『使者と果実』 梶村 啓二 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『使者と果実』  梶村 啓二


1939年のハルピンで、当時の満州国国務院外事部に勤務する百済タダシと、マゴエは音楽好きで学生時代からの友人同士だったが、チェロを嗜むタダシが音楽学校の練習場で、ピアノに安らぎを求める、満州に進出してきた倉橋醸造の社長夫人奈津と知り合い、音楽仲間の域を超えて急速に恋愛関係を深めていくことにマゴエは危惧を抱く。時あたかもドイツではナチスが権勢を欲しいままにし、第三帝国の威信のためベルリン・フィルハーモーは帝国オーケストラになり、宣伝相ゲッペルスの指示で楽器の名器を集めていた。“独立”後間もない満州国と関東軍はドイツとの関係強化のため、さる伯爵家が欧州で手に入れた1730年代に制作されたチェロの名器ドメニコ・モンターニャを買い取り、これをゲッペルスに献呈する計画を立て、マゴエはベルリンまで運ぶクーリエにチェロの素養があるタダシを推挙し、奈津との関係を断たせることにした。

しかし、倉橋夫妻も同じ時期に独満修好条約記念民間使節団に加わりベルリンへ赴くが、出発直後の関東軍憲兵隊の家宅捜索で倉橋社長がソヴィエトへの情報提供者である証拠を掴まれ、呉憲兵少佐、マゴエもベルリンに出張し、夫妻とそしてタダシを厳重監視下に置く。マゴエに説得されてタダシの官僚としての将来を考え、関係を断った奈津だが、マゴエから倉橋夫妻のスパイ容疑での逮捕が迫っていることを知らされたタダシとベルリンで会い、中立国アルゼンチンへの駆け落ちを説得されて、スイスで落ち合う約束をし、二人は脱出行を決行し、タダシはその資金調達のためにモンターニャを密かに売却する算段をつけて、ついにブエノスアイレスに到着する。

2004年のブエノスアイレス、勤務先の中堅商社が倒産し、婚約者も失った平悠一は、アルゼンチンワイン輸入の個人会社を興し、ブエノスアイレスを拠点に各地のワイナリーを訪れて未だ知られていない良酒のオーナーから日本総代理店契約を取り付けるべく奮闘していたが、行きつけの酒場でチェロを弾く日本人の老人タダシと知り合い、4か月ほど付き合いが続いた後にその満州からベルリンを経てブエノスアイレスまで来た身の上話を聞く。モンターニャをスイスで密かに売却し、奈津とともにブエノスアイレスに逃げ、幸福な数十年の生活を過ごしたが17年前に先立たれたと語った老人は、その後幾ばくもなくひっそりと亡くなり、その遺品整理を酒場の主人に頼まれた悠一が遺されたチェロと僅かな遺品を検分すると、そこにはどんでん返しの結末が….。

ハルピンからベルリン、スイスを経てブエノスアイレスを舞台にして当時ならではの政治謀略が絡んだ物語りと、第二次世界大戦前夜から2006年に至る関係者の前後する回想が行き来する、読者を引き込む恋愛小説である。

(日本経済新聞出版社 2013年2月 336頁 1,600円+税)