『「アマゾンおケイ」の肖像』 小川 和久 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『「アマゾンおケイ」の肖像』  小川 和久


 軍事アナリスト、静岡県立大学特任教授としても活躍している著者が、母の生涯を伝記にまとめようと思い立ち、サンパウロのブラジル日本移民史料館のデータベースで1917年の第9回移民船の乗船者名簿に1903年生まれの母小川フサノ(後に小川ケイコ、桂子と名乗る)の名を見つけたことから、執筆に取りかかった。フサノ一家はブラジル移民に応募し、神戸港から若狭丸に乗船、「人間貨物」と呼ばれた劣悪な状態でサントス港に着き、サンパウロ移民収容所で1週間余を過ごした後、サンパウロから鉄道で480kmほどの契約先のファゼンダ・ダ・セーハに入った。同船者に11歳の半田知雄がおり、彼は別のファゼンダで2年働いた後サンパウロの邦字紙で働き、画家として緻密な記録による著作を多く遺したので、その著作はフサノのブラジル時代を知る上で大いに有用だった。
 過酷なコーヒー豆の収穫作業では慣れないうちは貯えができることはなかったが、次第にブラジルの食生活に馴染み、叔父に日本語の読み書きや算術、銃の使い方を習った。ついに貧しさから逃れるべくサンパウロへ逃げ出し、邦字紙『伯剌西爾時報』社の雑用係の仕事にありついた。半地下の部屋を借り、わずかばかりの給料をやり繰りしてタイプライターの学校に通い、ポルトガル語、英語の習得にも努め少しずつ給料も上がった。さらにキャリアアップを図りダンスを習い、20歳を前にダンサーでかなり稼げるようになったのだが、客の指名を受けやすくするために名前を簡単なケイと名乗るようにしたので、老年期になって興が乗ると「私はブラジル育ちのアマゾンおケイ」というのが常だった。しかし、1924年の下級将校による寡頭政権への反乱から始まったブラジル革命の市街戦で破壊された街並みを見て、関東大震災からの復興が始まった日本への帰国を決意した。21歳になっていた。
 この後、横浜から上海に渡り、戦時下の東京で暮らし、戦後のGHQ、CIAと関わり、息子(著者)の健康を考えて故郷熊本で田舎暮らしをするなど波乱に富んだ生涯を過ごし、2000年に97歳でこの世を去った。ブラジルでの生活は92頁までに過ぎないが、綿密な取材に基づく移民や下層の人たちの生活水準などの記述も実によく描写されていて、資料価値もあるといってよい。

〔桜井 敏浩〕

  (集英社インターナショナル 2022年9月 367頁 2,100円+税 ISBN978-4-7976-7416-3)
〔『ラテンアメリカ時報』 2022/23年冬号(No.1441)より〕