執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、ブラジル日報紙の2024年11月25日付けの記者コラムを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
父金子秀雄の作品集を持つ太郎
1934年に渡伯した金子家の子孫が、10月26日にサンパウロ市近郊コチア市のレストランに約80人も集まり、移住90周記念祝賀会を開催した。その際、1世世代の家長だった金子秀雄の息子、太郎(71歳、2世)から父の作品集『ひとりごと』(2001年)をもらった。
奥付を見てみたら発行所は、コラム子が昔働いていた「ニッケイ新聞」。「序文」は安良田済(あらたすむ)、「あとがき」は栢野桂山と、取材で世話になった人ばかり。思いのほか距離が近いことに驚いた。
掲載された1938年に書かれた随想「母を想う」には、思わず引き込まれた。その要点を書きだす。《渡伯して四年、私は一日として母を想わない日はなかった。異国に住む子を思うことは、お寺参りかお茶のみより他にすることのない故郷の母には尚更であろう。私を胎にしたまま夫を失い、それより次々数々の苦労の中に老いてしまった母だった。末子であった私がブラジルに渡ってしまった以上、もう自分の見てやらなければならない我子はいなくなった母なのだ》と地球の反対側の母を思いやる。
《渡伯して二年ぐらいは故郷の母へ、月に一度は必ず手紙を出したが、近ごろは二カ月に一度、四カ月に一度になってしまった。母を想いながらも私には一本の手紙がまとまらなくなったのだ。この貧乏生活のありのままの便りは、子を心配する母には出せないし、そうかと言って嘘を書いて母をあざむくことはどうしてできよう》との心情を赤裸々に綴る。
《母は私のブラジル行は反対だった。私が母の胎にいるうちに夫に死なれ、今度は生き別れしようとする子に、うらみの泪で目をうるませるのだった。私は遂に渡船の決心を捨てた。ところが突然に「行きたければ行っていいよ!」という母の言葉に、私は耳を疑った。(中略)「本当に渡伯しても良いよ。あんなに可愛い娘さんが、お前のお嫁となって同行しようと言うのだから…」》という一言に背中を押されて渡伯した経緯が語られる。
だが、最後に《私はブラジルに何をしに妻を連れてきたのだろうか? この国に如何にして生きて行けばよいのだろうか? 私は故郷の母の悲しみを想うたびに、いまだその自分の問いにさえ、はっきりした答えができない自分のおろかさに恥入る》と締めくくられる。
初期の貧乏生活を描写した短歌には《この棉で借金返してしまいたい二年この方かなしい借金》《疲れはてて夕方の小便のこの赤さ淋しさが湧く悔もまじりて》《マンジョカを食べて屁をひる飼犬の屁は憎めない貧乏な俺》《夕飯のすめば疲れてねむくなりメーザを這えるダニを見ている》など、軽妙な雰囲気の中に強い情念が込められている特徴がある。
妻を詠んだ短歌には、《妻の居るはるかな街の病院の明け方の灯に見入るひととき》《生と死の間をじっと耐えながら闘い続ける目を閉じし妻》《病む妻のためにはるばる借りてきた金盗まれた日――巻いた玉菜よ》《貧乏のくらし続けばつづくほど妻を愛さむ歌を作らむ》《屋根裏を堕ちきし青い蛇を見てブラジルは嫌やといいつのる妻》などの熱愛を感じるものが多い。
その一方《死ぬことがなんでもなかったよべの夢――起きて静かにコーヒーを飲む》には、死のうと思った夢まで見た朝、その余韻を噛みしめながらコーヒーを飲むという、ある種、壮絶な姿も描かれる。
この作品に対し、安良田済さんは「序文」で《経済的にも精神的にも切羽つまった、極限に立つ作者が如実に語られている。多くの人が語るのを避けたい屈辱、絶望、挫折のうめき声に満ちている。最近は「もう旧移民の苦労話はたくさんだ」という声をときおり耳にする。こういう人たちは、人間が生きるということは何か、と自問したことのない、いわゆる飽食時代の経験しかないからであろう。この人たちのいう苦労など、金子さんが生きた苦労とは次元がちがうのである》と気持ちいいほどに一刀両断する。
初代1世は7人。このように家族の歴史が始まり、現在は約100人にまで増えている。
祝賀会の最後に全員で記念写真
思えば、最も移住者が多かった「日本移民の団塊世代」が今、90周年、100周年を迎えている。関東大震災が1923年9月に発生し、多くの被災者が海外に活路を見出そうとする出移住圧力が高まる中、最大の送り出し先だった米国で排日移民法が1924年に施行され、行き場を失った。困った日本政府は、ブラジル行きの渡航費を国が補助して後押しする政策を始め、1925年から国策移住が始まった。
そこから1934年7月にブラジルで外国移民二分制限法が施行されるまでの10年間を、コラム子は「日本移民の団塊世代」と呼んでいる。この10年間の総数は約13万2千人で、戦前戦後を合わせた数の半分以上を占めるからだ。
その「団塊世代」の最初1925年組は来年移住100周年を迎え、最後の1934年組が今年90周年を迎えている。
その一つがこの金子家で、初の大規模な移住記念祝賀会には遠くは南大河州からも集まり、家族史を振り返りながら和やかに半日を過ごした。
1934年、新潟県長岡市に生まれた金子博治(ひろじ)と従兄弟の今井コウジは、第一次世界大戦後、日本が昭和大恐慌などで大不況に見舞われての生活が苦しくなる中、家族とともにブラジル移住を決意した。今井家は同年5月30日に神戸で乗船して57日間の船旅を経て、7月26日にサントス港に到着した。金子家はほぼ同じ時期に出発し、到着は8月24日だった。両家族はサンパウロ州アグドス市のコーヒー耕地に配耕された。
金子家では、妻チセを新潟で亡くした博治が、長女フミとその配偶者秀雄に加え、3人の子供を連れて移住した。長女フミは移住前に小林秀雄を婿養子として迎え、この金子秀雄が家長となって渡伯した。
博治は残りの長男一郎、次男忠次(ちゅうじ)、三女ヨシノを連れて渡伯した。次女美代は日本で結婚し、三男三郎、四男四郎は日本に置いてきた。この三女ヨシノは、間部学画伯と結婚し、間部ヨシノとなり、数少ない1世世代として会に出席した。この金子家初代7人の子孫からはさまざまな人材が輩出している。
例えば、東京工業大学で博士号を取得した者、経営学修士(MBA)の上級幹部、大手銀行取締役、弁護士、医師、歯科医、修士号を持つ大学教員、建築家、過去に三井物産に勤務していたとか、日本に鶏肉を輸出する企業を経営するなど日本に関係のある仕事をしている者や、農業製品やダクトなどを生産するカナフレックス(KANAFLEX)社社長などのビジネスマン、建築家、画家とビジュアルアーティストなど、ブラジル社会に深く広く根を張っている。
間部ヨシノさん
ヨシノは1930年2月27日、新潟県長岡市生まれ。移住時は4歳だったが現在は94歳だ。「日本でのことは何も覚えていないわ。ブラジルに来たばかりの頃のことも、父に連れられてコーヒー農園に入ってブヨにかまれて泣いたことぐらいかしら。父からあまり故郷の話も聞かなかった。でも『10年でお金貯めたら日本に帰るぞ』と言っていたのは覚えている。でも戦争が始まって帰れなくなった。当時は同じような人がたくさんいたわ。秀雄さんに私たちは育ててもらった」と証言した。
「私たちに日本語を教えるために父は家族で俳句会をやって句集まで作っていた」とのこと。でもあちこちと引っ越しをする中でその句集は無くなってしまった。「今でも残っていたら家族の宝なんだけどね」と惜しんだ。
間部学とのなれそめを聞くとマリリア近くのガリア在住時、「まず秀雄さんが『今時こんなに話の分かる青年は珍しい。とてもしっかりしている』と彼にほれ込んで、秀雄さんに薦められてお見合いした。秀雄さんが学さんの家を訪ねた際、絵がかかっているのを見て、この絵は素人じゃない、きっと絵描きになると感動したと言っていました」とのこと。
間部学は6歳年上。「半年間おつきあいして結婚し、それから二人三脚が始まりました。最初から絵だけでは食べられないので、間部は看板描きとか何でもやりましたよ」と思い出す。あと「弟が一人、まだ新潟に生きているわ。青柳三郎といってやっぱり画家なの」と言った。
家族の歴史を説明する様子
金子太郎は親の芸術家気質を受け継ぎ、画家になった。「年を取ると余計、家族の大事さが身に染みる。孫が4人いるんだけど、ボクがアトリエで絵を描く傍らで、孫が遊んでいる。孫に囲まれながら好きな絵を描くなんて、ボクは夢のような生活をしていると思うよ」と笑った。
この会は2世世代(60~70代)を中心に準備が進められた。中でも言い出しっぺとなったのは、一郎の長女みどり(71歳)だ。彼女にこの会をやる動機を尋ねると「20年ほど前、父が生きていた頃、サンタイザベルの家に兄弟とか親戚を呼んで簡単な移民祭をやったの。今年は家族移住90周年だから、それを思い出して何かやったらどうかと思った」と父の想いを引き継いだ動機を説明した。
さらに「金子家は7人で渡伯して今は4世世代まで広がり、100人ぐらいになっている。私の中には両親から学んだ日本文化が染みついている。それを次の世代、甥っ子、姪っ子に伝えられたらと思ったの。お父さんは家族をとても大切にしていた。私たちもそれを繋げたい」と強調。
祝賀会のロゴ
最後に「こんなに沢山集まるなんて、本当に呼びかけてよかった」としみじみ語った。この話を聞きながら「これはとても大切なことだ」と痛感した。1世が子供に伝えた想いが、2世の代で途絶えるのか、3世や4世まで伝わっていくのかという瀬戸際で、2世世代が「家族に伝えていこう」と決断したから、この会が開かれた。
当日、太郎、みどり、タダオ、ケン、ヨシノ、オグロ家らがそれぞれ歴史を語り、最後に一郎の孫カルロス・エジガル(46歳、3世)は「我々の家族には団結があり、祝福され、この90周年を祝った。この集まりはとても心強く嬉しいもの。家族の伝統を次の世代につなげる良い機会をもらった」と感謝の言葉を述べた。
ブラジルは、華僑でもユダヤ人でもどんなアイデンティティも溶かす〝民族溶鉱炉〟だ。移民コミュニティは放っておけば自然に一般社会に溶け込み、すぐに民族アイデンティティは無くなっていく。それはごく自然なことだが、民族文化を残すことで、多文化社会としてのブラジルを豊かに維持する貢献の道も残されている。
「団塊世代」が2世世代を迎えて、彼らが定年退職する60~70代になった今は、実は大切なタイミングだ。家族会で使われる言語の99%はポルトガル語だ。2世世代の多くは実は日本語もペラペラだが、次の世代は難しいだろう。だからこそ、彼ら2世が親から受け継いだ伝統を次世代に伝えようと決意したことは、とても尊いと感じた。(敬称略、深)