執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、ブラジル日報WEB版の4月18日付けのコラムに掲載されたものを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
家族含めて50人余りの参加者で記念写真
最後の移民船から半世紀の節目――「船に乗ったものだけが味わうことができる赤道祭、そしてサントス入港。人生の転機でした。この最後の移民船による半世紀の式典は、必ず来ると待っていました」。小池和夫さんは万感の思いを込めて、にっぽん丸同船者会50周年式典の開会の言葉をそう述べた。
移民にとってのサントス入港は、観光客のようなただの上陸ではない。戦前から「サントスでよーいドン!」と言われてきたように、日本の家系や学歴、経歴の一切をいったん捨て、ゼロから「よーいドン!」とやり直すスタートラインでもあると認識されてきた。
1973年2月14日に日本を出港し、3月27日にサントス港に到着した「最後の移民船」と呼ばれる客船「にっぽん丸」。笠戸丸から65年間で約25万人が船で集団移住したが、その時代はこの船をもって終わりを告げた。
その50周年を祝う式典が4月2日、サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日系熟年クラブ連合会サロンで開催され、家族を入れて50人あまりが和やかに一日を過ごした。
50周年を記念したケーキに入刀
10年ほど前までは毎月のように「同船者会」が開催されていた。移民社会ならではのこの行事だが、最近めっきり聞かなくなった。同じ植民地や移住地から出聖した人たちによる「同郷会」しかり。一世の高齢化と減少がコロニアの在り方を根底から変えている。
1973年といえば、日本経済の高度経済成長期の仕上げの時期だ。1960年、池田勇人内閣は10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表した。
1963年には名神高速道路、1964年には東海道新幹線が開業し、大都市間の高速交通網が整備された。この63年までの10年間が戦後移民のピークであり、その後は急激に減少した。
無理もない。日本は64年には東京五輪、70年には大阪万博を成功させた。その間の68年にはGNPが西ドイツを抜き、米国に次ぐ世界第2位の経済大国となった。
敗戦から20年余りで驚異的な経済成長を遂げた日本は、世界から憧憬や敬意をもって「東洋の奇跡」と呼ばれ、日本を手本とする国が現れ始めた時期だった。
ブラジルもそんな国の一つだったが、あえてそこへ日本から73年に移住した者が285人もいた。通常「移民船」といえば貨客船だが、にっぽん丸(初代)は富裕層を乗せて世界一周する「クルーズ客船」だった。
だが定員431人中、移住者が過半数の285人を占めた。だから〝最後の移民船〟と言っても良いのではないか。これ以降は「飛行機移民」の時代に変わった。
同船者会で何人かに「どうして高度経済長期の日本から、わざわざブラジルへ移住しようと思ったんですか?」と少々意地の悪い質問をしてみた。帰ってきた答えは「さあ、なんでだろうね~。ダメだと思った人は早々に日本に帰っているよね。今ここに残っている人は、なんとか生計をたてられた人。それか帰れない理由がある人、帰りたくない人じゃないかな」というサバサバした声だった。
同会の浦野敏さん(75歳、東京都出身)も「僕らも最初の10年は生きるのに精いっぱいでこんな会に出られなかった。僕ら世代は工業移住者が多いから、大成功はしなくてもそれなりのレベルで生活している人は多い。だからこうやって集まりやすいのかも」と見ている。
農業移民の場合、奥地で生きるか死ぬかの極限生活に直面した人が多く、工業移住者は手に職があって最初から都市生活した者が多いため、違いがあるのではという意見だ。
誰に聞いても「同船者の半分以上は日本に帰った」「僕らの後の飛行機移民は、半分どころか大半が帰った」という。あと10年待てば日本は戦後絶頂のバブル景気、そして日本への逆流現象であるデカセギ開始となる。そういう時代だ。
破天荒な生駒憲二郎さん
「あの時はロスで船に乗り遅れそうになっちゃって、皆さんに大変ご迷惑を掛けました」と破天荒なエピソードを披露して破顔一笑するのは、今では陶芸家として高名な生駒憲二郎さん(74歳、三重県出身)だ。若い頃には〝やんちゃ〟な時代があったようだ。
にっぽん丸がロサンゼルスの港に一晩停泊した際、10歳ほど年上の同行者から「上陸して遊びに行こう!」と誘われ、若気の至りで夢中になりつい時間オーバーしてしまったとか。
生駒さんが「右も左も、英語も分からない中、船に乗り遅れてしまうと四苦八苦していた。でも、幸いなことにその店のおかみさんが気を利かせてタクシーを呼んでくれ、ギリギリ間に合った」と言うと、すかさず横の同船者から「本当はあの時、間に合ってなかったんだよ。出航時間が過ぎたのに二人のために船が待っていてくれたんだ」と横やりが。
すると生駒さんは「まったく申し訳ない。乗船してから皆に謝って、それから謹慎していました」と笑い飛ばす。今からすれば、若き日の良い思い出だ。
そんな元気一辺倒に見える生駒さんからは、意味深な「国境を越えると人間が変わる」という言葉も。同航者の梅田正之さんが言ったらしく、生駒さんは身をもってそれを実感しているとか。
「ボクは日本で会社員をしている時、何やってもパッとしない、周りに負けるような人間だった。でもブラジルでいろいろ経験する中で変わった。もちろん、日本人という本質は変わっていないが。移住は一人モンで来た方が良いね」とのアドバイスも。
「どんな経験を?」と尋ねると、まずブラジル到着直後、〝洗礼〟を受けた。移住センターで研修中に近くのスーパーへ買い物に行ったら「いきなり脇腹らにピストルを突き付けられた。腕を上げて日本語で『参った、参った』と降参したつもりで言ったら、逆に賊に驚かれ、そばにあったレジのお金だけ奪って逃げた」との経験をした。
すぐに移住センターに帰って、その話をしたら「『参った、参った』が『Mata Mata(殺せ、殺せ)』に聞こえたんじゃないか」と言われ肝を冷やしたという。「ボクはよく襲われる。かれこれ10回ぐらいやられたかな」と驚くような経験談を話した。
このほか馬場勉(74歳、山口県出身)さんからは「船の中で誕生日を2回迎えた」という驚きの逸話も。「ちょうどボクの誕生日の2月20日に日付変更線を越えた。だから変更前と、変更後の2日続けて誕生日に。日本ではよくなかった運がこれで回ってきたと思った。ブラジルに来て子孫も残せた。成功だと思っている」と力強く頷いた。
多田邦治さん(78歳、徳島県出身)は「たまたま出港した2月14日はドルが、完全な変動相場制に移行した日だった。だから出港時に1ドル=274円だったが、次の日にはぐっと円高になった。そのおかげで円をまとめて持ってきたひとは儲けたのでは? なんで274円って憶えているかって、『フナヨイ(274)』ですよ」と笑いを誘った。
40年ぶりに同船者会に参加したという樋口道夫さんは「みんな顔が変わっちゃっていて分からなかった。でも同船者だから懐かしいね」と破顔一笑した。日本で11カ月働いて1カ月ブラジルで休暇という生活を30年間続けて定年になり、昨年10月からようやくブラジルに腰を落ち着き始めたという少し変則的な移住者だ。「日本にいるよりこっちの方が変化があって面白いね」
左から山内隆弘領事部長、挨拶をする辻哲三さん、和田和夫さん
同船者会の辻哲三会長(78歳、兵庫県出身)は開会の際、「本日はにっぽん丸着伯から50年、今や会員も寄る年波には勝てず減少傾向が見られ、自然消滅を避けるため、ケジメをつけるため、にっぽん丸最後の日を設けました。静かに消えるのが普通ですが、最後の移民船なので50周年を記念した式典で区切りを付けました」と終わりを匂わせる物悲しい言葉で挨拶を始めた。
でもすぐに「ただしこの会は存続し、55周年に向かっての門出として元気に出発したいと思います」と続けた。さらに「日本移民が一番栄えた時期は1960年代の半ばから1980年代前半だと思いますが、セアザ、コチア、南銀、さらに日本からの大型投資物件も重なり、リベルダーデ界隈は大いに賑わいました。我々がサンパウロに着いた当時は、日本移民の最盛期として栄え、リベルダーデは日本食品、寿司、旅館が立ち並び、何でも日本語で通じて便利な町でした」と懐かしそうに振り返った。
辻さんは工業移民として独特のブラジル観を持っている。「ブラジルは資源大国として立派に成長して行ける国だと思っています。ただし、超大国になるには技術不足が問題となるでしょう。(中略)カトリック王国のポルトガルの影響を受けたブラジルには、『労働は神から与えられた罰』、すなわち『原罪をつぐなうために神から課された罰なのだ』という労働を軽視した伝統を受け継ぐものである。これはプロテスタントとは全く異なる解釈で、16世紀の宗教改革や18世紀の産業革命の影響を受けずに重商主義を続けたブラジルには技術がなかなか根付かなかった」と見ている。
加えて「ブラジル人には働くのが嫌いという労働軽視、あるいは奴隷時代の後遺症が今でも続いている。我々がブラジルに着いた当時の中国はみじめな国であったが、今や世界第2位の超大国となり、ブラジルの超大国への道は遠のいた」との分析を述べた。
最後に「ブラジルで一番若い世代の日本人として一日でも長く生きて、次の55周年を迎えましょう」と明るく呼び掛けた。
辻さんは来伯すぐの1973年から76年まで進出企業のJATIC社に勤務した。昨年10月まで日本国副総理兼財務大臣兼金融担当大臣だったあの麻生太郎氏が、サンパウロ駐在時の1975年頃1年間ほど社長を務めた、麻生セメントのブラジル子会社だ。言い換えれば、辻さんは麻生副総理の元部下だ。
「麻生さんの方が4歳年上でね、今のように大政治家になるとは、あの当時まったく思いもよらなかった。何人かで一緒に料亭に飲みに行ったこともある。実に気さくな人だった。でも私的な話は一切しない人だったね」と思い出す。
辻さんいわく、麻生セメントが本業でブラジル支社を作ろうと軍事政権に許可申請をしたが、なかなか許可が下りなかった。とりあえず、本業ではない電気や空調工事をするこの会社を作って時間稼ぎをしているような感じだったとか。だが73年の石油ショックを経て、業績が悪くなったため、辻さんは76年に同社を退職。数年後には進出を諦め、この子会社自体が閉鎖されたとか。
多田さんが描いたにっぽん丸のパズル
にっぽん丸からの手紙を読み上げる多田さん
当日は馬場さんが約200枚の写真を編集した動画が上映された。横浜の移住センターでの研修中や船中の生活、サントス港上陸の様子など、思い出深い写真が次々に映し出された。
さらに童謡「靴が鳴る」の替え歌、「にっぽん丸」の歌も《海のあおさに心もそめて/夢をやさしくあたためながら/水尾(みお)あざやかな白い船/沓(とお)いあの日のにっぽん丸よ》と全員で合唱された。多田さんが詩を考え、30周年の時から歌っている。
家庭ごとに近況報告をする際、くじ引きが行われ、パズルのように絵の断片を少しずつ組み上げていくアトラクションも行われた。最後に現れたのは、もちろんにっぽん丸の絵だった。これも多田さんの労作だ。
最後は「にっぽん丸からの手紙」も披露された。壁に貼られた5メートルほどの巻紙には、最初は覆いがかけられて文面が読めなかったが、所々に穴があけられていた。そこに参加者が思い思いに自分の名前を書き込んでいった。
最後に覆いが御開帳となり、擬人化されたにっぽん丸から同船者への手紙《1973年2月14日に横浜を出ました。寒い桟橋で皆さんと初めてお目にかかった時は、日本にもこんなに希望に輝く青年たちがいたのかと胸が熱くなった一瞬でした》という内容を多田さんが読み上げた。
参加者が自分の名前を書き込んだ箇所は、《花嫁として乗船された女性の「中村」さん、「多田康子」さんのお顔ににじむ決断と覚悟にはさしあげる言葉が見つからないほど感動しました》のように文章に自然に組み込まれていた。実に凝った演出で、これも多田さんが考えたものだった。
同船会はいくつか取材してきたが、これほど愛情の籠ったアトラクションが幾つも行われるのは珍しいと感じた。
「国境を越えると人間が変わる」のではなく、「国境を越えた先の異文化に、自分を変えてでも適応できた者だけが移住先に残る」のではないか。であれば、同船者は、移民人生の激戦を共に勝ち抜いてきた〝戦友〟のような関係かも。取材後、後ろ髪をひかれる思いで会場を後にした。(深)