連載エッセイ390:ピーター藤尾「ラパヌイ(イースター島)の話」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ390:ピーター藤尾「ラパヌイ(イースター島)の話」


連載エッセイ390

「ラパヌイ(イースター島)の話」

執筆者:ピーター藤尾(在チリ、サンティアゴ)

この原稿は、藤尾明憲氏がチリ日本商工会議所会員に対し、2024年8月に行った講演の概要です。

1部 全般
2部 島の歴史 
3部 島の文化 
  絵文字ロンゴロンゴ, モアイとアフとその他
4部 欧州人とのコンタクト 
5部 文明の崩壊
6部 島の現在
1部 全般

この島はイースター島と呼ばれる。それは1722年にこの島に来た最初の欧州人が到着したのが4月5日のイースターの日だったからだ。しかしひどい、外国人が来た日の行事を島の正式名称にするなんて。それならアメリカ人が徳川幕府の時代に日本に来た時、もしクリスマスの日だったら、東京(その頃の江戸)をクリスマス市と呼び始めたかもしれない。したがって、私はその島をラパヌイと呼んで話を進める。ラパヌイと言うのは彼らの言語ラパヌイ語で広い大地と言う意味だ。

私はこの島に昔から関心があった。私が一番最初に出版した本は「行きたいマチュピチュ」だったが、初版が完売、2版も出て好評だった。それでそれをシリーズにしようと考え、2冊目に「行きたいイースター島」を考えた。そして、島を訪問し端から端まで歩き、洞窟に入り、火山口の底の湖まで降りた。もちろん島の住民との会話で彼らの生活や歴史を聞こうとした。そして書き上げた原稿を送ったら、内容に関してのコメントではなく、「現在の日本ではイースター島はほとんど知られていませんから、この本を出版する可能性はありません。」島に関する私の感触がその原稿を書いた時と今は大きく変わるところがある。それは「島民」についてだ。もちろん昔と今の人々の暮らしも大きく変わっている。それも詳しく書いていきたい。

島の一般事項

もう知らない人はいないだろうが、ラパヌイは世界で最も孤立した場所にあると言われる。チリ本土から約3千数百キロの距離がある。亜熱帯地区にあり、年中暖かい気候だ。そしてほとんど毎日のように雨になる。その雨は豪雨ではなく少し降ってはやむと言う感じだ。テレビで天気予報を見ていると、多くの日が雨になっている。島の大きさは163平方キロメートルで日本の北海道の利尻島と同じとか。

2部 島の歴史

7世紀にポリネシア人が来島したと言われる。日本なら中国に遣唐使を送っていたころになる。もちろんそれより後の時期との説もある。ホツ・マツアがそのグループのリーダーだった。しかし彼とそのグループの旅はどう考えられて実行されたのだろう。

ポリネシアから太平洋に出て東に進んだのだが、目的地はあったのか。そこに着ける見通しはあったのか。ラパヌイに着かなければ、そのまま南米大陸を目指したのか。

もちろん、そんな知識は無かっただろうが、彼らの無謀と思える勇気には驚いてしまう。素人の私はそう考えるが、彼らの考えは全く違った。

さて太平洋には海流があり、北部はアジアからアメリカに流れる。逆に南の方はアメリカからアジアに向かう。エクアドルのグアヤキルにバルディビア文明があったが、そこから縄文式土器が発見されている。つまり沖合で魚釣りをしていた縄文人が九州に戻れず、海流に乗ってそこまで着いたわけだ。逆の海流を使用してペルーからラパヌイに行くルートも良く使用されていた。

さてポリネシア人はその海流に逆らった動きをするやり方を知っていた。だからこそポリネシアからラパヌイに向かったのだ。彼らは太陽・月そして星の動きを見て自分たちがどの地区にいるか分かったと言われる。そして雲を見て、その下に陸地があるのを見つけることができたとか・・・・。

私はチリ本土からラパヌイを目指して行く時、 空から島が見えてくるとホッとするが、それはそんな小さな島は近くを航行しても人間の目だけでは見つけられるとは思えないと考えるからだ。ポリネシア人は私より優れた感覚を持っていたのははっきりしている。彼らの伝承では南米大陸まで到達していたとか。1860年ごろに、イギリス人探検家ジェームス・クックが来島しているが、彼はポリネシア人のガイドを連れていたらしい。

1000年ごろ、島には1万人が住んでいたと言われる。それほど人口が増えたのは最初に来たグループが増えていっただけでなく、その後にもポリネシアからグループが来ていると言う証拠だろう。1度目の旅は私には奇跡と思えたが、彼らの2度目の旅は自信をもって出発したのだろう。もちろん、島から海流に乗ってポリネシアに戻って行ったこともあるに違いない。つまりポリネシアとラパヌイに交流があったと考えられる。

ところで人口に関して、最大人口数は学者(研究者)によって大きく異なり、最大人口6000人とか1万人、1.5万人、さらに3万人と言う説もある。もちろん

食物の生産量と各自の消費量の関係も計算の基礎になるのだろう。

利尻島には4千人が住んでいるとか。

3部 ラパヌイの文化

文字ロンゴロンゴ

絵文字ロンゴロンゴが残されているが、現在まで全く解明されていない。その絵文字は南米のナスカで使われた絵文字と似ていると言う説がある。もちろん島の文化が崩壊するまで、それは毎日何らかの用途に使われていたのだろうが、それが消滅した。私の推測では文字は全員が使用していたのではなく、一部の人間だけのものだった。そしてそれを使えるメンバーが、何らかの理由で島から消えていったのが消滅の理由になるだろう。それも後述する。

モアイとアフ

この島の象徴はモアイだが、その建設は800年頃から始まり18世紀までと言われる。つまり約900年間だ。モアイの数は約900体とされるから、この説によれば1年に1個のモアイが作られたわけだ。1個のモアイを作るのに20人ほどの技術者が1年かかったと言われるが、年に1個のモアイを作る余裕はあっただろう。しかしこれは知られていないが、モアイが作られたラノ・ララク地区に約400体のモアイが放置されている。つまり、島のあちこちに運ばれ設置されたのは500体だけとなる。逆に言うと半数近いモアイが残されているのは「島民間で争いが起こり、モアイの製造は無くなった」と言うのは間違いと言うことになる。

モアイは海を背にして建てられている。一部の例外を除いてその説の通りだ。それはモアイの前を歩く通行人を温かく見守るためとされるが、日本のお地蔵さんと似た考えと言える。モアイの頭に赤い岩が載せられているのがある。これは帽子だと言う説もあるが、髪の毛だと言う方が正しいらしい。しかしポリネシア人の頭髪は黒いと思われるが、モアイの髪は赤い。すると一部のラパヌイ先住民は赤髪だったのか?私の推測では、初代リーダーのホツ・マツアは金髪だった。その金色は岩では表せないので赤い岩を選んで頭に乗せた。どの文献にもそんなことは書いていないが・・・

モアイの背中に日本の神代文字が書かれていると最近、ニュースになっている。私は日本の縄文時代とモアイの時期は大きく異なるため、神代文字がモアイの背中に書かれた可能性はないと考える。似たようなことだが、インカは日本人の血を引いていると言うのも考えられない。インカはアンデス文明の一番最近のもので、それ以前にプレインカの長い歴史がある。そのプレインカの時代を無視してインカが日本と関係するのは不可能だろう。

ところでインカの10代目皇帝のツパック・ユパンキは1480年ころに数か月間、太平洋を航行し、あちこちの島に上陸したとされる。その島はガラパゴスやラパヌイと推定されている。

そのグループは100隻の船で2000人が乗船していたとか。ポリネシアに負けない気迫だ。インカは短い期間に南米各地に領土を拡大したが、この太平洋の旅では友好関係だけで占領はなかった。

さてアフはモアイを置く祭壇の事だが、石組みで作られている。その石組みに3時期のものが見られる。初期・中期・後期だ。それがペルーのインカ・プレインカ時代のやりかたと同じだった。それは南米から定期的に島を訪問していた証拠だろう。

モアイが作り始められたのは8世紀とすると、ツパック・ユパンキよりずっと昔のことで、ユパンキ以前に既にラパヌイとのコンタクトがあったに違いない。

私はクスコにいたとき、その石組みに興味を持ってぺルーの各地でそれをチェックしていた。ここが世界のトップだと思いながら。

しかしその後にエジプトに行った時、そこでインカの石組みによく似たものを見つけ、年代を調べるとエジプトの方が時代的に古いことが分かりがっかりした。

その他

ところでトカゲ人間 のマークが残っているが、それは両性人間の事かと話題になっている。 モアイの背中にそれが刻まれている。

それからテ・ピト・オ・テ・ヘヌア(地球のへそ)と呼ばれる丸い岩がある。それは初代酋長のホツ・マツアがポリネシアから持ってきたと言う言い伝えがあるが何トンもの岩を運んでくるのは不可能ではないか。

私はそれと良く似た岩を中米のコスタリカでも幾つか見たことがある。日本にも和歌山県熊野神社の奥宮は玉置神社と言われるがその御神体は大きな石の玉だ。同様のものが島根県美保神社にもある。つまり、日本・コスタリカそしてラパヌイも同じような感覚を持つのだろう。

4部 欧州人とのコンタクト

先に述べたように1722年にオランダ人がイースターの日にこの島に到着しイースター島と名付けた。そのロッヘフエンによると島には1000体のモアイが見られたとする。もちろん、彼は島中を歩いてモアイの数を数えたとは思えないが、それほど多くのモアイがあったとするのだろう。そしてすべてのモアイが倒されていたとはしていない。つまりその時は島民は正常な生活をしていたのだろう。島民が殺しあって文明が崩壊したと言う事実は無かったとオランダ人が確認していることになる。

1770年にスペイン人が来てスペイン領土と宣言した。1860年に神父が来てキリスト教を伝える。最初の宣教師は土地の文化に関する報告書の中で絵文字ロンゴロンゴについて、すべての家庭でそれが所持されていると書いた。その次に来た宣教師はそれはキリスト教の教えに反するとし破棄するよう信者に命じている。このため現在まで存在するロンゴロンゴの数はほんのわずかにしかすぎない。カトリックによるこのような土着文化の破壊は世界中で行われているわけだ。

最悪の事態だが、18-19世紀にこの島に奴隷狩りが来ている。例えばペルー副王朝(その頃ペルーはまだ独立していなくてスペイン領土だった)の依頼で欧州人が島民を南米本土に連れ去った。それからフランス人がタヒチに連れ出したりしている。そして最悪のケースは1862年の奴隷狩りで当時の人口3000人の半分がペルーに拉致されたと言われる。

1870年フランスがその島の領土宣言をした。もちろん、上記以外に欧州人の訪問が多数あったのは事実だ。

さて1888年にチリがラパヌイ島を領土にする。その年、海軍軍人トロが島に到着し、今までの欧州の国と同じように領土宣言を出したわけだ。それ以降、チリ領土が続いている。その時に、チリ政府と現地代表が交した合意事項では、島の私有地をチリ政府は尊重するとなっているが、結果的にはそのようではないみたいだ。

そして島の有効活用はあまり行われず、イギリスがオーストラリアで行ったように、チリも島を刑務所として囚人を送ったことが記録されている。さらに企業に羊の養殖場として使用するよう貸し与えたこともあるとか。先住民の事は全く考えていなかったわけだ。

さらに1937年に海軍軍艦の購入経費が必要となったチリ政府は島の販売を試み、他の国と並んで日本にもコンタクトしている。

5部 文明崩壊

ラパヌイについてよく言われるのはモアイを作り・運び・建てるには大量の木材が必要とされた。従って島民は木の伐採を実施したので森林が無くなり自然破壊になった。このため食糧の不足が激しくなり、各派閥間の争いが起こり、お互いを殺しあい文明の崩壊に向かっていった。その時、相手グループのモアイをアフの上で倒したとも言われる。

しかしそれは正しいのだろうか?私はそれは間違いと考える。その理由を下記の通りだ。

ラパヌイの先住民によるとモアイは島の中を歩いて移動したと言うが、確かに最近の実験でモアイに3方からロープを結び引っ張るとモアイはまるで歩くように進むのが確認されている。つまりモアイの運送に木を一本も切る必要はなかったことになる。

それから先に書いたがモアイが作られたラノ・ララクに約400体のモアイが放置されている。つまり、島のあちこちに運ばれ設置されたのは500体だけとなる。

仮にモアイ輸送に木材を使っても2年に1個のペースで、しかも合計500体では森林消滅はありえないだろう。つまり森林の面積が減少した事とモアイは関連しないと思われる。

ところで、その倒れていたモアイをアフの上に運ぶ作業を日本が助けている。日本の企業タダノが島にクレーン車を持ち込みそれを使って作業したのだ。現地のガイドがそれを観光客に説明していた。もっともまだアフの所で倒れているモアイはあるが。

先住民のグループの間でタンガクマヌ(鳥人)と呼ばれる鳥人儀式がある。毎年同じ時期に、ラパヌイの前の小島にマクタラ(軍艦鳥)と呼ばれる小鳥が卵を産むころ、各グループ代表がその島に泳ぎ、卵をもって戻ってくる。最初に戻ってきたスイマーの所属するグループのリーダーが次の年、島の運営権を握った。つまり見苦しい戦争をしないでも各グループの間の均衡が図られるシステムがあったわけだ。ラパヌイの創造神マケマケの化身が鳥人と呼ばれたわけだ。その姿は岩絵に残っている。

それが継続していたのは確認されている。キリスト教が入った後も続き1866年まで実施されたとか。その年は欧州人に多くの島民が誘拐された後の事だ。

つまり島民の間では問題がたとえあったにしろ、話し合いなどの解決方法を持っていたと言うことになる。それに関連して島では人殺しのための武器は見つかっていない。島で見つかった人間の骨でも武器が理由で死亡したと思われるのはほとんどない由。と言うことはラパヌイ文明が消えたのは欧州人が侵略し、島民を殺すか、奴隷として拉致したからだろう。この時、島の知識人はリーダーとして最初の奴隷グループに入れられ、島から連れ去られた。絵文字ロンゴロンゴがある日突然、消えていったと言う理由になりそうだ。

欧州人が持ち込んだ病気で島民が死んでいったと言う説もあるが、数人とか数十人の死亡はその理由かもしれないが、何千人も病死したことはないだろう。それはパタゴニアで先住民が短い期間で消えていったケースと同じだ。同じように後から侵入したネズミが島の天然破壊をしたとする説もあるが、一部ならともかく全面的に破壊したことはないだろう。つまりラパヌイ文明消滅の真の理由を表面に出さないように誰かが情報を後ろから操っているのではないだろうか。

上記が正しいとする説明の追加になるが、オランダ人が来た時、島民は彼らにサツマイモをプレゼントしている。余裕があったと言うのは正しいか分からないが、少なくとも知らないグループにプレゼントしたのは事実だ。従って島民は食料が不足してお互いに殺しあって文明が消滅していったとされるのは間違っている。島民はこうした野菜・果物と豊富な魚介類を食料にしていたわけだ。

ところでサツマイモは南米原産と言われるから、南米からラパヌイに届けられていたことが分かる。南米との交流はモアイの基礎のアフで証明済みだろう。ところでそのオランダ人グループはラパヌイ人を何人か銃殺している。冗談に発砲したのか、殺人狂だったのかもしれない。

1985年に島をスペースシャトルの緊急着陸地として利用していたNASAの人が来て島の石の塔を調べると、その塔の位置は正確に南北を表していた。ラパヌイ人も他の文明と同じく太陽の動きなどは把握していたのだろう。先祖があの優れたポリネシア人だったから当然だろう。

最大時1万5千人だった人口が千人もいなくなった後、現在8000人ほどに復帰している。私は原住民が増加したと考えたので、以前に島を訪問したとき先住民の子孫だと考えて会話をした。現在の島の人間の大半は先住民の子孫と言われることがあるが、100人とか200人までに減少した先住民が100年と少しの間では、2倍にはなるかもしれないが、1000人まで増加するのは不可能だろう。たとえ欧州からの移民との混血を加えても。

だから現在の島民はチリ本土の場合と同じで、最近、欧州から移民してきた人がほとんどと思われる。つまり古い文明は残っているように思われるが、実際はそうでもないのかもしれない。前回の国勢調査では島民の10%が先住民の子孫と答えている。今年、実施された国勢調査の結果は年末に発表されるが、先住民の子孫は1000名まで行くだろうか?

6部 島の現在

島への観光旅行

島はチリ領土なのに、サンティアゴからそこに行くには外国へ旅するような手続きが必要になる。ラタム航空の搭乗手続きを終えるとPDI警察の出国管理手続きが必要になる。その時、島への往復の航空券と、島のホテルの予約確認が要求される。

島民の生活

昔、ラパヌイを訪問したときと現在の違いは大きい。すぐに気が付くのは車の数だ。以前は島の中にわずかの車が動いていたが、今では多くの車が島の中を走っている。もちろん電気製品の普及は進み(世界中どこでも同じだが)テレビはどこにでもある。携帯電話も時々、繋がらないことがあるが正常に機能する。ただ高層住宅は全く作られていない。

しかし驚くべきことは、島には犯罪がほとんどなく、店の前に車を止め買い物に行く時、車の中にキーを残したままにしている。サンティアゴなら1分もしないで盗まれるだろうが、島では問題はない。

島民の風習として刺青がある。チリは刺青の多い国だ。2年前、ボリッチ政権が誕生したとき、大統領の彼と内務大臣と大統領府の長官の3人が政権の中心だったが3人とも刺青をしていた。私は刺青3人組と呼んでいた。しかし島民のレベルはそんなものではない。恐らく、島民で刺青をしていないのはいないのではないか?それほど、島では刺青が常習化している。つまり、彼らにとって刺青は不良・やくざとは全く関係ないのだ。

コロナ問題で観光客が来なくなった時期の苦しみと対応

島の重要産業は観光だ。コロナで何年か観光客が途絶えた時、多くの家庭は収入の道が閉ざされた。2,3ヵ月なら貯金で凌げるが、それが2年にもなると破産になってしまう。その時、島民は大昔のように自給自足に挑戦した。野菜・果物を各家庭の庭に植える。魚介類を取って食べる。本土の援護として、銀行がクレヂット額を大きくし、島民は借金で生活苦を凌いだ。もちろんそれを今、支払っているわけだが。

観光地の案内

島に幾つもあるモアイが立つアフ、海岸、オロンゴ火口など見どころは多い。その中で私が好きなのはアフ・トンガリキだ。そこのモアイ像は雰囲気抜群。でもトンガリキって何か日本語の雰囲気がある。尖がり起かな、尖がり鬼かな。もちろんその他に多くのアフはある。

アナケナ海岸はすべての観光客が行くところだが、そこに初代ラパヌイ酋長ホツ・マツアが上陸したと言われる。そしてモアイが作られたラノララクも見る価値はあるだろう。私たちが覚えているモアイとかなり違った姿形をしたモアイがあり、モアイが長い間作り続けられたことを実感できる。

ラパヌイ語

あいさつはイオラナ(朝昼晩いつでも使える)、ありがとうはマウルル。この二つは便利だから覚える値打ちはある。

追加

今回は触れなかったけれど太平洋にムー大陸が存在したと言う説がある。その大陸は北端はハワイ、西はフィジーそして一番東はラパヌイとされる。ムー大陸はムーロア大陸と言われることもあるが、日本にその名前がついた地区が、例えば和歌山県の牟婁(むろ)郡、室生(むろお)他多くある。日本とどういう接触があったのだろう。この島を原住民が広い大地(ラパヌイ)と呼んだのはムー大陸の思い出からだろうか?そのムー大陸とアトランティック大陸が戦争して両文明が崩壊したと言う説もあるが・・・

地球周回軌道

地球の極は太陽と月の影響による歳差運動により移動している。ちょうど回転する独楽の首ふり運動のように。この周期は2万6千年と言われる。ある時期、ラパヌイ・六甲山ラインが赤道になっていたらしい。北極はアメリカの5大湖にあったので、その地区には古い文明はなかった。逆に南極は緑に覆われていたとされる。

以  上


ラパヌイのモアイ像