済藤 直樹(在トリニダード・トバゴ大使館 二等書記官)
会員となるメリットとして、『時報』の無料送付、協会が催すオンライン方式を含む講演会・ワークショップ・ラウンドテーブル等への優先・割引/無料参加、わが国随一のラテンアメリカ・データベースから資料の閲覧・ダウンロードが可能になります。
詳しくは、入会案内をご覧ください。
全文は下記のPDFから閲覧可能です。会員限定となります。ご注意ください。
石油・天然ガスを国力の源とするトリニダード・トバゴ 済藤 直樹(在トリニダード・トバゴ大使館二等書記官)
はじめに
カリブ海の島国トリニダード・トバゴは、1498年にコロンブスの第3回航海で発見されたトリニダード島、そして、英国、オランダ、フランス等が占領を31回も奪い合ったトバゴ島の2島から構成される、1962年に英国から独立した人口150万人程度の小国である。
植民地時代の両島における主要な経済活動はアフリカ人奴隷による砂糖園経営であり、1838年の奴隷制廃止後は、インド人、中国人、アフリカ人等を契約労働者として動員し、砂糖やカカオ等を生産する農業主体の経済であった。本稿では、農業を主体とする経済であったトリニダード・トバゴが、石油・天然ガスを国力の源として変遷する過程をみていくことで、エネルギー産業の重要性を確認し、終わりに今後の課題にふれる。
油田開発まで
当国エネルギー産業史は、1595年、英国人ローリー卿が、トリニダード島の原住民によく知られ慈しまれていたアスファルトの湖であるピッチレイクを確認することで始まる。ただし原油生産の着手は、1857年The American Merrimac Companyによる採掘が最初となる。
こちらは商業的に失敗するも、米国人エドウィン・ドレークがペンシルベニアで採掘に成功する2年前になり、近代史上初の採掘とも言われる。1857年以降も米国人土木技師、英国人実業家等が、島南西部において採掘を試みるも商業的な成功を収められなかったが、転機は、1904年、トリニダード政府の委託を受けたスコットランド人地質学者カニングハム−クレイグが、2島の地質図の作成に取りかかることで訪れる。
1907年、カニングハム−クレイグ作成の地質図に関心を持った英国人ビービー−トンプソンが、島南西部おいて試掘を開始。この試掘で採算に見合う油井が掘削され、1908年に初めて商業ベースの原油生産が開始、1910年には原油が初めて輸出され、この頃には島内初の製油所も建設される。1911~1912年にかけて日産1万バレルにも上る有望な油井が多く掘削され、この2年間で石油会社が60社近く設立されたと言われ、Shell社も1913年に、これら有望な油井の買収に着手している。
なお、この設立ラッシュの背景として、当時英国海軍大臣を務めていたチャーチルが、トリニダード島での原油採掘成功の報せを以て、英国軍艦の燃料を石炭から重油へ変更する決断をしたことが後押ししたと言われている。その後、1910年代が終わるまでに石油会社が150社近く設立される。以来、トリニダード島は英国軍の燃料供給基地となり農業国からの脱却が始まる。
原油生産開始により、近隣カリブ諸国から労働者として移民の流入が始まるとともに、鉄道、道路、水道、電気の整備が島南西部で進む。労働者は、会社が用意したとはいえ極めて劣悪な住環境の下、低賃金で重労働を強いられたが、ヨーロッパ人で占められた経営者や技術者は、会社が提供する住宅・娯楽施設等で大変優雅な生活を享受していたことで、両者間の格差を起因として1920年代以降は多くの労働争議が発生する社会状況でもあった。
全盛期の製油所 ―海洋油田
1922年に初めてガソリンの精製を開始した製油所は、英国の精製技術開発の中枢を担い、1938年に戦闘機用航空燃料の生産に成功する。大英帝国内で唯一航空燃料を生産する製油所となり、第2次世界大戦中、島南西部は英国軍及び米国軍の燃料基地となる。戦時下、唯一の航空燃料生産基地であったことから製油所事業は極秘扱いとなり「Project1234」と命名され、終戦時には大英帝国内で最大の製油所となる。
精製能力を拡大するも島内の原油生産量は、1940~1950年代初めまで増加せず、輸入を余儀なくされたことで、油田探査は沖合へと広がっていく。1954年、外資3社による合弁会社が、島南西部沖合で初の海洋掘削を始め、翌年には原油生産を開始。また1958年には、同じく島南西部沖合で当時世界最大となる石油プラットフォームによる生産を開始。1972年には島東岸沖合