2010年のワールドカップ南米予選、2008年の緒戦は世界上位の常連アルゼンチンにとってかつて無い苦戦続きで、このまま予選敗退という声まで挙がっていた。監督と選手との間で気持ちがつながらないまま下位国にも負けて士気がどん底まで落ちた時、代表監督に名乗りを挙げたのが、1979年から三度代表としてワールドカップに出場し、1986年ドイツ大会決勝のイングランド戦で相手デフェンス5人抜きと“神の手”(ハンド)によるゴールで優勝の立役者だった名選手ディエゴ・マラドーナであった。ドラッグや数々の不品行を起こしたにもかかわらず、最貧困層から這い上がった彼はアルゼンチン・サッカー界の神様といわれる絶大な人気が衰えていなかったものの、監督としての力量はまったくの未知数、というよりも直情・直感の彼が監督になることは反対が多かったが、起死回生を願うファンの声とアルゼンチン・サッカー協会長の判断で2008年11月に代表監督に就任する。
しかし、むべなるかな新体制発足直後からヘッドコーチが決まらず、監督経験豊かなカルロス・ビラルドがテクニカル・ディクレターという聞き慣れないポストで一緒にやることになったが一向に活用せず、相手を気遣わぬ言葉遣いが代表チームの司令塔であった名選手リケルメの代表不参加宣言になるなど、チームの士気が空転するなかで、初戦のベネズエラには快勝したものの、ラパスでのボリビア戦では6対1と大敗した。高地での試合への備えについて数々の助言があったが、モラエス大統領と個人的に親しく、国際サッカー連盟が高地での公式戦を規制しようとしたことへの反対に同調した彼は、高地ゆえの特別な対応をあえてしなかったことも敗因と見られた。その後もコロンビアに辛勝、ホームでは34試合無敗だった強敵ブラジルに1対3で敗れ、エクアドルにも抜かれて5位のプレーオフ出場ラインまで後退したものの、パラグァイとの最終戦で暴風雨の中のロスタイムに決勝ゴールを奪い、かろうじて4位で南米予選を突破するまで345日間の、マラドーナの言動と彼を取り巻く選手、協会、マスメディアとの葛藤を詳細に追ったドラマの記録である。
著者は、マラドーナにあこがれて1989年にアルゼンチンに渡り、以後アルゼンチン・サッカーについて現地から発信し続け、『マラドーナ自伝』(ダニエル・アルクッチ 幻冬舎)の訳書もある、マラドーナとアルゼンチン・サッカーについて日本語で語るには最適のライターである。
〔桜井 敏浩〕
(河出書房新社 2010年5月 254頁 1,500円+税)