執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、12月5日付けのブラジル日報の記者コラムとして掲載されたものを、同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
《戦争屋でラテンアメリカのクーデターを組織したキッシンジャーは、ノーベル平和賞まで受賞》と報じるブラジル最大の独立系ニュースサイトBrasil24711月30日付
ラテンアメリカ諸国で軍事クーデターを組織した戦争屋
ブラジル最大の独立系ニュースサイトBrasil247は11月30日付で《戦争屋(Senhor da Guerra)でラテンアメリカのクーデターを組織したキッシンジャーは、ノーベル平和賞まで受賞》(1)と、その死に際して報じた。
日本や欧米ではどちらかといえば経歴の「功」の部分を中心に、「罪」を補足的に報じるというニュアンスを感じる。だがブラジルにおいては明らかに「罪」が強調する記事が多かった。なぜそうなるのか。いまだに彼の〝業績〟の負の部分が生々しく残っているからだ。
チリ外交官「深い道徳的悲惨さを隠なかった男」
南米の歴史においてキッシンジャーの「罪」が最も言及されるのは、計3千人以上の死者・行方不明者を出し、数千人の政治犯を拷問したチリ軍事独裁政権(1973―1990年)による左派弾圧と反体制派迫害を、彼が支持した点だ。
BBCスペイン語版5月27日付《ヘンリー・キッシンジャーが100歳に:ラテンアメリカで数千人の死者を出した「汚い戦争」を支持し、物議を醸したノーベル平和賞受賞者》(2)にはこうある。《ラテンアメリカは、冷戦がしばしば熱い対立に発展した地域で、キッシンジャーの影響力を直接体験した地域のひとつである。(中略)
たとえば、1970年にキッシンジャーが当時アメリカ大統領のリチャード・ニクソンに、チリの社会主義大統領サルバドール・アジェンデの民主的な選挙は「この半球でこれまでに直面した最も深刻な挑戦のひとつ」だと指摘していたことが、これらの文書からわかる。
キッシンジャーは、南米の国が「選挙で選ばれ、成功したマルクス主義政権」の見本になることを恐れ、CIAのリチャード・ヘルムズ長官に、「チリが(共産主義の)犬になる」のを(ワシントンが)防ぐと伝えた》とある。
11月30日付AFP通信によれば《キッシンジャー氏は1970年6月(アジェンデ大統領選挙前)、政府委員会で「自国民の無責任のせいで国が共産主義化していくのを、なぜ黙って見ていなければならないのか分からない。チリの有権者に自分で決めさせるには問題があまりにも重要だ」と語った》とある。その国の国民の意思決定よりも、米国の国益を優先するという冷徹な発想がそこにはある。
さらに同記事には、《チリの外交官で元アジェンデ政府高官のフェルナンド・レイエス・マッタ氏は「キッシンジャーのチリへの執着は、社会主義ユートピア計画に向けて前進するためにアジェンデが選択した(民主的)道に対するものであった。この実験が成功すればイタリア、フランス、ギリシャなどの欧州諸国に広がる可能性がある」と語った》と分析されている。
その結果、民主的に選出された左派サルバドール・アジェンデ政権が1973年9月にCIA支援のクーデターで打倒され、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事政権が確立された。だからヴェージャ誌サイト11月30日付は《「深い道徳的悲惨さ」:ヘンリー・キッシンジャーの死に対するチリ国民の反応》(3)という記事で、《(キッシンジャーの訃報に際し)フアン・ガブリエル・バルデス駐ワシントンチリ大使は、「歴史的輝かしさにもかかわらず、その深い道徳的悲惨さを決して隠すことができなかった男が亡くなった」と書いた。このメッセージは、外交官としては異例の厳しい口調であり、それがガブリエル・ボリッチ大統領によって共有され、キッシンジャーが数十年経った今でもこの国に引き起こしている深い不快感を明らかにしている》と書かれている。つまり、左派ボリッチ大統領の怨念がこもった投稿共有だった。
アルゼンチン「汚い戦争」を容認
国務長官時代(1973~77年)のヘンリー・キッシンジャー(U.S. Department of State from United States, Public domain, via Wikimedia Commons)
キッシンジャーは、アルゼンチン軍事政権が起こした「汚い戦争」(スペイン語: Guerra Sucia)(1976―1983年)にもお墨付きを与えていた。アルゼンチンの軍事独裁政権は反政府運動家鎮圧を国家再編プロセスと称して暴力、迫害、拷問、失踪などのあらゆる超法規的手段をとった。中には、反体制活動家を生きたまま飛行機から海に投げ込む「死の飛行」などの残虐行為まで行われていた。その犠牲者には労働組合員、学生、ジャーナリスト、マルクス主義者やペロン主義者のゲリラ、その同調者など数千人の左翼活動家が含まれていた。
2016年2月13日付BCCワールド《物議を醸し続けるヘンリー・キッシンジャーの遺産》(4)には、この「汚い戦争」をキッシンジャーが黙認していたとある。《機密扱いを解除された文書や伝記に基づいて記憶されているもうひとつのエピソードは、1976年にアルゼンチンで起こった軍事クーデターへの参加である。
国家安全保障アーカイブの機密解除されたファイルによれば、キッシンジャーはアルゼンチン軍に対し、同国のゲリラや左翼運動に対する弾圧を指して、「汚い戦争」を一刻も早く終わらせるよう促した。
1976年のクーデターの1カ月後、キッシンジャーは当時のアルゼンチン外相セザール・グゼッティに、「彼ら(軍部)に成功してほしい、早ければ早いほどいい」と語り、同国における人権侵害の疑惑をごまかした。アルゼンチンの軍事政権時代(1976~1982年)に失踪した人数は8千~3万人と推定されている》つまり「超法規的処置(処刑)を早く終わらせろ」というのは、その行為を「辞めろ」と言っているのではなく、「早く始末しろ」と促しているのだ。
「超法規的手段(処刑)を引き続き使用せよ」
当然のこと、キッシンジャーはブラジルにも深く関係した。30日付G1サイト《キッシンジャーは独裁政権を支持し、冷戦時代にブラジルを米国の同盟国に変えるために尽力》(5)には次のような記述がある。《たとえば、当時のCIA長官が作成してキッシンジャーに送った1974年のメモでは、エルネスト・ガイゼル将軍が大統領在任中に敵対者の処刑を許可していたことが明らかになった。
この文書は2018年に米国政府によって公開された。文書には、軍がブラジルは「テロリストと破壊勢力の脅威」を無視することはできず、「危険な破壊勢力に対しては超法規的手段が引き続き使用されるべきである」と述べたことにも言及している。
文書によると、処刑には最終的にガイゼルの後を継いで大統領となったジョアン・バプティスタ・フィゲイレド将軍の承認が必要だという。
1976年2月、プラナルト宮殿で行われたキッシンジャー、ガイゼル、その他のブラジル当局との会談で、ブラジル大統領は民主化プロセスを迅速に実行することはできないと述べた。するとキッシンジャーは「(そのことで)米国から圧力を受けることはない」と応じた》
つまり、ブラジル内の共産主義勢力を抑圧するためには人権尊重は必要なく、超法規的な処置(処刑)で対処されるべきであり、米国から軍事政権を民政移管すべきだと圧力を受けることはないというお墨付きをキッシンジャーは与えている。
同G1サイト記事は『キッシンジャーとブラジル』という著書のあるゼトゥリオ・バルガス財団国際関係教授で米国プリンストン大学客員研究員のマティアス・スペクター氏のコメントとして、《「1964年にブラジルで軍事クーデターが起こったとき、南米で唯一の独裁国家はパラグアイでした。10年後の1974年、独裁国家ではない国はコロンビアとベネズエラの2カ国だけだった。キッシンジャーの時代は、民主的な南米から独裁的な南米への変革と一致している》と紹介している。
国境を越えて左派弾圧したコンドル作戦
1976年にキッシンジャーに挨拶するアウグスト・ピノチェト(Ministerio de Relaciones Exteriores de Chile., via Wikimedia Commons)
これらの動きの極め付きがコンドル作戦だ。2日付オウトラス・パラボラスサイト《ブラジル、アメリカ、「西半球」(2)》(6)の中で、ジャーナリストのジョセ・ルイス・フィオーリ氏は《彼(キッシンジャー)の代表作である『世界政治におけるアメリカの戦略』が1942年に出版されてから30年が経過していたが、キッシンジャーは依然として、この地域に別の「半球の大国」が出現することを容認できないと考えていた。1971年にボリビア、1973年にウルグアイとチリ、1976年にアルゼンチンの選挙で選ばれた政府を転覆させた暴力的な軍事クーデターを支持したのはこのためである。また、アルゼンチン、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイの軍隊の情報機関を統合し、これらの国の政治的野党の人物を誘拐、拷問、殺害したコンドル作戦にも手を貸したという紛れもない証拠がある》と書く。
この「コンドル作戦(スペイン語:Operación Cóndor)とは、米国の支援を受けて主に南米大陸南部の軍事独裁政権によって実行された、国境を越えた政治的弾圧のことだ。これには、他国に亡命した政敵を諜報機関が暗殺する作戦が含まれていた。
これはチリの独裁者アウグスト・ピノチェトの要請により、1975年11月、チリの秘密警察DINA長官マヌエル・コントレラスは、コンドル作戦を実施するため、チリ、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ブラジルから50人の諜報部員をチリに招待。のちにエクアドルとペルーも参加した。
コンドル作戦の秘密的な性質のため、コンドル作戦に直接起因する正確な死者数には多くの議論がある。一部の推定では、少なくとも5万人の死亡者、3万人の行方不明者、40万人の逮捕が行われたと推測されている(7)。主な作戦行動は1976年から1978年の間に行われた。
キッシンジャー支援の軍政への揺り返しが現在の「ピンク・タイド」へ
2019年9月のキッシンジャー(U.S. Department of State from United States, Public domain, via Wikimedia Commons)
キッシンジャーが南米で「戦争屋」と呼ばれている陰には、このような〝業績〟がある。昨年のルーラ大統領選当選を受けて、22年10月31日付時事通信は《左派政権、南米10カ国中7カ国に=「ピンク・タイド」最高潮》の中で、《南米の「ピンク・タイド」(ピンクの潮、共産主義化=赤化までいかない左傾化)は最高潮を迎えている》と報じた。
コラム子が見るところ、南米諸国の政治体制は「デフォルト(初期設定)状態」が左寄りという特徴がある。植民地から独立という歴史的な経緯による経済発展の遅れ、世界最悪の格差社会に伴う社会的な矛盾などの歪が集中しており、それが国民からの左派シンパシーを生むのかもしれない。
放っておくと社会主義化・共産主義化しがちだから、かつて米国はキッシンジャーなどを通してCIA工作を行い、南米に軍事政権を林立させ、強引な右への揺り戻しを行っていた。ここで振り子が強烈に右に触れたことにより、民政移管後に揺り返しが起きて、2000年代から南米諸国で左派台頭「ピンク・タイド」が起きた。さらにその後、この左派台頭に対抗して、右派による揺り返しが起きるなどのサイクルを繰り返している。
その意味で、キッシンジャーの〝遺産〟は今もはっきりと南米に傷跡を残している。(深)
(2)https://www.bbc.com/mundo/noticias-america-latina-65726655
(4)https://www.bbc.com/mundo/noticias/2016/02/160212_polemico_legado_henry_kissinger
(6)https://outraspalavras.net/geopoliticaeguerra/o-brasil-eua-e-o-hemisferio-ocidental-2/
(7)https://web.archive.org/web/20070628021303/http://www.el-universal.com.mx/editoriales/34023.html