連載エッセイ137: 富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(上)」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ137: 富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(上)」


連載エッセイ134

100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(上)

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)


写真:メキシコ海外事情写真帳 左:飯田氏、右:北條ドクトル

20年前、メキシコで開催された、学会に参加した親戚の歯学部の教授をメキシコ大学歯学部に案内したときのことである。案内役は友人の日系3世の歯学部教授が買ってでてくれた。ツアーが終わって歯学部の建物を出ると、大学構内は多くの学生たちで賑わっていた。すると、ある学生が「先生、質問があります」と私に話しかけてきた。びっくりした私は、「先生は彼ですよ」と言って、友人を指さした。話が終わって歩き出すと、今度は女子学生が私に「先生」と言って話しかけてきた。また間違えられたのである。友人は、「彼らは自分の教師の顔を覚えていないのか?」と言ってご機嫌斜めだった。

 もちろんこの「事件」は日本の先生にも通訳したので、我々二人は大笑いしたのだった。二度あることは三度あるで、もう一人私を先生と間違えた学生が現れたのだった。


写真:https://www.odonto.unam/es/
 

10分くらいの間に三人の学生から、先生に間違えられたとは信じられないことだが、メキシコではあり得るのだ。メキシコに住む日本人、日系人は日本の5倍の面積のメキシコに一万人ほどしか住んでいないが、日系社会は歯医者さんの多いことで有名なのだ。特に日系二、三世の先生が多いメキシコ国立大学歯学部で、学生が私を教授と間違えたのは無理もない話なのである。

メキシコになぜ日本人歯医者が多いのか?

 
1910年に勃発したメキシコ革命は1917年に終了したばかりで、当時メキシコは混とんとした情勢だった。そのような時期の1917年、革命政府は日本と「日墨医業自由開業協定(El Tratado de Libre Profesion Medica)を結び、両国の医師、歯科医師、獣医師、薬剤師、助産師の両国における自由開業を許可した。メキシコは医業従事者が不足していたが、革命政府は5世紀前からメキシコを食い物にしてきた欧米諸国ではなく、新興のわが国に援助を要請したのは当然と言えば当然だった。 

メキシコ政府の資料によると、日本人歯科医師16名、医師15名、獣医師1名計33名がこの協定によってメキシコへ入国、同地での開業が許可された。ところが、日本に渡ったメキシコ人医業関係者はゼロだったことと、後ほど述べるもう一つの理由によって、1928年でこの協定は終了したが、既に開業していた医師等は既得権として診察を継続できた。なお、目賀田元メキシコ大使によると、メキシコで開業した、医師、歯科医師等は65名に及んだと言う。(霞関会会誌2015年9月28日、「私のメキシコ発見」)
 

100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さん

写真:(https://www.gaceta.UDG.com)
 

私は100年前メキシコへ渡った、日本の歯医者さんお二人と懇意にさせていただき、貴重かつ稀有な体験談を聞くことができた。お二人とも波乱万丈な前半生を送ったにしては、実に気さくで好々爺で、若かった私に厳しかった思い出を楽しそうに語って下さった。記憶に残っている範囲で、その貴重なストーリーを皆さんにお裾分けしたい。お二人とは、北條隆一氏と西村市之助氏である。

なお、私が読んだ資料中に「メキシコへ渡った日本人医師」として、ヨシザワ、オカ、歯科医として、有田Tetsusho、マツイの4名の名が挙がっていたが、お会いしたことはなかった。なお、医師、歯科医師の敬称Doctorのスペイン語風発音はドクトルなので、文中お二人をドクトルとお呼びしたい。

「北條先生の巻」
婚家を飛び出し米国へ!

 
長野県出身のドクトル北條隆一氏と出会ったのは、1960年代のメキシコ・シティーだった。ドクトルは東京歯科専門学校(現東京歯科大学)を卒業後、すべてを捨てて、ロサンジェルスに船出した。ドクトルは生家が貧しかったため、故郷の素封家の婿養子となる約束で学資を出してもらった。無事歯科医師となったドクトルは約束通り素封家の娘さんと所帯を持つと、歯科医院を建ててもらい、院長先生になった。ところが、甘やかされて育てられた妻は、両親との同居を望んだため、新婚の二人は義父母と同じ家で暮らすことになった。こんな生活が上手く行くはずがなかった。婿いびりに耐えかねた、ドクトル北條は悩みに悩んだ末、一大決心をして婚家を飛び出し、アメリカ向けの船に乗り込んだのだった。子供がいないのがせめてもの救いだったし、妻にはまったく未練はなかった。ドクトルはウイスキーグラスを手にこのような他人には知られたくない、デリケートな個人史を若かりし私に語ってくれた。

メキシコ・ノガレス市で歯科医院開業


地図:(www.baamboozle.com)

さて、ドクトル北條がサンフランシスコに着いたのは、1920年~24年の間だったはずである。何故なら、米国では20年に禁酒法が成立し、24年には排日移民法が成立したからである。斗酒なお辞さぬドクトルは、酒が飲めず、歯科医が農作業するわけにも行かないで、悶々としていると、「メキシコでは日本の歯科医師免状が通用するうえ、酒も自由に飲める」と知人から聞き、渡りに船と直ちにメキシコへ向かったのだった。

 ドクトル北條が歯科医院開業の地に選んだのは、アリゾナ州とメキシコの国境の町である、ソノラ州・ノガレス(Nogales)だった。ノガレス市は国境を挟んで、アメリカ側もメキシコ側も同じ名を名乗っている珍しい地名である。多くの場合、アメリカーメキシコ国境の都市は、メキシコ側が米国側の都市、町の数倍の人口を持っているが、現在のノガレス市もメキシコ側がアメリカの10倍の20万の人口を有し、メキシコ・ソノラ州の国境の町としては最大である。また同市はメキシコ・シティーから、アリゾナの州都フェリックスへ通じるハイウエイが通る、交通の要衝の地でもある。ドクトル北條も良い市を選んだものである。

1920年代、ノガレスにはかなりの邦人が住みついていたようで、後年、ドクトルは同市の日本人会会長を務めている。スペイン語がまったく話せなかった、ドクトルはノガレス生活が長かった、一世の飯田さんを通訳兼助手として雇い、二人で歯科医院を運営した。メキシコへ渡った、他の日本人医師も言葉が出来なかったので、通訳兼助手の手助けを受けて診療するシステムが出来上がっていた。

日本人歯科医の技術の素晴らしさと公正でプロフェッショナルな応対は、言語の不備をおぎなって余りあるほどで、患者が行列を作るほど繁盛する、北條ドクトルや西村ドクトルがいる一方、多くは言語のハンディキャップを克服出来ず、日本へ帰国して行った。一方、師匠が帰国した後、残された「見習い歯科医(odontologo practico)」たちが師匠から伝授された技術を駆使して歯科医院の運営を続行したのは、患者さんたちの要望があったからでもあった。善意からの勇み足だったが、この違法行為がメキシコ政府から咎められたことも、「協定」終了の一原因とされた。

見習い歯科医

 
しかし、メキシコ健康省は「見習い歯科医」の横行を取り締まることと歯科医不足の現状を天秤にかけて、次のような解決策を生み出した。「見習い歯科医」として10年以上の実績を持つ者に対して、一定期間の研修を条件として就業許可書を与えるとした。多くの見習い歯科医はこの制度によって、救われたのである。中には大学の歯学部に進学した者もいたという。「見習い歯科医」は日本からメキシコへ着いた歯科医師の員数が16~30名(目賀田説を加味して)とすれば、少なくともその同数の「見習い歯科医」がいたことになる。こうして100年前、メキシコへ渡って来た日本人歯科医の先生たちが蒔いた種が見習い歯科医育成に繋がり、「日本人と言えば歯医者さん」と言われるまでに育ったのである。
 
北條ドクトルから呼び寄せられて、ノガレスの歯科医院で書生として働きながら、歯学部を卒業した方を私はよく知っているが、彼の三人のお嬢さんはそろって歯科医となり、歯学部で教鞭をとっている。彼女たちは母親がスペイン人だったので、青ならぬ緑色の目を持つ美人先生としても有名である。彼女たちは北條ドクトルの孫弟子に当たる。


写真:(https://soysource.net/interview/)

 
さて、北條ドクトルは第二次大戦が勃発すると、敵性外人として、米墨国境のノガレスを追放され、貨車に乗せられてメキシコ・シティーに強制移住させられた。シティー滞在中、ドクトルは日墨協会の会長に担ぎ挙げられた。数年後ノガレスに戻ったドクトルは歯科医院を再開出来た。そのころ国境の北側には、戦後の日本で駐留米兵と結婚して、海を渡ってきた、いわゆる戦争花嫁たちが数多く住んでいた。

たまたま北條歯科医院に通院した戦争花嫁の相談にのったことがきっかけになり、親戚はもちろん知人も日本人もいない異国で悩む、日本女性たちは「悩み事」をドクトルに相談するようになった。やがてドクトルの親身な助言による人助けが評判となり、日本の外務省は、感謝の意を込めてドクトルをノガレスの名誉日本領事に任命したのである。夫婦、家庭問題で悩んだ経験を持つドクトルの歯科医院は、こうして戦争花嫁たちの米墨国境における駆け込み寺となったのである。
(この項終わり、次回は西村ドクトル編をお届けします)

参考資料:Revista odontologica Mexicana, Ciudad de Mexico abr.jun. 2018
Los primeros dentistas japoneses en Mexico y su influencia en el desarrollo
de la Odntologia. By Dr. Alberto Teramoto Ohara