積極的な”R医師“はビールの飲みかけのビンを持って、少女達のテーブルに向かった。俺は慌てて後を追って「(先生、ここは日本ですから)」、もう遅かった。”R医師“は少女達の雑談に入り込んでいた。”R医師“「(私は”Roberto”、貴女のお名前は?)」、不良少女「私の名前? “かがみ(この発音はブラジル語で”私にウンコして”となる)です。貴方は“ロベルト”さん?」、何と、酔った者同志、言語が違うのに、通じるのだ。“R”「(未成年でもよく飲みますね)」、さすがにこれは通じなかった。俺は通訳に入った。”かがみ“「未成年?違います。私達未成年ではありません!」、”R”「(未成年じゃない?すみませんが、おいくつですか?)」、“かがみ”「私、30よ」、別の不良少女「私、27」、別の不良少女「私、32才よ」、“R”「(??????、嘘でしょう。すみません。独身?)」、”かがみ“「誰一人結婚していません。皆―んな独身です」、”R”「(独身!じゃー)」、大きな声で「バーモス・ファゼー・チンチン!(チンチンしよう!=乾杯しよう!)」とポルトガル語で・・・。年取った不良少女達、全員真っ赤な顔になっていた・・・、慌てて俺「チンチンって、ブラジルではグラスどうしが当たる音で、乾杯の意味です。男のアレではありません。誤解しないで下さい」、その時、“男のアレ”と言いながら、ブラジル式に、無意識に、アレのサイズを両手で示す動作をしてしまった。全く救われない俺、通訳失格だ。俺のドギツイ説明とドギツイ動作に不良少女達は目のやる場所を失くしてしまい、うつむいたり、天井を見たり、お互い視線が合わない様に努力していた。俺、もう日本市民として、日本に住む資格はない様だ・・・。

20.全日空:

帰国(ブラジルへ)の折に、馴染みの旅行社に頼んで、中継地のヨーロッパの有名な都市に2,3泊する旅行プランを作ってもらう。経費は300ドル前後増えるだけだ。それで、パリ、ローマ、etc.の観光(齢のせいで、質素に、ゆっくりと雰囲気を満喫するだけ)が出来る。楽しみだ。日本―ブラジル間の直行便がなくなったせいで、誰にも(ブラジル側にも日本側にも)気付かれずに出来るようになった。成田空港からローマまで全日空で飛び、ローマからサンパウロまではブラジルのラタン航空で飛ぶ。それで、中継地で、自動的に荷物はトランスファーしてもらい、必要最低限の軽い装備で旅ができる。チェックインの時である、係員の女性「ヒロハシ様、ブラジルにお住まいなのですか?何か証明書がおありでしょうか」、俺「あるよ。ブラジル政府発行の外国人登録証書を持っています。これです」、と何時も持ち歩くRNEカードを出した。係員の女性は、しばらくして、少し曇った顔で「もう50年もブラジルに・・・、それで、ですね、これ期限切れになっておりますが・・・」、俺「そうだね。ブラジルはね、老人にすっごく優しくしてくれる国なんだよ」、係員の女性「と?云いますと?」、俺「こう云う面倒な更新手続きなんかは老人には免除されているんだよ。だから問題じゃないんだ」、女性係員「へ~、ブラジルって老人に優しい国なんですね」、俺の説明に納得してくれて、中継地での荷物の自動トランスファー手続きも無事に終わった。それから、20分位してから【ヒロハシ様、ヒロハシ様、ゲート受付までお越し下さい】、場内アナウンスがあった。俺は驚いてゲート前の受付に行くと、さっきのチェックイン受付の女性がいた。女性「あのー、ヒロハシ様の席がビジネス・クラスにグレート・アップされました」、エコノミー・クラスしか乗った事がない俺、信じられず「えっ、それはどう云う事?で、す、か?」、女性「ビジネス:クラスでローマまで大丈夫ですよ」、その女性の優しそうな目に「日本もBRAZILに負けないような、老人に優しい国なんですよ」と伝えていた。確かに俺に伝わった。俺、二つの良い国に恵まれて幸せだなー。

「編集人からのメッセージ」
このエッセイは、広橋勝造氏が、ブラジルの南リオグランデ州在住の和田義二氏が管理
される「私たちの50年」というメール仲間に投稿された原稿を転載させていただいたものです。