連載エッセイ123:設楽知靖 「わたしの9.11.」=あのとき一週間、カラカスにくぎ付けとなって= - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ123:設楽知靖 「わたしの9.11.」=あのとき一週間、カラカスにくぎ付けとなって=


連載エッセイ 120

「わたしの9.11.」=あのとき一週間、カラカスにくぎ付けとなって=

執筆者:設楽知靖 (元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

「2001年9月11日、カラカスで」

この2021年9月11日は、”米国同時多発テロ事件”発生から20年の年が流れた。私は、あの日、ベネズエラ・ボリバリアーナ共和国の首都、カラカス(CARACAS)にいた。それは、JICA(国際協力機構)の『中小企業振興計画調査』の日本側11人の調査団メンバーの一人として、貿易構造、産業構造、投資構造分析の担当として滞在していたのである。その日は、第三次現地調査の最終日で、午前9時30分からカウンターパートである商工省(MPC)に対してドラフト・ファイナル・レポート(DFR)の内容を、各担当者が説明する会議が予定されていた。我々が滞在していたのがカラカス・ヒルトン・ホテルのアネックス(長期滞在エリア)で、その同じエリアに商工省が存在していた。我々は朝食を取って予定時刻より一時間も早く、商工省の指定する会議室に到着して、事前打ち合わせを予定して、団員で雑談をしていた。

その大会議室では、我々が入った時には、すでにテレビがつけられていて、米国CNNのニュースが流されていた。何人かの団員が、その画面を見ていたが、やがてその画面に、ニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)の火災の模様が映し出された。それは、午前8時46分にWTC北棟に一機目のアメリカン航空11便(AA-11)、ボストン発ロスアンジェルス行きが激突した直後の画面であったのだ。この時、その直後にWTC南棟に激突する直前の機影が見えた。その機影は、ボストン発ロスアンジェルス行きのユナイテッド航空175便(UA-175)であった。この映像はテレビでとらえられ、われわれはこの時点では何が起こったかわからず、ただ”リアルタイムの航空機の激突“を目のあたりにしたのだ。

従って、DFRの会議は一時間ほど遅れて開催され、その後これが”テロ“と言うことが分かった。他の二機が同時にハイジャックされていて、その一機はワシントンの国防省(ペンタゴン)に激突、それはワシントン発ロスアンジェルス行きアメリカン航空77便(AA-77)、もう一機は乗客がハイジャッカーに抵抗した結果、ペンシルベニア州シャンクスビル近郊に墜落したニューアーク発サンフランシスコ行き、ユナイテッド航空93便(UA-93)便の4機で、このUA-93便はワシントンのキャピトルヒル〔国会議事堂〕かホワイトハウスを目指していたとされている。

そして、その日の夕方は日本大使表敬が予定されていて、翌日は早朝、チェックアウトして、カラカスのマイケティア国際空港からアメリカン航空でニューヨーク経由日本へ帰国する予定であった。しかしながら、この大事件、“米国同時多発テロ”により米国の全ての空港が閉鎖されてしまった。カラカスから脱出するのはヨーロッパ経由かメキシコ経由しかない。大使館からも待機の指示があり、滞在ホテルの延長手続きと共に、メキシコへ出るため、メヒカーナ・デ・アビアシオン航空のメキシコ本社へ国際電話を入れたが、人数も多かったので”一週間後なら”と言う返事であった。仕方なく、米国内の空港再開のめどもないので、先ず、この一週間後のメヒカーナ航空のカラカスからメキシコへの予約を決断するとともに、メキシコで一泊して翌日の日本航空のメキシコ発バンクーバー経由成田行きの便を確保するために、メキシコ市の日本航空メキシコ支店へ国際電話を入れた。幸いにも、この予約ができ、なんとかカラカスから日本への脱出ルートが確保できたのであった。

さて、こうしてほっとしたが、カラカスでの一週間をどのように過ごすか、ということになり、今までのDFRのレビューと今後の調査の準備、スケジュールを連日打ち合わせることとなった。また数か月前にベネズエラの北部海岸地帯の大雨により大規模の土石流が発生したマイケティ―ア国際空港の東方の海岸線に沿ったマク―ト・ビーチのリゾートエリアなどの状況を視察した。マンションの一階に突入した何トンもある大きな岩石による被害に驚いた。

この9月11日には、ペルーの首都、リマで米州機構(OAS)の会議が開催されており、米国からは国務長官のコリン・パウエル長官が出席していて急きょ帰国した。我々のカラカスから日本への帰国については,“おわりに”のところで述べることとして、以下に、『9.11.テロとイデオロギー闘争の中での米国・ラテンアメリカ等の現代史』に触れてみたい。

1.東西冷戦の代理闘争:

私がパナマに駐在していたころ、中米のエルサルバドルとニカラグアでは東西冷戦(米国とソ連の対立)の代理闘争が行われていた。米国はパナマに運河管理と南浦方面軍の基地を持ち、一方のソ連は、1959年に革命を成功させたキューバのカストロ政権を支援して中米諸国の反政府勢力の軍事支援に力を入れていた。この地域の小国の国内闘争に対して周辺国は“コンタドーラグループ”などを結成して和平努力を重ねたが、上手くゆかず、その間にエルサルバドルとニカラグアの内戦はエスカレートし、武装闘争は激しくなり、エルサルバドルでは反政府勢力、FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)がニカラグアではFSLN{サンディ二スタ民族解放戦線}が闘争を続けていたが、最終的には、1987年、域内の中米五カ国の首脳会談により”和平合意”が成立して、1990年、ニカラグアでの総選挙、1992年にはエルサルバドル政府とFMLNの和平協定でFMLNは政治政党として認められて闘争は終結した。これらの中米闘争は、国内の格差問題が大きな原因で、エルサルバドルでは米国寄りの7家族と言われる支配層への反発、ニカラグアでは、やはり米国寄りのソモサ一族による国家の独裁が基で、その反政府闘争は1959年に革命を成功させたキューバのカストロ革命の影響が強く、1979年にソモサ政権を倒したFSLNによるニカラグア革命もキューバからのイデオロギー闘争を拡大する動きとしての、正当な選挙で成立した南米チリ―のアジェンデ社会主義政権にも影響を与えていた。また世界的には1989年11月のベルリンの壁崩壊から”東欧改革“へと世界情勢は変化し、混沌の時代へと進んだ。

2.イデオロギー闘争:

1959年のキューバ革命は、”共産主義革命“と言われているが、フィデル・カストロ自身は、米国のキューバ砂糖産業に対するキューバ国民の貧富の格差を救うためのキューバ人の自由を求めて闘争を起こしたとされ、革命の成功後に共産主義や社会主義を目指す意思はなかったとされている。革命後は米国を訪問して関係修復を図ったが、当時の米国、アイゼンハワー政権は、これを受け入れず、経済立て直しのため、やむなく”ソ連側“について、共産主義を受け入れざるを得なくなったと言われている。これによりキューバをめぐる『米ソ間対立』が生じすることとなった。これにより、ソ連はキューバを拠点として、中南米へのイデオロギー進出を図ることとなった。また、ソ連邦崩壊後は大きな支援が無くなり、カストロ首相自身が中南米地域への影響力を強くするとともに、中南米域内の左派政権誕生を後押しすることで、米国との対立が増し、域内各国の反政府闘争、イデオロギー闘争が各地で起こるようになった。

この中で、激しい闘争が起こったのがペルーである。そこでは二つの反政府組織が結成され、その一つは、1980年に中国の毛沢東思想を背景とした“ペルー共産党・センデロ・ルミノソ(輝ける道)”で1990年からワマンガ大学の哲学教授、アビマエル・グスマンが指導することとなった。このセンデロの闘争は、主に山岳、農村部を中心として、誘拐殺人という過激なテロ活動を行い、日本の農業専門家も犠牲となった。グスマン指導者は、フジモリ政権で拘束され終身刑の判決を受けて収監されていたが、運命のいたずらか”米同時テロ“20周年の今年、9月11日首都リマ近郊の刑務所で86歳の生涯を閉じた。

もう一つのペルーにおける反政府組織は、1982年にソ連・キューバを背景とするマルクス・レーニン思想を持ったMRTA〔ツパック・アマル―革命運動〕で、主にインフラ設備の爆破テロ活動を行い、フジモリ政権下で日本大使公邸人質事件を起こし、1996年12月から翌年4月まで、人質と共に公邸を占拠して、この事件はフジモリ大統領の“チャビン・デ・ワンタル作戦”によって強行突入で解決した。

その後のペルーは、ガルシア政権、トレド政権などで国際社会への修復政策により比較的安定した政治が続いている。今年は、大統領選挙の年で7月28日には決選投票で勝利したかなり左寄りのぺドロ・カスティーヨ大統領が就任した。いまだ明確な政策はわからないが、ロシア・中国寄りの政策も懸念されている。

また、ベネズエラでは、長い間、二大政党による安定した政治が続いていたが、これは石油資源の開発から精製まで欧米の石油メジャーが投資して安定した資金の還流が行われてきたことも大きな理由として挙げられるのではないか。しかしながら、二大政党制も長い年月が経つと腐敗と社会格差が表面化して国民の不満が徐々に拡大するとともに、軍の政治への関心でクーデターの様な事件が起こり、これが国民の支持を生み、大統領選挙において第三の候補が票を集めて、軍人であったホルヘ・チャベス・フリアが勝利して政権を担当する変化が現れた。このチャベス政権は左派政権で、キューバのフィデル・カストロを尊敬する人物で、急速にキューバへの接近を図り、その結果、反米色の強い政策をとるようになって、豊富な石油資源の開発投資にあたっては、ベネズエラ資本を増やす、国有化の方向を打ち出すとともに欧米以外のロシア、中国への傾斜、影響を強く打ち出すようになった。チャベス政権は、“第五共和国制”という政策で、貧困層への社会政策を石油収入によって大幅に進めることを重点とする、大衆迎合主義の推進で国民の圧倒的人気を博した。そして、国民投票により憲法を改正したり、大統領任期を延長したりの政策を取って、キューバへの接近をますます強めた。

このような中で、2013年にチャベス大統領が病気で死去。それに伴って、副大統領のマヂュロが後続者として政権を引き継ぎ、チャベス政策を継承することで”反米・親ロシア・中国”は変わらず、世界的な原油価格の低迷によりインフレの拡大などで国内経済は危機的状況になっている。このようなベネズエラの現状に対して、米国は反チャベス派の中で暫定大統領として名を挙げた、グアイド国会議長を正式大統領として認めているが、米国が直接介入してゆくことは躊躇している。それは、ロシア、中国の動向、米国自身が原油の自給体制が確立したことで、現状では、ベネズエラの最大の魅力である世界最大の埋蔵量を誇る”石油資源“に直接の魅力を感じなくなっていることが挙げられるのではないか。

3.中東と米国:

私が、社会人となってエンジニアリング企業で、最初に経験したプロジェクトの国は、”イラン”であった。その当時のイランは、イラン帝国(現・イランイスラム共和国)で、今とは国旗のデザインも違う。当時のイランは、パーレビ国王が支配し、“王の中の王”(シャーハン・シャー)と言われていた。そして、米国の支援を得て、軍の装備もすべて米国依存で、酒類は比較的自由であったが、宗教警察による治安は厳しく、また、国際空港でも英語
は殆ど通じず、メへラバ―ド国際空港からタクシーでセンターのホテルへ行くにも、片言のペルシャ語を使わなくてはならなかった.例えば,“ボロ・シナホテル″{シナホテルへ行ってくれ)といった具合で、首都テヘランの町の広告の看板も、全てペルシャ語で、町の中は、昔イギリスから輸入した、二階建てバスが走っていたが、行き先はペルシャ数字で表記されていて、大きな通りを曲がるとどこへ行くか分からないので、慌てて降りる始末であった。

プロジェクトでは、事前に現場用語集を作成して、“日本語・英語・ペルシャ語を併記して、発音はカタカナで表記”、現場赴任者へ配布した。このような事情であったが、その後出張したサウジアラビアと比較すると自由であった。このイランでは徐々に反体制派によるデモが起こるようになり、フランスに亡命していたイスラム教シーア派の教祖、ホメイニ師の影響力が増して、1979年1月16日には、ついにパーレビ―国王は国外へ(米国へ亡命後、パナマへ)、同年2月1日、亡命先のフランスからホメイニ師が帰国しての対立となった。 

これと同じ、1979年には、ソ連がアフガニスタンへ侵攻した。これが後に“タリバン政権”を生むこととなる。他方、イラクのフセイン政権{イスラム教・スンニ派}はイランと対立するとともに、隣国クウェートに対して、OPEC(石油輸出国機構)での原油生産削減による国際原油価格の上昇をもくろむ主張の対立から、1990年8月2日にイラク軍がクウェートに侵攻、サダム・フセイン政権は、その後、クウェートを自国の一つの州とすることを画策。これに対して、米国、ドイツを中心として国連の”多国籍軍“がイラクを空爆して、”湾岸戦争”が1991年1月17日に勃発することとなった。この時、サウジアラビアは多国籍軍側について、米軍に基地を提供した。

この当時、米国は、自国のエネルギー資源温存政策のために、国際メジャーを通して原油供給先を中東諸国に依存していた。中でも、原油の最大の生産国であるサウジアラビアは最も重視していた国である。そして、イスラム教の戒律のもっとも厳しいサウジアラビアは共産主義を絶対に容認しない国家として、双方利害が一致しており、米国にとって世界で重視する国であった。これは原油取引と共に、米国の最大の武器輸出相手としても米国内の軍需産業の雇用を担う観点からも大きな存在なのである。

このような背景の中で、サウジ人と言われる,ウサマ・ビン・ラディンという人物が現れ、この人物の指導を受けたと言われる”アルカイダ“が2001年9月11日に『米同時多発テロ事件』を起こした。米国はアフガニスタンにビンラディンをかくまっていたとされるタリバンに対して、身柄の引き渡しを要求したが、タリバンが拒否したためペルシャ湾に展開する米国の駆逐艦からミサイルを発射して、アフガニスタンのアルカイダに対しての攻撃を開始した。これを契機として、米国はアフガニスタンのタリバンに対して20年間の掃射作戦を展開したのである。一旦は、アフガニスタンのタリバン政権を追い払って民政移管を実現し、その間に米国オバマ政権では、ビンラディンを殺害した。

また、一方で、イラクのフセイン政権に対しても,“大量破壊兵器を所有している”との理由で,イラク侵攻を図り、フセイン政権を倒して民制化を達成させた。しかしながら、周辺国との安定や、まだ、壊滅できないISの存在など、平和は訪れない。米国の20年に及ぶアフガニスタン侵攻にもかかわらず、2021年8月末の米軍撤退と言う終幕を迎え、同時に、タリバン政権緒復権を許すという複雑な情勢は、今後どうなるか予断を許さない。

おわりに:

冒頭において、2001年911日、私はベズエラのカラカスにおいて一週間の脚止めを食ったことについて述べたが、その後、どのように帰国したかについて話を進めることとしたい。私をはじめ、11人の団員は、予め予約ができていたメヒカーナ航空で、一週間後のカラカス,マイケティ―ア国際空港を無事に出発して、メキシコの首都、ベニート・フアーレス国際空港に到着。この時点では、まだ、米国内の空港は閉鎖されたままであった。カラカスを飛行機が離陸すると,皆ホッとした様子で、予定通りに到着して、メキシコ市の中心部の、ニッコーホテルにチェックインした。翌日は、10:30発の日本航空12便、カナダのバンクーバー経由成田行きであった。早々に、朝食を取って早めに空港へ急いだ。無事に搭乗手続きを済ませて、出発ロビーへ、そこには日本航空のジャンボ―・ジェット機がすでに待っていて、一同安心した。

予定時刻に搭乗して、シートベルトを締めて出発のアナウンスを待った。定刻になっても、な、まだかなかゲートを離れず、いらいらしていると、機内アナウンス、“出発が遅れておりますが、その理由は、米国航空局への上空通過許可を取得中ですが、まだ下りない状況”とのこと。何回か同じアナウンスが繰り返されて、そのうちに昼の12時を回り、やがて昼食が配られて、みんな腹ごしらえはできたが、まだ出発はできず。そして、午後2時過ぎに、ようやく、”米国との国境に向かって飛行する“、とのアナウンスがあり、やがてジャバラを離れて滑走路へ動き始めた。そして順調にテイクオフ、眼下にはしばらくお別れのメキシコ市の街並みが遠ざかってゆく。少々のアルコールを飲んで、眼下の、かつて車で走ったメキシコ北部の緑のあまりない丘陵地帯を眺めながら順調な飛行を楽しんだ。しばらくして機長からのアナウンス”メキシコと米国の国境に向かって飛行しているが、、まだ米国上空通過許可は下りていない“とのこと。
またしばらく眼下を眺めていると機長のアナウンス、そろそろ国境に近づいたかと思ったら、”米国上空通過許可が下りないため,当機は米国とメキシコの国境から西に進路をとって、太平洋に出て、米国太平洋の米国領海の西端まで飛び,そこから北上して、カナダの領海に達したところで、東に進路を変えて、バンクーバーへ向かう“とのアナウンスであった。こうしてフライト時間は、さらに増すこととなった。

本を読んだり、一杯やったりしているうちに、やがてバンクーバー国際空港に無事に着陸。そこで給油をしたが、かなり遅れているので、成田空港到着は着陸制限時刻に間に合わないのではと心配したが、給油後に出発。そのあとは寝てしまったが、成田に近づくと、また機長のアナウンスがあり、“当機の成田到着は大幅に遅れ、午前0時を過ぎる予定”と、乗客はもはや驚かず、さらに成田に近づくとアナウンスで、”到着時刻には、すでに鉄道、バスは終了しており、日本航空が,三方向へリムジンバスの手配をしている“とのこと、それは、東京駅、新宿駅、そして、羽田経由の横浜駅行きの三方向であった。

やがて、無事に成田空港にランディング。イミグレーション、荷物の受け取りエリアも、このフライトの乗客以外は誰もいないガランとした状況で、通関をして、羽田行きのリムジンバスへ、かなり疲れたが、帰国できてホットした。バスの中では、ほとんど寝ていたが、午前3時過ぎに横浜駅に到着。すぐにタクシーを拾って東戸塚の自宅へ帰ることができた。

これが、私の2001年9月11日、米国同時多発テロの時の記憶である。

それから、20年後の2021年9月11日、テロ集団アルカイダに対する報復を行った米国は、結局、アフガニスタンから軍隊を撤退させ、タリバンが再び政権を掌握することとなり、元に戻ってしまった。今回の、ニューヨークの米国同時多発テロ事件の20年後にあたって、元マレーシア首相のマハディール氏は『一部の人物が起こしたことは、その人に集中して対応すべきで、国全体や宗教全体を問題にすべきではない。解決は交渉で、暴力は暴力を生むだけ』と述べている。皆様は、この国際情勢をどのように見ておられるでしょうか。