連載エッセイ408:久野佐智子「ラテンアメリカにおける『出産のヒューマニゼーション』」その2【エルサルバドル】 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ408:久野佐智子「ラテンアメリカにおける『出産のヒューマニゼーション』」その2【エルサルバドル】


連載エッセイ 408

ラテンアメリカにおける「出産のヒューマニゼーション」
その2【エルサルバドル】

執筆者:久野佐智子(JICAエルサルバドル事務所、広域企画調査員)

エルサルバドルでは、2022年に「優しさに包まれた出産と出生法(スペイン語で、”La Ley Nacer con Cariño”)」が制定されました。それまで、すべての国立病院における出産シーンは、入院すると同時に家族と隔絶された環境の中、女性は飲むことも食べることも許されず、一人でベッドに横になりながら陣痛の痛みに耐えて産む、というものでした。医療者も、また女性ら自身もそれに対して何の疑問も持たず、それが当たり前だと思っていたものの、当然「幸せな出産経験をした」という声は聞かれませんでした。

しかし、エルサルバドルのファーストレディがイニシアティブを取って制定されたこの法律のおかげで国内の産科ケアは大きく改善され、現在ではすべての国立病院で妊娠期から出産に至るまで、妊産婦、赤ちゃん、家族中心のケアが手厚く行われています。

(1) 保健省のプロジェクトと個人としての経験

「出産の思い出のなかで、あのときが一番幸せな瞬間でした。」
これは、無事に産まれてきてくれたわが子を初めて胸に抱いて早期母児接触(カンガルーケアもしくはSkin-to-skin contactともいう)をしたときの、あるお母さんの感想です。彼女の名前は、マリア・ホセ・ドミンゲスさん。「優しさに包まれた出産と出生法」に基づき、エルサルバドルで出産のヒューマニゼーションを、コーディネーターとして推進してきた保健省のプロジェクト関係者です。彼女は、国立病院の医療者が妊産婦中心のケアを実践することにより“ケアの質”を改善すべく、法律が制定されたときから保健省のプロジェクトに、中心的に携わってきました。
例えば、プロジェクトの活動のひとつである妊婦教室。現在エルサルバドルでは妊娠期に10回の妊婦教室に参加することになっています。そこでは妊産婦がより健やかに過ごせるよう食事や運動などの健康に関する情報を提供したり、危険徴候を説明することで異常があった際の早期受診に繋げたり、出産の仕組みについて実物大の模型を使ってわかりやすく説明するなどしています。さらに、参加している妊婦がリラックスして楽しい時間が過ごせるよう音楽を聴いたり適度に体を動かすなどの工夫もされています。このプログラムは保健省により統一して定められていることから、全国どこでも同じ内容の妊婦教室に参加することが可能となっています。また、保健省が作成した教育教材にはフリースタイル出産(出産中、お母さんにも赤ちゃんにも異常がない場合には、分娩台の上だけではなく、産婦が出産をするのに楽な姿勢を取ること)に関する説明があり、妊婦教室に参加する妊婦やそのパートナーは、出産時によりリラックスし、出産しやすい体位について具体的にイメージをすることができ、同時にパートナーは産婦の身体の支え方などを学びます。ちなみに、エルサルバドルの国立病院で分娩介助を行う医療者は全員がフリースタイル出産に対応できる訓練を受けており、可能な限り産婦の希望を取り入れた体位で出産を安全にサポートできるような体制が整備されています。このような出産ケアの改革と、また前出のプロジェクトコーディネーター、マリア・ホセさんが語ってくれた出産後の早期母児接触など、妊産婦と赤ちゃんを中心とするケア、これらはすべて2022年に制定された法律に基づいて全国の国立病院で実施されているものです。


妊婦教室の栄養士による栄養指導


保健省のフリースタイル出産を紹介する教育教材。妊婦教室で使用されている。

(2)私立病院と国立病院

エルサルバドルでは、他の多くの途上国と同様、プライベートセクターとパブリックセクターの医療サービスは完全に分かれています。一般的な評判としては、私立病院の診療費はかなり高額であることから、より迅速かつ高度な医療サービスが受けられると言われており、一方で保健省傘下の国立病院の診療は基本的にすべて無料で誰もが受診できることから、長く待たされる上、ときに機材が故障していて検査や治療が行えなかったり、消耗品の不足から必要な処置ができない、というようなことも発生します。また、国立病院における医療者の患者への接し方については、接遇を重視するというような場面はほぼみられません。これは上述したように、以前の国立病院における産科ケアそのものです。それが、「優しさに包まれた出産と出生法」が施行された2022年以降、保健省は海外(主にアルゼンチン)から何度も専門家を呼び寄せて、産科ケアに携わる医療スタッフに対して研修を繰り返したことにより、現在では高額な私立病院よりも無料の国立病院の産科ケアの方が質の高いものへと変わりつつあります。特に、出産のヒューマニゼーションという視点においては国立病院の方が断然進んでおり、これは保健省が実施した一連の研修において、知識や技術に加え産科ケアにかかわるすべての医療者の意識改革にも重点を置いて実施されたことによるものです。
マリア・ホセさんは、自分自身の妊娠がわかったときに私立病院で出産することも考えて、病院見学をしたそうです。そこでは、現在国立病院で行われているような妊産婦と赤ちゃんが中心のケアは実践されていないことに気づき、「ここに任せるには、不安が残った。」と言います。そこで、自らプロジェクトを実施してきた国立病院で出産することを決め、その選択は大正解だったと感じられていることが彼女の言葉の端々から伝わってきました。


国立病院の産科病棟。扉の先は母児同室の個室で各部屋には浴槽のあるバスルームが備わっている。

(3)エルサルバドルの出産のヒューマニゼーションに対する声

「優しさに包まれた出産と出生法」の施行から、国立病院における産科ケアを改善するプロジェクトのコーディネーターとして活躍をしてきたマリア・ホセさんのもとには、国立病院で出産した女性らの声も届いています。それは総じてポジティブな感想で、特に法律が施行される前に国立病院で出産を経験した女性にとって、現在のケアはそれと比較すると信じられないほど、産婦として自分を尊重してもらうことができ、何もかもが手厚いと感じられているようです。このように妊産婦が明確な違いを感じ取っていることから、国立病院における出産ケアに対する満足度の上昇が示唆されています。
マリア・ホセさんが、自分自身も実際に妊婦教室に参加し、妊娠や出産について学び改めて感じ取ったことは、女性自身が自分の身体のことを知り、出産の仕組みを理解することで、バースプラン(出産のときに自分がしたいと思うこと、周りに積極的にサポートしてもらいたいこと)が明確となり、より満足のいく出産ができるということ、です。出産のヒューマニゼーションの実現には、医療者任せではなく女性のエンパワーメントもとても重要なポイントであることから、エルサルバドルの妊婦教室ではその点にも力を入れています。確か、これは前回のコスタリカでも言われていたことを思い出しました

(4)マタニティセンター

最後に、エルサルバドルのマタニティセンター(スペイン語で、”Centro de Espera Materna: CEM”)と呼ばれる国立の妊産婦のための施設についてご紹介したいと思います。これは、病院から遠くに住む地方在住の妊産婦のための保健施設で、血圧が高めなどの異常があったり、妊娠36週以降で出産が近くなっている女性が、危険な徴候や分娩が始まったときにすぐ救急車で病院へ搬送できるようにするために設立されている宿泊施設です。希望する妊産婦は誰でも宿泊することができ、運営予算は基本的に地方自治体に任されています。どのマタニティセンターにも、母子ケアの専門家(医師・看護師ではなく母子ケアという学士のコースを履修した専門家)が2交代で24時間常駐し、宿泊中の妊産婦に対するケアを行っています。ベッド数は10床前後で、これらの施設も2022年以降は法律に基づいた運営がなされるようになり、もうすぐ出産を迎えるという宿泊中の妊婦らは「ここにいたらきちんと診てもらえるから、家にいるよりも安心」と、口を揃えて言っていました。


マタニティセンターに宿泊中のロシオさん(21歳)とカテリンさん(19歳)。

マタニティセンターは、妊産婦が心地よく過ごせるよう環境にも配慮されており、プライバシーの保たれた居住空間と清潔なキッチン、ゆったりと過ごせる共有スペースなどが設けられています。建設されたばかりの新しいマタニティセンターは、まるでホテルのようでした。また、スタッフも温かく迎えてくれることから、妊産婦にとっては出産前の日々を落ち着いて過ごせる場所となっています。エルサルバドルにとって、このマタニティセンターは地方在住の女性に対してより安全な出産をサポートするために大変重要な役割を担っており、このおかげでエルサルバドルの国内の出産の専門技能者による分娩介助率が上がり、これは国内の妊産婦と新生児死亡の予防に繋がっています。


マタニティセンターの宿泊棟。まるでホテルのような雰囲気。

2022年の法律施行から、わずか2年そこそこで大改革が進んだエルサルバドルの国立病院における産科ケア。母子保健指標をみると、妊産婦死亡率や新生児死亡率は先進国と比較するとまだ高いことから、より安全な出産を実現するためには一層の努力が必要ではあるものの、産科病棟のチームで一丸となって妊産婦や赤ちゃんのためのケアに情熱を注ぐスタッフを見ていると、今後さらなる改善が期待されます。

以  上