執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、2024年3月5日付けの「ブラジル日報」紙の「記者コラム」を同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
ブラジルに最初に足を踏み入れた日本人は、1803年にサンタカタリーナ島にロシア軍艦で着いた、若宮丸の漂流民4人であった。だが彼らは通過しただけだった。
幕末に最初にブラジルの土を踏んだ日本人は、1866年10月25日、榎本武揚ら幕府留学生だ。開陽丸でオランダの港を出発し、リオ・デ・ジャネイロを経由して、翌1867年3月に横浜港に帰着した。
最初にブラジルで「骨を埋めた」日本人は、1870(明治3)年にバイア湾沖の英国軍艦で割腹自殺を遂げた、薩摩武士の前田十郎左衛門であった。サルバドールのどこかの墓地に埋葬されたようだ。
一般的に、日本開国以降で初めてブラジルに渡った日本人は、ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号で渡航した「大武和三郎」だと言われている。その船は1889年7月に横浜に到着、リオに帰港したのは1890年7月29日だ。
ちょうどその間にブラジル帝政が軍事クーデター(1889年11月)によって倒され、共和制宣言が出されたすぐ後だった。
1889年といえば、日本でも大きな節目の年だった。自由民権運動の訴えをうけいれて「明治憲法」の発布が行われた年だ。以後、帝国議会が開催されるようになり、日本国の背骨が作られたときだった。
大武和三郎はそんな頃に、ブラジルに来ていたのだから、間違いなく早い。第1回移民船「笠戸丸」は1908年だから、それより約20年もさかのぼる。
ところがウルグアイ、アルゼンチンの研究者の調査を総合すると、どうやら日本が開国して以降で初めて南米に到着した日本人は、1873(明治6)年だった可能性がある。一体どんな日本人が開国直後の明治6年に、地球の反対側である南米まで来ていたのか――それは軽業師だ。
江戸時代末期、最初にパスポートを発行されたのはまさに軽業師の一団だった。欧米公演に行くためで、明治維新が起きる前に米国大統領と握手すらしている。
ウルグアイで公演した「サツマ」座の記事(前田直美さん調査、エル・フェロカリル・モンテヴィデオ紙より)
ウルグアイで1873年1月に公演
ウルグアイ東方共和国の首都モンテヴィデオ在住の前田直美さんから以前送られた調査によれば、「サツマ」カンパニー(一座)が1873(明治6)年1、2月に首都のソリス劇場で公演をしている。曲芸、軽業師、奇術師らは1月29日から2月21日までの間に10公演行った。少なくとも明治6年に、日本人曲芸団が実際に南米公演していたことは間違いない。
ウルグアイ地元紙「エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」は同年1月29日付で、《サツマ一行が欧州公演前に、モンテヴィデオにて公演》、2月2日には日本の地理、歴史、文化紹介記事、2月6日付では《奇術師YASSO(やそ?)が50針を扱う手さばきが観客の喝采をあびた》とある。
2月21日の公演はジョゼ・エラウリ(当時の上院議長、翌月から大統領に就任)に捧げられたという。(以上、前田直美さんの調査=市立ソリス劇場資料部(CIDDAE)、国立図書館所蔵1873年発行「エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」より)
アルゼンチンの曲芸団「サツマ」座の宣伝ポスター(『アルゼンチン日本人移民史』より)
アルゼンチンでも同年3月に
『アルゼンチン日本人移民史』前編(アルゼンチン日本人移民史編纂委員会、2002年)によれば、この「サツマ」一座は、ウルグアイの後にお隣の亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。
1873(明治6)年3月8日(土)付の公演ポスターが国立演劇博物館に残っている。現在の名高いコロン劇場ではなく、別の場所にあったもっと大衆的な劇場で、サーカス、演劇、歌舞、曲芸などの出し物を扱ったところだという。
つまり、ウルグアイ、アルゼンチンときたら次はブラジルのはずだが、検索しても今のところ、それらしい記事が出てこない。いろいろ調べているうちに、わずかながら足取りが見えてきた。
薩摩座はいつ日本を出たか
「慶応2年のパスポート」(3月31日参照、http://homepage3.nifty.com/gekka-take/KO2-saikoKamekichi.html)には《海外渡航が解禁された慶応二年以降の幕末維新期には、隅田川浪五郎一座、松井源水一座だけでなく、薩摩一座、早竹虎吉一座、鳥潟小三吉一座など、多くの旅芸人一座が海外に飛び出していったという》とあった。つまり、日本を出たのは慶応二年(1866年)だ。
さらに《明治維新後、日本の芸人が相当に海外へ出て行き、1872(明治5)年には岩倉具視遣欧使節団一行がニューヨークで「サツマ」と称する軽業師数名に出会ったと伝えられているが、その「サツマ」一座が南下して、1873年にブエノス・アイレスのコロン劇場の舞台を踏んだということも考えられる》(同亜国移民史19頁)と書かれている。
なんでも、ニューヨークの五番街で岩倉具視遣欧使節団一行とばったり出会ったサツマ一座は、とつぜん石畳に土下座して周りを歩くアメリカ人の通行人を驚かせたとの逸話が残っている。
《米国で巡業をしたあと1870年暮れにオーストラリアに回ってきた薩摩一座というのがある》(3月31日参照、http://www.tokyomagic.jp/labyrinth/matsuyama/ikokunobutai-01.htm)という記述も見つけた。
薩摩一座はおそらく最初の米国の後、オーストラリアへ。その後に再び米国に戻り、今度は南下して、1872年にはチリやペルーに足を延ばしたのではないか。
そして1873年1月にウルグアイ、亜国に来ていた。欧米では思うような成功ができなかったから、他の人が来ない南米まで足を伸ばしたのかもしれない。
コレイオ・パウリスターノ紙1873年5月10日付のサーカス広告
1873年5月にサンパウロで公演?
1873(明治6)年1、2月にウルグアイで公演し、翌3月には亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。だが、何度「Satsuma」で検索しても残念ながらブラジル国立デジタル図書館サイト(http://bndigital.bn.gov.br/)では引っかかるものはない。
ただし、「japonesa」で調べた時、なんとコレイオ・パウリスターノ紙1873年5月10日付がひっかかってきた。開いてみると4面に、日本人軽業師の広告があるのを見つけた。
《初公開、大きな梯子を使った超難易度のA Escada Japoneza(日本式階段芸)executados pelo appulaudido artista Jeronyno e o menino Joannito(絶賛を受ける芸人ジェロニノとジョアニット少年による)》とある。
これはペレイラ兄弟サーカス団の公演の一部で、場所はサンパウロ市ラルゴ・サンベンド、1873年5月10日(土)夜8時からだ。なんと笠戸丸が来る35年前にサンパウロ市セントロ区のサンベントで、日本人として初めて軽業芸を披露していたようだ。これは、日伯交流史を大きく塗り替える出来事といえる。
ウルグアイ、アルゼンチン公演と同じ年の5月に、サンパウロ市で日本人軽業師が公演している。しかも、名前がポルトガル語っぽくなく、特に《Joannito》の表記は、イタリア語の名詞語尾につく指小辞(可愛らしい存在に対する「~ちゃん」的表現)のようだ。当時のブエノスアイレスはイタリア人移民全盛期であり、そこで付けた芸名をそのままサンパウロでも使った可能性がある。何らかの理由でサツマ座の一部が分かれて、ブラジル公演したのかも。
そこで思い出したのが『アルゼンチン日本人移民史』前編20頁にあった次の記述だ。
《「サツマ」座は、その後どうなったのだろうか? 文芸人でもあった亜国日報の社長江原武に「ラ・ハポネサ村の謎」という文章があり、〈この一座はブエノス・アイレスで解散したと云う説もあり、後年ペペ・ポデスターの一座にいた大日向という役者は、当然さつま一座の残党と考えられるのである〉と推理している》
この説によればサツマ座はブエノス・アイレスで解散しており、その残党がサンパウロ市に流れてきて5月10日に公演していても不思議はない。
というか、そうでなければ、この時期に日本人がサンパウロ市で公演するのは不可能ではないか。
もし、サツマ座がブエノス・アイレスで解散しているのであれば、当時のブラジルの新聞に「サツマ座」としての広告がないことも納得できる。バラバラになって行動し、一部がサンパウロにやって来た。
そう考えるとつじつまがあってくる。
Centro de Memória do Circo(CMC=サンパウロ市立サーカス記録センター)の展示には、「Família Mange」と大書きされた万次本人と子どもらの写真があった(2016年1月撮影)
ブラジル移民史の伝説的人物、竹沢万次
ブラジル日本移民史にでてくる最初の日本人軽業師は、なんといっても竹沢万次だ。「1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや最南端のリオ・グランデ・ド・スル州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業して歩いた」と伝えられている。
いわば、正式な日本移民開始以前の〝神代の時代〟に、独自に移住して生活を築いていた伝説的な人物の一人だ。
笠戸丸の2年前、1906年にサンパウロ市サンベント街に最初の日本人商店を藤崎三郎助が開店して間もない頃、竹沢万次は移住以来、初めてなつかしい同胞を訪ねた。
でも20数年も日本語を使っていなかった竹沢万次は、「天皇陛下はまだご存命ですか?」と片言のような日本語でしゃべっただけだったと言われる。それを聞いた鈴木南樹は、《万次はさすがに武士であり、日本人である》と、後世数限りなく引用された逸話を初めて記した。
この竹沢万次と連れの少年が、広告に出てくる《芸人ジェロニノとジョアニット少年》だった可能性がある。つまり、竹沢万次らはサツマ座の一員で、ブエノス・アイレスで解散した後、ブラジル・サンパウロを目指した。
ちなみに江戸末期、日本には竹沢万“治”という有名な曲コマ師がいた。この二人は同一人物なのか―という点も大いなる謎だ。
ちなみに竹沢万次に関しては、ニッケイ新聞に《軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史》(https://www.nikkeyshimbun.jp/page/3?s=軽業師竹沢万次の謎を追う)を2016年2月に27回連載した。そちらも見て欲しい。
誰がサンパウロに来ていたのかを説くカギの一つは、広告にある「日本式階段芸」だ。いったいどんな芸だったのか。
一つの可能性は、大人の芸人の足の上に立った子供が、どんどん四角い箱を自分の足元に積んでいき、上に上に上がっていくような芸だと推測される。
これは、芸筋としてはまさに竹沢万次が得意とするもの。やはり「ジェロニノ」が彼の最初のブラジル公演の芸名かもしれない。だが決定的な証拠ではない。
とはいえ、少なくとも日本人軽業師が1873(明治6)年に、現在のサンパウロ市東洋街のすぐ近くサンベント広場で公演していたことは確かなようだ。
奇しくも日本では、福沢諭吉が『世界国名照覧』において、地理書で初めて「ブラジル」という国名を日本人に紹介した年だ。
福沢諭吉もまさかその時に、すでに日本人が南米まで来て軽業を披露していたとは、想像もできなかったに違いない。(深)
※「ディスカバー・ニッケイ」サイト22年1月24日初出記事に加筆〈https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/1/24/karuwazashi-1/〉