連載エッセイ373:田所清克「ブラジル雑感」その49 セアラ州その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ373:田所清克「ブラジル雑感」その49 セアラ州その1


連載エッセイ373

「ブラジル雑感」その49
セアラ州を語る その1

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

わが愛する「イラセマ」の生まれし大地:セアラー州
A terra nascida de Iracema que eu adoro: O Ceará

まだまだペルナンブーコ州については言及したいのであるが、きりがないので記述の対象をセアラー州へ移す。

セアラー州と言えば、これまでにも機会あるごとに触れてきたように、リオと並んで第二の古里のような存在である。リオが留学先であったのに対してセアラー州の場合は、自分の人生にとって転換点を刻印することにもなる、貴重な体験をすることができた。その上、参与観察さながらに文化および自然風土などの赤裸々な現実(realidade nua e crua)なり地域事情を認識し得たことが、研究者としての道を決定づけるものとなったからである。

その一方で、選考試験に運良く通り、日本人として初めてブラジル内務省の「ロンドン計画」(Projeto Rondon) に参画して、半乾燥地帯(caatinga)にほぼ一ヶ月に亘ってQuixadáに逗留したこともセアラー州をこよなく愛する理由かもしれない。

しかし、これまでもセアラー州を愛し憧憬し続けている最大の事由は、ブラジル文学の作品の中でももっとも人口に膾炙している、José de Alencar の手になるセアラーの伝承『イラセマ』を私自身が邦訳しているからだ。

それだけではない。この地はペルナンブーコ州同様に、民衆文化の宝庫である。民衆的冊子literatura de cordel や吟遊詩人の存在などはその一例である。

キシヤダー市滞在中は、そうしたセアラー州の自然風土に囲まれながら、と同時に、大好きなLuar do Sertão を聴きながら、農園主にしてキシヤダー市長のお嬢さんと仮初の恋(amor efémero)をしたことも、coming outしておこう。

次回から知見し得たセアラー州について、具体的に取り上げてみたい。

セアラー州概観  Resumo do estado do Ceará

北東部の北部に位置するセアラー州は、146.348,3平方キロの面積を有する。

当初のポルトガル植民者たちは、先住民のみならず、侵略を試みるフランス人やオランダ人とも立ち向かわねばならなかった。オランダ人の場合は、彼らがSchoonenborchと呼ぶ要塞を築きもした。その要塞は1654年、ポルトガル人によって奪取され、Fortaleza の名前の起源となった。

この州も黒人奴隷を受け入れていたが、奴隷制度が廃棄される4年前に、残りのブラジル全地域に先んじて終わらせた。

この地の奴隷廃止運動の立役者の一人は、「海の竜」(Dragão do Mar)とも言われたFrancisco José do Nascimento だそうだ。Canoa Quebradaの筏師であった彼は、他の地域に奴隷を売り飛ばすことに立ち上がったリーダー格の人物として知られている。

転じて、セアラー州は北東部の人に聖人として崇められるCícero Romão 神父の地でもある。その意味で、聖地巡礼(romaria)の対象となっている。

前回触れたように、民衆文化が横溢している。その主要なものは、六月祭り(festas juninas)、特に内陸部のフオルゲードス(folguedos=遊び心の民衆の祭り)、他の地域のものとは異なり、よりスローテンポのmaracatuなどであろう。Cariri地域のフオークロアも加えるべきだろう。

セアラー州は一方で、この国を代表する文人が輩出したところである。小説家José de Alencar, Rachel de Queiroz、民衆詩人にして民衆文学者のPatativa do Assaréなどはその一例。ちなみに、アサレーの詩はLuiz Gonzaga によって音楽にも取り入れられている。

音楽の世界に目を向ければ、Raimundo Fagner, Fausto Nilo, Eduardo などが傑出した存在である。が、至るところに吟遊詩人がいる。即興で唄うそうした詩人(repentista)たちに牽かれて耳を傾けていると、いきなり私が歌詞の題材となって吟われたことがある。

573キロの海岸線を持っことから、主に伊勢海老やカニの漁猟もさかんである。州都Fortaleza を訪ねたら決まって私は、行きつけの鮮魚店で、海の幸を堪能したものだ。

セアラー州の大部分が半乾燥の「旱魃の五角形」(polígono da seca)にあることから、支配的な植生は有刺植物が特徴のcaatingaである。

産業のうち、農業では豆、トウモロコシ、米、綿花、マンデイオカ、果樹栽培ではカシュー(castanha-de-caju)が際立つ。

繊維、化学、食品工業の盛んな点で注目されるが、何と言っても言及するに値するのは、後で述べるFortaleza の観光産業だろう。年中暑く絶景の海岸線を持っリゾート、ブラジルに住むのであれば私はここにしたい。あか抜けたリオのイパネマやコパカバーナには、オーム啼くなびく椰子樹はない。とにかくFortaleza の絵画的な美しさは、筆舌に尽くしがたい。

緑なす海の沖合いにはジヤンガーダなる筏舟(jangada),白沙の海岸には、ジヤンダイア(jandaia=インコの一種。頭部が黄色をしている)啼く椰子樹がそよぐ、絵画的なセアラー州の都: Fortaleza

前回、セアラー州の概観に言及した折りに、州都Fortaleza にも若干触れた。

オランダ占拠[1649-1654]の時期もあったが、1726年に創建されたFortaleza は、砂丘(duna)あり赤い断崖(falésia)ありで、自然風向の美しさには目を奪われる。わけても、緑なす海に面するBeira-Mar大通りの絵画的な景観と言ったら。

海岸線に沿って群生する椰子樹の散歩道を私は、帆走するジヤンガーダを見ながら、何度歩いたことだろう。

学生さんや社会人の方を引率してFortaleza を幾度となく訪ねたこともあるが、異口同音に皆が皆その絶景に驚嘆•感動した言葉を発していたものだ。

熱帯半湿潤の気候が支配するこのセアラー州の都は、年がら年中太陽が照りつけ、年平均気温は27℃。

セルタネージヨの伝統や筏師の習慣などが垣間見られる、きわめて特異な特色を呈している。これは豊かな文化的な融合のかたちで、料理[法]や建築、話し方(modo de falar)などにも反映されている感じがする。

市民は、旱魃から逭れてきた被災者(retirante)以外に、インディオ、ポルトガル人、オランダ人の末裔が主流を占める。

イラセマ地区にはバーが数多くあり、夜ともなれば、週を通して賑やかである。ことに毎月曜日にそうであるのは、不思議でならない。

地域の文化と芸術に興味のある向きには、Centro Dragão do Marに、この州で有名なレース編みやハンモックを買いたい人は市街地に足を運ばれたらよかろう。

美しい海岸を臨むホテルの宿泊者にとっては、毎夜、土地の民芸品などを売るフエイラ(feira=市)もあり、楽しみの一つである。

ともあれ、José de Alencar が作品『イラセマ』の劈頭で綴った詩的言語表現はやはり、作家がFortaleza の風光明媚な景観を目にしたことで生まれたものであろう。

中央部セルトン最大の都市Quixadá の想い出 –ブラジル人以外に語ることのなかったカアチンガ(caatinga)地帯の自然景観とそこに生きる人々–
A evocação da maior cidade que se situa no sertão central: Quixadá — Ninguém contou exceto o povo brasileiro a paisagem natural da caatinga e as pessoas que vivem aí—

地域の不均衡や社会的格差(inclusão ou disparidade social)の是正に向けてEmílio Médici政権下で設立されたProjeto Rondon。

その主たる政治的、戦略的目的の意図するところは、参画者が身につけたものに記された標語ように、” [他国に]渡さないために統合する” (integrar para não entregar)ためであった。

ともあれ、私を含めたロンドン参画者(rondonista)たちは、軍用機でセアラー州のFortaleza に舞い降りた。

そこから目的地のQuixadá まで距離にして218キロ、2時間あまり西のセルトンに向かって車で突き進んだ。

州都を離れほどなくして、辺りの自然景観は一変した。乾燥した土ぼこりの左右に、そこかしこにサボテン科のmandacaru, xiquexiqueが林立•植生している。その時、ここがまさしく有刺植物が席巻するcaatinga 地帯であることを思い知らされた。

年間を通じて降雨が少なく半乾燥地域であることから、川と言えども水無し川の状態で、至るところにアスーデ(açúde)と呼ばれる灌漑用の貯水池がある。

長期に渡る滞在から、Graciliano Ramosの『干からびた生活』(Vidas Secas)やRachel de Queiroz の『15』(O Quinze)が描く、零細農民が旱魃にうちひしがれ被災民(retirante)となって、やむを得ずAssa Brancaの歌詞さながらに故郷を離れる現実を実感するに至った次第。

そうした厳しい自然でありながら、他方において、自然景観の美しさにも目を奪われる。

私は地元の学校で、力もないのに恥ずかしながら英文法を、警察では逮捕術を教えた。そして、serãoと呼ばれる夜会では、仮初めの恋の相手であった、キシヤダー市長で牧場主でもあったアジスさんのお嬢さんダビナと共に、Luar do Sertão を口遊んだ(trautear)ことが、つい昨日のように思い出される。

ブラジルの近代派の詩聖Manuel Bandeira の名品の一つに、リオの地から故郷のペルナンブーコを回顧したEvocação de Recife がある。私もManuel Bandeira に傚って(imitar o exemplo)、ありし日のQuixadá での想い出を反芻している。

※ロンドン計画に参画したメンバーの集合写真で、私の後にいる方がQuixadá 市長。日本と違って、かなりの年齢の学生さんがいた。

セアラー州で忘れてはならない二人の傑出した作家: José de Alencar e Rachel de Queiroz
—国民文学の創始者にして” ブラジル語 “の創造に向けて尽力した José de Alencar — ①
Não devemos esquecer os dois exímios escritores : José de Alencar e Rachel de Queiroz — José de Alencar que foi criador da literatura nacional e se dedicou à criação da ” língua brasileira “.

ブラジルが政治的に独立して以降、旧宗主国から踏襲してきた文化の基底も、ナショナリズムの流れのなかで、植民地本国の桎梏から解放されて、ブラジル主義(braleirismo)を標榜するようになった。

José de Alencar はまさしく、自国の国民主義を宣揚するために生まれた人物であったように思う。彼の代表作とみなされる『イラセマ』にしても『オ•グアラニ』(O Guarani)しても、ブラジル性(brasilidade)が色濃く反映されてたものになっている。

双方の作品とも先住民インディオを主題、すなわちインディアニスタ小説の典型で、ブラジル主義を証左するものである。

Iracema とO Guarani の筋書きは似たり寄ったりで、異民族間の融合とブラジル国民の誕生がテーマになつている。

前者の作品では、ポルトガルの戦士マルテインと、タバジヤラ族の族長の娘イラセマとの愛を描き、二人の間にできたMoacir こそブラジルの誕生とみる。

対する後者の作品も、つづめてめて言えば、ポルトガル貴族の娘Cecília とGoitacá族の戦士Periとの愛の物語である。この作品に想を得てオペラ作曲家のAntônio Carlos Gomes[1836-1890] は、ミラノのスカラ座(Alla Scalla)にて1870年3月19日、Il Guaranyなる歌劇曲で大成功を納めた。ちなみに、Facebookでもお馴染みの、アルゼンチンタンゴの第一人者でミロンガを主宰されている原田裕子さんは、このブラジル歌劇作曲家のゴーメスを顕彰した栄誉ある賞をうけられておられるので、改めてご紹介する。

失念しそうになったが、Iracema はアナグラム[anagrama =語句の綴り換え]ではamericaとなる。これによつても作家が、いかに(南)アメリカを意識して、ブラジル性に富んだ作品を創造していたかが、理解できる。

他方Alencar は、”ブラジル語”の創造にも尽力した人である。言語学者の間では” ブラジル語”の存在は今も認められてはいない。がしかし、インディオ、アフリカ、移民の言葉も混入し、そうした語彙面だけでなく、文章構造、音韻、音声面でもイベリアのポルトガル語から変容しているのも事実である。それ故に、イベリアの話者とブラジルの話者との間に、意志疎通ができないケースもなくはない。

そこで私たちは、イベリアのポルトガル語に対して、português do Brasil [ブラジルのポルトガル語]と称して区別している。

ともあれ、16世紀にポルトガル人がもたらした古ポルトガル語(português arcaico)が保持され、ロマン主義時代のAlencar によって先住民の言葉などが積極的に採り入れられて、今のブラジルの言語になっていることはもっと注目して良い。

セアラー州で傑出した忘れてはならない二人の作家: José de Alencar e Rachel de Queiroz  Não devemos esquecer os dois exímios escritores no Ceará: José de Alencar e Rachel de Queiroz 国民文学の創始者にして” ブラジル語”の創造に向けて尽力したJosé de Alencar — ②
JOSÉ de Alencar foi o criador da literatura nacional e se dedicou à criação da “língua brasileira “

セアラー州は”イラセマの地”であり、作品の翻訳者として特別のところであることから、ブラジルを訪ねる時は、少なくとも州都フオルタレーザには足を運んでいた。

そもそもSiará(=Seará)の行政区は1535年、Antônio Cardoso de Barrosに付与されていたのであるが、先住民の言葉と習慣に通暁したポルトガル人のMartim Soares Moreno が到来するまで、植民されてはいなかった。その彼は1619年、行政区長官(capitão-mor)に任命されている。

当時、フランスやオランダの侵略が横行し、先住民インディオとの同盟を結ぶことが喫緊の課題であった。

そんな状況下においてオランダに占拠され、要塞まで築かれた。その要塞がポルトガル人の手で奪還されたのは1654年のことである。そしてその要塞はFortaleza de Nossa Sra. de Assunção と命名され、周囲の集落は1726年にはFortaleza という名で市に昇格した。

行政区長官の任にあったMartim Soares Moreno は、セアラー州の伝承に基づく『イラセマ』を書いた作者に想を与えたと言われている。

私は『イラセマ』を彩流社から上梓した年、その翻訳本を携えてFortaleza の作者の生家と、海岸に二つあるイラセマ像を訪ね、感きわまつたものである。

写真のように、9ヘクタール程度のAlencar の生家は思っていた以上にシンプルで、レンガ作りで屋根は瓦と椰子の一種のカルナウーバの葉で葺かれている。

生家はいまではセアラー連邦大学に所属していて、またそこは土地の民芸品を集めたレース美術館(Museu da Renda)と人類学館(Museu de Antropologia)を兼ねている。

二つあるイラセマ像のうち一つはPraia de Iracema に、もう一つは、パライーバ州の芸術家Coribiano Linsによって1965年に造られた。Beira-Mar 大通りの海辺にある6メートルの立像はまことに見事で、もっとも人気のある絵はがきになっている。

シャトーブリアン流に絵画的な言語で造形されたAlencar の、ブラジル人が愛して止まないIracema を訳したことが、いまでは私の宝になっている。

※最後の写真は、私が大学で講読の教材に作った表紙で、亡き母のcaligrafiaによるものです。セアラーの風光の美しさを詩にしたものです。

セアラー州で忘れるべきでない二人の作家: José de Alencar e Rachel de Queiroz  国民文学の創始者にして” ブラジル語 “の創造に向けて尽力したJOSÉ de Alencar—③ José de Alencar foi criador da literatura nacional e se dedicou à criação da ” língua brasileira “

国民的作家José de Alencar を顕彰して築造されたのが、まさしく作家の名前を冠した広場にあるTeatro José de Alencar 。

この劇場の建設は、最初の日本移民がブラジルに来着した時と同じ1908年に始まったそうだ。

中庭によって隔てられた二つの棟からなるそれは、ネオクラシック様式(estilo neoclássico)とアールヌーボー(estilo art nouveau)様式の双方が採り入れられているところに特色がある。建物の鉄のファサードは、スコットランドから輸入されたものと聞いている。カラフルなステンドグラスはアールヌーボーの特徴だろう。

中庭を私は実際に見たことはないが、それは1970年代に、造園技師(paisagista)のRoberto Burle Marxによって設計されたとのこと。

劇場は1964年、国の歴史遺産(Patrimônio Histórico Nacional)に登録されている。

このアレンカール劇場は、20世紀の初め、Fortaleza が建築物や習俗などによき時代のアールヌーボー様式という、フランス文化を採り入れてきたかを証左する見本と言えるかもしれない。