執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
古都バイーアを私が度々訪ねたのも、アフリカ関連の研究目的だけではなかった。大西洋に面する古いItapuãのかつてのありありとした面影を残したDorival Caymmi
の、わけても海の歌が好きだからである。彼の自国への限りない情熱、サンバ再創作はもちろんのこと、海への思いは特筆大書すべきかもしれない。ことほど左様に、歌い手にして作曲家のカイミは、Itapuã 地区の牧歌的な美しさを歌に綴っている。
叙情をそそる彼の好んだテーマのメインは、漁師の日常、アフリカ文化の根源、バイーアの海にあるように思われる。詩的感興をもって自らの海への思いや感情が美しいハーモニーとメロディーの中でviolãoを介して表現されている。言うまでもなく、彼のサンバと海にまつわる歌はバイーア独特の文化風土に想を得たものに他ならないが、Caymmi
が1940年以降、この国のmúsica popular に与えた影響は小さくない。
ともあれ、Dorival Caymmi はItapuãの顔であり、彼の作品、例えばO MarやSuíte de Pescador には潮の香りさえ漂っている感じがする。
O mar quando quebra na praia/ É bonito, é bonito… [O Mar]
Minha jangada vai sair pro mar… [Suíte de Pescador]
上記2つの歌詞は、Shim Leandro氏と、帰郷前にカフェで訳している。ずいぶん昔、本場のItapuã の海に面する一流海鮮料理店Iemanjáを学生さんと訪ねたことがあったが、そこにはCaymmi
の音楽を愛し思い起こす自分があった。
” Você já foi à Baía nega? “君ってバイーアに行ったことある?
” Não. “いいんや
” Então vá. それじゃ、行きなさいよ。
日本流に言えば、「バイーアいいとこ、一度はおいで」ということだろう。
ところで、バイーアとは一般にサルヴァドールを指す。が、1549年3月29日、ブラジルの初代総督であるTomé de Souza が全聖徒湾(Todos os Santos)に投錨し街を建設したことから、Salvador にはCidade
de Tomé de Souza の名で呼ばれることもある。先に、Salvador は黒人系住民と、教会、礼拝堂が数多あるので、「黒いローマ」という呼び名をもっていることも紹介した。
そのSalvador の花的存在はやはり、美しい黒人女(negra baiana)かもしれない。刺繍した大きなスカート(saia)、絹布の頭巾、肩にはショール、原色の大袈裟な首飾りや耳飾り、腕環、そして時には、頭上に花一杯の鉢を乗せて盛装したバイアーナが、目抜通りに佇んでいたり、悠然と街路を歩く様は絵になり、この都市には欠かせない観光要素であることは疑いない。
Igreja de Nosso Senhor do Bonfim の祭日や、Candomblé, Macumba [キリスト教とブードウー教の混交した呪術]といった宗教儀礼における正装と同じ白い衣装で市街を練り歩く光景はけだし壮麗である。
最初の総督Tomé de Sousaは1549年、兵士、官吏、コローノのみならず、職人、はてはトウパン(Tupã)を崇める先住民インディオを教理するためのイエズス会士を伴ってブラジルに到来した。
かくして、気候、肥沃な土壌massapê に恵まれたzona da mata地帯、わけてもバイーア州はペルナンブーコ州と共に、砂糖文明が華開き殷賑を極めた。当初は、サトウキビ栽培の労力を担っていたのは、ポルトガル人とインディオの混血児であったマメルツコ(mameluco)であったが、間もなくアフリカの西海岸から強制離散された黒人が主流となる。
ともあれ、砂糖産業は経済サイクルが南東部に移り、と同時に、アンテイール諸島での同産業が勃興することによる競合の結果、凋落するまでの植民地時代を通じて、ブラジルを支える基盤となっていたのである。砂糖産業は昨今、南東部のサンパウロにその首位の座を奪われているものの、北東部、なかんずくペルナンブーコ州やアラゴーアス州を中心に、重要な産業であることには変わりがない。
サトウキビは北東部では7月~11月に植え付けられる。それに対して南東部では、10月~3月とそれが異なる。伐採•収穫の時期も、北東部が12月~3月、南東部は5月~10月にかけてである。
この事実はブラジル経済にとってきわめて重要な意味を持っ。つまり、アルコールと砂糖の生産が、異なる地域と異なる時期でなされることで、メリットが大きいからだ。
Salvador の目玉となる数多くの教会、修道院、礼拝堂、要塞等は、Pelourinho の建造物と共に、農村貴族たる砂糖農園主によって作られたものが少なくない。
Recife、Olinda 同様にSalvador も、17世紀の中葉、砂糖や火酒(aguardente de
cana)の生産による富の産物で、アメリカ大陸においても豊かな都市に成長した。1580~1640年までのオランダ侵入•占有の間でも、砂糖産業の成長がダメージを受けることはあまりなかった。むしろ農園主たちは、ヨーロッパの砂糖市場のより一層の拡大に努めていた。
問題は、すでに触れたように、オランダが放逐されると、アンテイール諸島(Antilhas)での砂糖プランテーションに向けて彼らオランダ人が持ち出した金は使われ、次世紀には世界市場において手強い競合の存在となったのである。
北東部の砂糖産業が斜陽化の流れにあるなかで、南東部と中西部、より正確に言えば、Minas Gerais で<金•ダイヤモンドサイクル>(ciclo de ouro e diamante)が生起し、ブラジルの経済の基軸は南東部に移転することとなる。
※写真は、10数年前に訪れたPernambuco 州近郊の製糖工場。
左側にはトメー•デ•ソウザ広場(Praça Tomé de Souza)、右側にはセー広場の間にあるラセルダ••エレベーター。坂道もあるにはあるが、文字通りバイーアの名所の一つで、上町(Cidade Alta)と下町(Cidade Baixa)とを結ぶ、運輸手段として使われている。
1920年代末期に建造されたようだ。私はサルヴァドールを訪ねれば、次に論じるMercado Modeloにアフロブラジル的な民芸品を買いに毎日のように通っていたので、このエレベーターを何度利用したことだろう。
エレベーターに乗る前にいつも、Cidade Altaから下町の光景を眺めていたものだ。やや左下前方のMercado Modelo 、そして全聖徒湾(Baia deTodos os Santos)とその湾に浮かぶサン•マルセーロ要塞(Forte São Marcelo)のパノラマは圧巻で、その絵画的な美しさにはいつもながら言葉を失ってしまう。
私のSalvador でのお土産用の買い物はきまってMercado Modelo でしていたように思う。自宅をかねた阿蘇の「ブラジル民族文化研究センター」には、そこで買ったアフリカ的な民芸品や絵などがそこかしこに飾られている。
1861年に築造されたメルカードは元はと言えば、税関であったとのこと。いつまで機能していたか知らないが、今では内外の観光客が訪ねる一大商業施設に変貌している。
バンカ(banca)と呼ばれる店舗の陳列台には、楽器を含めて、彫像などのアフロブラジル出自の文化、芸術作品などが所狭しと並べられている。
店舗は二階にあるのを合わせて300ほどあり、いずれも私たち日本人にとっては目を引くようなものがあまたある。であるから、飽きることもなく、時間が経つのもつい忘れてしまう。Mercado Modeloの裏のロビーでは、カポエイラの演舞も直に見ることができて、「黒いローマと呼ばれるほどにSalvador がアフリカ的な世界であるのを実感する。
Carnaval da Baiaとも呼ばれるSalvadorのカーニバル。16世紀と17世紀の間に、ポルトガル開拓者によってもたらされた。当初は民衆たちの、ペンキを投げ合う遊び(entrudo)の類いであったが、仮面舞踏会(baile de
máscara)のようなものなどに形をかえた。リオのカーニバルは何度か見たことがあり、それなりの認識は持ち合わせている。なので、「朝日百科」にも記事を書き、それを以前にFacebookに紹介したこともある。
が、悲しいかな、土俗的でアフリカ色の濃厚なSalvador のカーニバルはかつて見たことがない。カーニバルは、リオとレシーフエとサルヴァドールとでは様相を異にすると言われる。それが実際に確かめられず、至極残念というしかない。
ともあれ、いくつかの文献で知り得たことを、以下に書き連ねる。バイーアのカーニバルは、その沸き立つ祭典を見ようと押し寄せる観光客の60%が同市民もしくは北東部かららしい。街頭で繰り広げられる民衆参加のカーニバルとしては最大で、Guinnesブックでも登録されているようだ。
祭りの期間、その主要な舞台となる、例えばCastro Alvesのような場所には、150以上のブロッコ(bloco=カーニバルの集団)、著名な歌手、大音量のステージカー(trio
elétrico)などが登場する。そしてそこでは、アフオシエのごとき音楽が奏でられる。そこでの主たるテーマ曲なり筋書きはやはり、この地ならではの、アフリカ文化やOlodum[1971年に創設されたアフロブラジルの打楽器の車中]、Timbalada]1991に創設されたバンド]に想を得たものだ。
Porto Seguro、Maragogipe、Juazeiro 、Ilhéus 、Barreiras、Mata de São João でも重要な祭典となっている。
カンドンブレーは、アフリカからバイーアに移入されたヨルバ族がが信仰する原始宗教である。時が経つにつれて、同じ北東部のマラニョン州、ペルナンブーコ州ばかりか、南東部のリオデジャネイロ州、さらには南部のRio Grande do
Sul まで伝わった。一般的なアフリカ人にとっては、日本人と同じのように、木、河川、食物などあらゆるもの、すなわち森羅万象が神聖で神が宿る存在である。
カンドンブレーではテレイロ(tereiro)と呼ばれる祈祷所において、信者たちはタムタム太鼓(tambor)やアタバケ(atabaque=太鼓の一種)の打ち鳴らせるリズムに合わせて唄い踊りながら、精霊オリシヤー(orixá)を崇める。一度は断れたけれども、食い下がって頼みこんでその様子を関西テレビで取材したことがある。
何とも異様な激しいリズムで行われる祈祷はいつしか、神の霊との交信で踊る信者が恍惚状態になる。その憑依する降霊儀式の場面を直に観察して私は、アフリカの呪術信仰の何かを一部ながら知ることができた。
前回、シンクレテイズモを介してアフリカの宗教のブラジルへの影響について概説した。バイーアはアフリカ的な痕跡とその影響が顕在する典型例な場所とも言える。
砂糖園と園主の邸宅で働くために16世紀に搬入された黒人奴隷たちは、自らのアフリカ的な伝統をもたらし、それは特にバイーアの宗教性に影響を与えた。しかしながら彼らは、カンドンブレーを介して自分たちの信仰を公に表現することを禁じられた。その一方で、教理目的のイエズス会の功あつて、白人の宗教たるカトリック教は国教ともなった。
それかあらぬか、黒人奴隷のもたらした呪術やフエテイシズム、アニミズム的な原始宗教は邪悪な魔法ともみなされ禁教となり、迫害•弾圧の対象にさえなつた。この点を中心に前回言及した。
繰り返すが、そこで黒人たちは、自分たちが信仰するアフリカの神々であるorixásをカトリックの精霊と結びつけて、あたかもカトリック教に転向•帰依しているかのように巧妙にとり繕ったのである。かくしてバイーアでは、宗教的なシンクレテイズモが発現した。祈祷所[terreiro]は場所によって独自のorixáが祀られ、祝う特別の日がある。Salvador にはおよそ10ほどのcandombléのテレイロがあると言われている。それらのなかで、もっとも伝統的なのはGantois, Axé Opô Afonjáである。フェスタの時にしか通常開かれていなく、中心部からかなり離れた祈祷所もあるので、事前にガイドで確認しておく必要がある。