連載エッセイ136:桜井悌司 「好奇心の勧め」その2 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ136:桜井悌司 「好奇心の勧め」その2


連載エッセイ133

好奇心の勧め その2

執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

その1では、好奇心旺盛によって、人生が少し豊かになったということを紹介した。その2では、引き続き、異なる5つのエピソードを紹介し、好奇心旺盛によるメリットを説明したい。

「サッカーにまつわる話」

 「その1」で社会人になってはまったことが2つあると書いた。オペラについては紹介済みなので、もう一つのサッカーについて触れてみよう。サッカーに関心を持ったのは、1966年のワールドカップ・ロンドン大会の記録映画を鑑賞した時点からである。その後、1968年にスペイン研修を命じられ、1年間マドリードに滞在した。事務所がレアル・マドリードの本拠である「サンテイアゴ・ベルナベウ・スタジアム」の近くにあったため、時々見に行った。最も印象に残ったのは、フランコ総統杯(現在は国王杯)でレアル・マドリードとFCバルセロナの満席の試合であった。何故スペイン人がサッカーに熱中するのかがわかった気がした。その後、1974年から77年まで、メキシコに駐在したが、メキシコもサッカー大国で、1966年には巨大なアステカ・スタジアムが完成していた。同スタジアムや大学都市内のオリンピック・スタジアムに時々出かけた。

1984年から89年まで、チリのサンテイアゴに4年半駐在した。チリでは、割合熱心に国立競技場等に出かけた。1987年には、サンティアゴでワールドユースサッカーが開催され、10試合の通し券を3枚購入し、子供たちと出かけた。この時は、ユーゴスラビアがドイツを破り優勝したのだが、その時に大活躍したのがボバン選手(現クロアチア)であった。その後ボバンはACミランで活躍するようになり、何度も見ることができた。クロアチアのザグレブに出かけた時に、ボバンが経営するレストランがあることがわかり、早速出かけたものであった。

チリの後は、1992年セビリャ万国博覧会の仕事に従事した。滞在ホテルがリーガ・エスパニョーラのレアル・ベティス・チームのホームグラウンドであるベニート・ビジャマリン・スタジアムの近くにあったので、休日にはよく歩いて出かけたものだった。その後、かの有名なアルゼンチンのディエゴ・マラドーナが1992年にナポリからセビリャFCに移籍してきた。幸運にも、サンチェス・ピツアン・スタジアムで2度見る機会があった。やや太り気味のマラドーナであった。このスタジアムで売られる焼き栗の味は抜群であった。

1996年から99年まで、イタリアのミラノに駐在となった。アパートがACミランとインテルの両チームがホームグラウンドとするサン・シ-ロ・スタジアム(ジュゼッペ・メアッツ゚ァ)のすぐ近くにあった。スタジアムの歓声が良く聞こえ、それを聞くだけでどちらが勝っているかが判断できたものだ。赴任早々早速ACミランのシーズンチケット(年間17試合)を購入、翌年はブラジルのロナルドがインテルに加入したので、インテルのシーズン・チケットを購入し、3男と順繰りに見に出かけたものだった。当時は、イタリアのロベルト・バッジョ、デル・ピエロ、トッティ、マルディーニ、アルゼンチンのバティストゥータ、チリのサモラーノ等錚々たる選手がいた。1998年のワールドカップ・フランス大会の日本―ジャマイカ戦のチケットを4枚入手することができ、日本から呼び寄せた次男と3男と一緒にフランスのリヨンまでバスで出かけた。中山選手が日本人として史上初めてゴールをした試合であった。サンシーロで行われるミランとインテルのダービー戦は常に満席でスタジアムが真っ二つに分かれて応援合戦を繰り広げる。サッカーを見る幸せを感じたものであった。イタリアでは42回、サッカーを見学した。

イタリアから帰国後、2002年には日本・韓国ワールドカップが行われた。当たるはずがないと思ったが、家族全体でエントリーしたところ、奇跡的に静岡の準々決勝のチケット(1枚、35,000円)4枚が当たった。試合は幸運にもブラジル―イングランド戦で子供3人と一緒に出かけた。ロナウド、ロナウジーニョ、リバウド、ベッカム等が出場していた。合計20万円かかったが、子供たちは大満足であった。それ以外に、埼玉での日本―ベルギー戦、大分でのベルギー―チュニジア戦もみることができた。

最後の駐在は、サッカー王国のブラジルのサンパウロだった。2年5か月の駐在だったが、モルンビー・スタジアムやパカエンブ―・スタジアム等に合計8回出かけた。もっと行きたかったが、サンパウロでは、チケットを購入するには、スタジアムまで出かけないと手に入らないこと、有名選手がヨーロッパに出かけているため、スタジアムがなかなか満員にならず、サッカーの醍醐味がイタリアやスペインのように味わえないことが8回に終わった理由である。

このように50年以上にわたって興味を失うことなくサッカーに興味を持ち続けられたことは、ラッキーなことであった。

「展示会・見本市に対する情熱」

展示会・見本市にも憑りつかれた感がある。その理由は、展示会の組織や参加は総合的な業務であることだ。即ち、ニーズ調査から始まり、事前調査、計画立案、工程管理、出展勧誘、広報活動、各種組織業務、セミナー等イベントの組織等広範囲をカバーする業務ゆえに魅力いっぱいの仕事と言える。展示会との出会いは、マドリード研修の際に事務所が組織した「日本カメラ展」で1968年のことであった。帰国後は、東京国際見本市協会の方々と仲良くなり、東京国際見本市等の展示会をよく見学していた。1973年には、ブラジルのサンパウロで「日本産業見本市」が開催され、私も助っ人で出張した。ジェトロ史上最大の見本市で、3か月間、睡眠時間5時間くらいの激務であった。その後、メキシコに駐在になり、担当はPR/展示ということで、チヤプルテペック公園内で、「日本科学技術展」等を組織した。1984年から89年まで、チリのサンティアゴ勤務となり、毎年11月に開催される「サンテイアゴ国際見本市」の日本館(約1,000平米)を運営した。オープニングの日には、必ずピノチェット大統領が日本館を訪問し、日本大使と私がお迎えし、日本館の概要を紹介した。合計4回案内したことになる。サンテイアゴから帰国後は、展示事業部に配属され、1992年セビリャ万国博覧会事業課長となり、4年間従事した。その後展示調整課長として、ジェトロの展示事業全般をみることになり、世界の展示産業の実態を調査するために、米国、欧州、アジア、中東、アフリカに出張する機会があった。

1996年にミラノ事務所への赴任が決定した。偶然が偶然を呼ぶのであるが、赴任直前にミラノ見本公団の会長のマンフレディ氏と面談する機会があり、赴任後挨拶に出かけたところ、ミラノ見本市会場で行われるあらゆる見本市にフリーで入場できる名誉カード(Tessera di Honore)を贈呈してくれた。このカードで複数のビジターが入場できるので、友人、知人を誘うことができた。おかげで毎年,様々な業種の展示会を年間40本から50本見学することが可能となった。イタリアはデザインの国であり、ファッション、家具、家庭用品等の展示会が東京ビッグサイトの4倍の規模で開催される。工作機械、包装機械、電子電機の展示会もあるし、観光振興の展示会も眼を見張る大きさであった。

ミラノから帰国し、展示事業部長を拝命した。直接的に担当したわけではないが、韓国釜山と光州でのジャパン・フェスティバル、北京での逆見本市、アブダビでの「Japan Today」、「アルジェ国際見本市」等のために出張した。また日本展示会協会(日展協)のビジネスカレッジの講師を数回引き受けた。一連の協力もあって、展示会業界に人材教育に貢献したということで、2003年には、「日展協アワード」を受賞した。また同アワードの審査員も務めた。

最後の赴任国ブラジルでも幸運が舞い込んだ。赴任後、最初に行ったことは、サンパウロにおける見本市産業調査であった。当時、ブラジル最大のアニェンビ―展示会場を運営するアルカンタラ・マシャード社を訪問したところ、社長が、1973年のサンパウロ日本産業見本市のことをよく覚えており、当時の写真を見ながら思い出話をしたことが縁でミラノと同様のパス(駐車場も使用可)を発行してくれた。同様のパスを当時2番目の展示会場だったCenter Norte展示会場からも入手できた。その結果、サンパウロで開催される展示会を年間50回以上見学することができた。ブラジルの展示会産業は、ほとんどが商談型で日本より進んでいるという印象を受けた。

ブラジルから帰国後、更に2年、ジェトロに在籍したが、引き続き、東京ビッグサイトで開催される展示会を度々見学した。その後、2008年から15年まで、大阪府枚方市の関西外国語大学で教鞭をとったが、ここでも時おり、インテックス大阪に出かけた。またインテックス大阪の指定管理者選定の座長を務めたことも思い出である。

その後、東京に戻り、2015年7月から16年8月まで、1年2カ月、日本展示会協会の事務局長を務めた折にも、度々展示会に出かけた。この習性は、年金生活に入った今でも続いており、年に40~50回くらい展示会を見学させていただいている。展示会をみることによって、最新の技術、デザイン、新商品等を身近に見ることができるので、お勧めしたいイベントである。

「万国博覧会マニア」

1992年セビリャ万国博覧会の業務に従事した結果、万博マニアになった。セビリャ万博への日本館の運営でわかったことは、展示会業務をはるかに上回るエクサイテイングな業務であることだ。日本館の建設、展示・装飾、、催事、広報、パビリオンの運営、レストラン・ショップの管理等々多彩な仕事が待ち受けている。万博を初めて経験したのは、1970年大阪万国博覧会であった。オープニング前の日本政府館の手伝いで1週間ばかり、会場で仕事をした。会期中も米国の著名なジャーナリストに随行して、5~7時間待ちと言われた米国館やソ連館等主要なパビリオンを見学することができた。当時は、まさに日本の勃興期で会場は活気にあふれていた。その後の沖縄海洋博や筑波国際博は機会が無く、残念ながら視察できなかった。

チリのサンテイアゴ駐在も終わりに近づいて来た頃、東京本部から帰国命令の連絡があり、セビリャ万国博覧会の業務に担当課長として従事せよということであった。4年間、日本館の建設から運営まで担当した。上司は万博博士ともいうべき故竹田一平氏で、国際博覧会事務局(BIE)の経営基盤を作る上でも大なる貢献をした人である。万国博覧会とは不思議な仕事で大好きになる人と大嫌いになる人に分かれる。それほど仕事がきつく、激務なのである。この時の総合プロデユーサーは故堺屋太一氏、建築プロデユーサーは安藤忠雄氏、展示プロデユーサーは故平野繁臣氏、運営プロデユーサーは故北本正孟氏と錚々たる陣容であった。そのことは、即事務局が大変ということを意味する。しかし、私は元々楽観主義者なので、博覧会を可能な限り楽しむように心がけた。この4年間は、愛知県からの受託事業で、万博の動向やどうすれば愛地球博が投票で選ばれるかについて知恵を絞った時期であった。当時、国内でも通産省のジャパン・エクスポ事業が盛んな時期で、大阪の花博、名古屋のデザイン博、三重のまつり博、和歌山のリゾート博等も視察した。セビリャ万博の来場者は、4,181万人で、万博史上、上海、大阪に次ぐ3位であったが、文化芸術面でのアトラクションはピカ一であった。そのため、オペラ、シンフォニー、テアトロ等々大いにエンジョイした。この博覧会では、上司、同僚に恵まれ、激務ではあったが、楽しく仕事ができた。終了後、関係者全員の同窓会を10周年、15周年、20周年、25周年と開催し、毎回70~100名程度の参加者があった。

セビリャ万博終了後、韓国の太田世界博覧会も間接的に従事した。2001年に入り、イベント産業振興協会からもジャパン・エクスポの福島県のうつくしま未来博、山口県のきらら博、北九州博覧祭の 審査員を平野繁臣氏と一緒に務めることになった。ミラノ駐在中に、通商産業省の万博担当室長から電話があり、愛地球博の誘致のために、パリに出かけ、在パリの各国大使館を訪問して欲しいとのことであった。喜んでお引き受けし、開催国日本の魅力をアピールした。

マニアが高じて、それ以降のリスボン(1998年)、ハノーバー(2000年)、名古屋の愛・地球博(2005年)、サラゴサ(2008年)、上海(2010年)、麗水(2012年)、ミラノ(2015年)、アスタナ(2017年)とすべての万博を見学することになった。2020年のドバイ万博は1年延期された。行きたいのはやまやまだが、コロナの影響で行けるかどうかわからない。

ラテンアメリカ諸国の中で、オリンピックを開催したのはメキシコ(1968年)とリオ(2016年)のみであるが、万博を開催した国は一つもない。ブエノスアイレスが立候補し、2023年に開催する予定であったが、政権交代、経済低迷で中止となった。今までに、立候補都市として、メキシコのケレタロ、ブラジルのサンパウロやリオがあるが、いずれも選考段階で敗退ないしは途中辞退となっている。サンパウロについては、特に頼まれたわけではないが、どうすればサンパウロが誘致合戦に勝利するかというレポートまでまとめた。どの万博でもラテンアメリカやカリブの展示についてはいつも関心を持って見ている。過去の万博にラテンアメリカ諸国がどのように参加しているかについては、https://latin-america.jp/archives/33441を参照のこと。

「世界遺産巡り」

今は新型コロナウイルスで海外旅行もままならないが、日本では世界遺産がブームである。他国では見られないと思われる「世界遺産検定試験」という不思議なものもある。ユネスコの世界遺産条約は、1975年に発効した。日本は大騒ぎしている割には、調印したのは1992年で何と125番目であった。2021年の時点で、1154件が認定されており、文化遺産が897件、自然遺産が218件、複合遺産が39件となっている。詳しくチェックしたわけではないが、私はおそらく180件を上回る世界遺産を見ている。この数字は、旅行代理店の人に聞いてもかなり多い数字だと言われる。その背景には、世界遺産の登録数の多い国に駐在したことが挙げられる。ちなみに、私が駐在した国は、イタリア(1位、58件)、スペイン(4位、49件)、メキシコ(7位、35件)、ブラジル(12位、22件)となっている。

世界遺産に関心を持ち始めたのは、イタリアのミラノ駐在時代であった。古い世界遺産リストを見て、全部制覇したと思ったところ、サルデーニャ島でヌラゲという新しい世界遺産を見つけたことである。世界遺産は毎年増加するということがわかり、それからはしっかり調べた上で組織的に見学することにした。世界遺産の選定においては、徐々にシステマティックになりつつある。誰が見ても世界遺産と認定できるものが大部分ではあるが、中には、おやっと思うものもある。例えば、イタリアのパドヴァという歴史ある堂々たる観光都市があるが、パドヴァは世界遺産ではない。パドヴァの中にある直径100メートルくらいの丸い植物園が世界遺産に制定されている。地球の歩き方をみても1つ星で見逃すところである。私も見逃し、後に植物園を見るために、わざわざミラノから250キロを運転し、見に行ったものであった。イタリア日本商工会議所主催のツアーで、ミラノ近郊の理想の工業都市クレスピ・ダッダと古代の石の彫刻で有名なヴァル・カモニカの2つの遺産巡りを組織したが、50名近くの参加があった。

関西外国語大学時代は、家族で、ソウル、北京、西安、台北、カンボジアのアンコールワット、ベトナムのハノイとホーチミンに出かけた。北京に家族旅行に出かけた時は、抜かりなく北京の周辺の6つの世界遺産を見学した。故宮、天壇、頤和園、明の13陵、万里の長城、周口店である。韓国の大田で国際博が行われた時にも周辺の百済、新羅の世界遺産を見ることができた。

ラテンアメリカの世界遺産は壮大で、自然遺産が多く、なかなか行けないところが多い。メキシコ駐在時代は、世界遺産条約が発効したばかりで、世界遺産巡りという認識は無かったが、主要なアステカ、マヤの遺跡は見学した。チリ駐在時代は、イースター島、バルパライソ、チロエ島等の他、近隣国のペルーのクスコやマチュピチュ、ナスカの地上絵等を見学した。サンパウロ駐在時代にも、訪問済みのリオ、イグアスの滝、ブラジリアに加え、オウロ・プレット、デイアマンチーナ、ボン・ジェスス・デ・コンゴ―ニャス、サルヴァドール、オリンダ、サンルイス、パラチ―、アマゾン、セラード、パンタナルを新たに追加することができた。おそらくもう無理とはわかっているが、残されたガラパゴス、アンヘルの滝、フェルナンド・ノローニャ島には行ってみたいと今でも思っている。

「テーマパーク巡り」

 最近は、昔ほどではないが、テーマパークにも好奇心を発揮した。非日常を体験させてくれる場所である。最初に見たテーマパークは1974年にメキシコ赴任の途中で立ち寄ったロサンゼルスの「ディズニー・ランド」であった。まさに感激の一言で、その時に食べたアイスクリームの大きさにはびっくりし、米国の豊かさに感動したものだった。1977年にメキシコ駐在から帰国途上に、ハリウッド郊外のユニバーサル・スタジオに立ち寄った。この時もジョーズのコーナーでは、長男も驚いて泣き出したことを覚えている。帰国後、1983年に開園した「東京ディズニー・ランド」に早速家族揃って出かけた。

赴任地のチリ・サンティアゴから帰国の途次の1989年に、米国のフロリダ州のオルランドにあるディズニーの「マジック・キングダム」、「エプコット・センター」、「シーワールド」に行き、親子5人で楽しむことができた。2001年に開園となった「東京デイズニー・シー」にも家族で出かけた。さらにパリ出張時に日曜に重なったので、一人で電車に乗り、「ユーロ・ディズニー」に、また関西外国語大学時代には。近畿通産局のミッションで香港を訪問し、「香港ディズニー」も見学した。

その他機会を見つけ、大阪の「ユニバーサル・スタジオ」、三重県の「パルケ・エスパーニャ」、長崎の「ハウステンボス」、京都の「太秦映画村」、府中の「サンリオ・ピューロ―ランド」、安土町の「織田信長館」も訪問した。残るは上海の「ディズニー・ランド」と北京、シンガポールとフロリダの「ユニバーサル・スタジオ」であるが、もはや気力が尽きた感じである。それでも確かにテーマパークは面白い。

以    上