執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
[宗教芸術(arte religiosa)と非宗教(世俗的)芸術(arte secular)]
バロック芸術を誇示するミーナスの彫像のほとんどは石鹸石で作られている。それに対して、他の地域のそれは多くの場合、まだ粘土と木材が使用されていた。そして、特に聖母マリアをテーマにした、冠を配した小さな頭部に豊かなプロポーションの王妃として描かれたものは、サンテイロ(santeiro=聖人像を彫る人)と呼ばれる職人によって好んで作られた。
キリストの殉死のシーンを描いたものも多く、例えばバイーアのManuel Inácio da Costa の手になる「死せるキリスト」や、無名の有色奴隷を描いた壮大な肖像「混血児」の作者Francisco Chagasの例がある。
サンテイロは通常カルメリテス教団に属していたが、命令に応じて家具や肖像画をマヌエル様式やD.José 様式で製作していた。
金細工職人も引っ張りだこで、Rodrigo de Brumなどはどっしりした銀机をミーナスで作っている。しかし、金の密輸を恐れて権力者たちはそうした活動を規制したり封じ込めようとしていた。
世俗芸術同様に、宗教をテーマにした彫刻や木彫り、石彫り、土や金属の彫り物そして絵画は、全盛期を迎えたのである。
19世紀のブラジルの絵画は概して、素朴で原始的とみなされている。技巧面で欠落するものが感じられるが、イタリアのイルージオニスト[幻覚法を用いる芸術家Andrea del Pozzoの想を得ている。
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ブラジルの主要な教会のほとんどはポツツオ流の天井画を持っている。柱を大きく見せかけ、空と天井が一体化しているかのような印象を与え、その雲間には勝利の女神が君臨している様子が描かれている。
ブラジルでこのイタリアの奇術師様式を初めて採用したのは、リオのペナンス第三教団教会(聖域)の
Caetano da Costa Coelhoと、ミーナス•ジエライス州Cachoeira do Campos市のナザレ聖母教会(聖域)のAntônio Rodrigues Beloである。
この様式の傑作は、Manuel da Costa Ataídeの手
になるものかもしれない。彼の作品はOuro Preto にある懺悔アツシジSão Francisco 第三教団教会の会衆席の天井にあり、1801年から1812年にかけて描かれたものだ。そこでは、小さな混血の天使が聖母に王位を授けるさまが画題となっている。
この作品はAtaídeの別のもの、例えばミーナスのCaraça高校会議室にある「最後の晩餐」(A Última Ceia)や、ドイツのルネサンスを彷彿とさせるVia Crucis駅にみられる[現在はInconfidência 博物館に収蔵されている]凡庸なものとは一際異なったものだ。
他の作家としては、「グアララペスの戦い」(Gerra de Guararapes)を描いたペルナンブーコのJoão de Deus SepúlvedaやFrancisco Bezerra , 共にバイーア人であるLuis Alves PintoとJosé Joaquim da Rochaがあげられよう。Rochaはポルトガルで学び、海岸聖母受胎教会の会衆席の背景を描いたとされている。
リオで平凡な題材をとりあげ、植民地の一般的な傾向とは一線を画した作家には、José de Oliveira Rosa、元奴隷の身で精巧な肖像画で定評のあるManuel da Cunha、当時の庶民の日常を描きさまざまな卵型のパネルを製作したLeandro Joaquim、オペラハウスを遠近画法でペイントしたJoão Francisco Muzzi、さらには、自然描写に特化したFrancisco Solano Benjamimなどがいる。
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建築や彫刻、絵画と同様に、宗教芸術をも育んだ。18世紀の半ばまで、ブラジルで支配的なクラシック音楽は単調な聖歌であり、これはイエズス会によって社会に広まった。オルガンや笛、ギター、それにバイオリンといった楽器はすでにブラジルで生産されていたが、スピネツトといった他の楽器は輸入されていた。
この頃、ハイドンやボチエリニ、ブレイレルのごとき作曲家の作品が、特にミーナスで聴かれるようになった。そして、Ouro Preto, Mariana, Sabará, Congonhasなどで学んだ、生まれが卑しいとみなされた混血児の音楽家の間に影響を与え始めた。
この驚くべき結果が、ミサ音楽、カンタータ、室内音楽の誕生であり、技術的にも非の打ち所がなかった。
(スタイルはどちらかといえばプレ•クラシックで、けしてバロックではなかった) “バロックの名手たち” が誤って指名され、このように卑しい身の混血児がしばしばパイオニアとなり、ベートーベンより先に第9和音の技術的な問題を解決したりした。
華やかな郊外の社会では、1000人を下らぬ音楽家たちは団体を作り、厳しい選考試験の末に教会との労働契約した団体は教団に所属するまでなった。しかも、ミーナスで存在していた平の修道士の身分まで得た。
このように安定かつ特権的な地位を得たことで、彼らの作曲の水準はことさら高まった。
南北アメリカの中で、ほぼブラジルに起こったコロンビアの音楽活動のみが、ミーナスのプレ•クラシックに匹敵していたといわれている。
ともあれ、プレ•クラシック音楽は何もミーナスに限ったものではなく、新しいスコアが発見されたりして、例えばペルナンブーコでもすぐれてものが存在していたことが証明されている。
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都市開発は富裕層を生み出すことになり、これが世俗(非宗教的)芸術にとっての確かな市場となった。canteiro 、画家、金細工師、陶芸家などはこの階層のために物を作り、描くことで生計を立てていた。豊かな彼らは概してヨーロッパの流行を追い、シノワズリ[(chinoiserie)=中国風の美術工芸品を珍重する、いわゆる中国趣味]など東洋的なものを好んだ。
そうした特権階級は一方において、リオで初めて
1748年に築造された劇場や個人の邸宅でコンサートを催し、特にオペラ、オペレッタを堪能した。ちなみに、リオのオペラハウスは同じく1748年に完成している。上流社会はメセナとなって劇場を後援もしていた。
そうしたなかにあって、CuiabáではVoltaireが上演され、自分たちの階層から知識人を生み出し、さまざまな集団が形成された。
ブラジル各地で発現した主として文人たちの集まり、例えば<ブラジル忘却アカデミー>[サルヴァドール, 1724年]、<幸福アカデミー>[リオ、1736年]、<選ばれし者のアカデミー>[リオ、1752年]、<海外理想郷>[ミーナス、?]などがそうである。
最後の<海外理想郷>は、双方とも詩人であるJosé
Basílio da GamaとSilva AlvarengaがSanta Rita Durãoの援助の下に設立したと言われている。
「ミーナス学派」(Escola Mineira)は、Vila Rica の詩人、作家を呼集してバロック的なものを牧歌詩(poesia bucólica)風にするところに特徴があったが、彼らの心の根底にあるのは、土着的で愛国的な
ナチヴイズモ[Nativismo=植民地本国ポルトガルの影響、桎梏から解放される、独立運動の契機となる。一般には、土着主義に発するポルトガルに対する嫌悪感]に溢れていた。
その愛国思想を前面に打ち出して作品に結晶化させたのは、「地獄の口」と形容された、ポルトガルを皮肉をまじえて痛烈に批判したGregório de Matos, Alvarenga Peixoto, Tomás Antônio Gonzaga, Cláudio Manuel da Costa たちだろう。彼らは、叙情詩のなかに愛国主義の感情を注入、組み込んだのである。
これらの詩人たちは、植民地本国からの執拗な圧制と桎梏から解放されるべく、また独立を勝ち取るために、1789年の「ミーナスの陰謀」(Inconfidência Mineira)に参画、首謀的な役割を果たした。裁判直前に死亡したCostaを除いて、いずれも死刑の宣告を受けた。
三人共にVila Rica に住み、知的活動に没頭していた彼らが、ポルトガル王国からの直接的な抑圧に苦しんでいた事由も、陰謀の背景にはある。
転じて、当時の教会は現実的には、アフリカの影響を受けた大衆の祭典であるブンバ•メウ•ボイ(bumba-meu-boi)に対して懐疑的であった。現在まで生き延びて繁栄し、今日のブラジルの民俗を発現させることになったこの祭典が、魔術的な様相を呈していたからであろう。
一方、演劇は不道徳とあるとされ、女性が舞台に上がることは許されなかった。女性への禁制が解かれたのは、18世紀の末になってからのことである。
当時の唯一にして卓越したポルトガル•ブラジル演劇と言えば、Antônio José da Silvaの作品であった。その彼はポルトガルで作品を手掛けたのであるが、ユダヤ教を実践した罪で宗教裁判において火刑に処せられた。
アメリカではすでに大学が存在さていたこの時期に、文学は受け入れられていなかった。
前述のInconfidência Mineira に関連して、ポルトガルがブラジルの植民地に課していた文化的閉塞に対して、土地の芸術家たちが反抗し、Vila Rica で蜂起を扇動したのには、それなりの事由があった。
植民地ブラジルの豊かさはひとえに金の産出に由来するものであり、その大部分が宗主国に吸い上げられていた。しかも、重税を課す一方で、金の密輸を厳しく取り締まりもした。
18世紀当初の北東部の砂糖農場の減少が、農場主と貿易業者の間に軋轢を生み出したように、金が少なくなってきたことで、植民地本国とブラジルとの間の利益が合致しないことが明らかになってきた。かくして、ブラジル独立の気運が高まるのである。
[ブラジルにおける宮廷と新古典主義]①
「ミーナスの陰謀」が勃発した後、宗主国ポルトガルと植民地ブラジルとの関係が険悪になり、極限に達しようとしていた時点で、ヨーロッパで起こっていた出来事は、ブラジルの独立に向けての動きに変化をもたらした。
フランス革命に続き、暴動の恐怖の只中にあったD.マリアI世は気が狂い、後のD. João VI世となる摂政D. João が政権を継承することになり、ブラジルの発展を遅らせ阻害させるような政策も和らいだ。
ナポレオン戦争が始まり、最後通告として大陸封鎖に加わるように突きつけたフランスと、忠誠を誓っているイギリスとの間の板挟みにあったD. Joãoであるが、究極において後者に与することとなった。
ナポレオン軍の侵入を避けることは困難である、とのイギリスの忠告を受けて、王家は議会もろともブラジルへ逃亡する道を選んだ。国王が1万5000人の側近を伴って1808年にリオに到来したこと自体、アメリカ史においては他に類例をみないことであった。
王室移転によってカルメリテス会修道院には宮廷が設けられ、大規模な改修もなされた。貴族たちの娯楽の場として、礼拝堂がコンサート会場や演劇のステージともなった。これを手掛けたのはLeandro Joaquim であった。そして彼は、ブラジルでは初となる政治的な絵画で飾った。
修道院から間に合わせに作られたそれも、小さ過ぎと感じたD. João は、より威厳のあるものを作るように命じた。こうしてSão João 劇場が1812には建造され、これを契機に地元の作者や役者が活動する場となった。
[ブラジルにおける宮廷と新古典主義(neo-classici- mo)の改革] ②
この国の娯楽には、音楽会、ダンスパーテイ、演劇だけでなく、闘牛、民俗的な祭の一つであるカヴアルカデス(cavalcades)など各種のトーナメントやロデオもあった。しかしながら、このいずれに対してもD. João はさほど興味を示さなかった。
王室が移転して王宮がリオに設けられると、もはやブラジルは植民地とは言えなかった。そのことでポルトガル人に付与されていた商業上の特権はなくなり、1815年には連合王国となった。南米に到着してからの王はリオにいたく満足して、リスボンに舞い戻る気などなかったように思われる。事実、国王が一時的に帰国したのは、1820年起きたポルトの「自由革命」(Revolução Liberal)の1年後のことである。
国王はリオの” 近代化”のためにさまざまな計画を立案し、それを実行に移した。工場を建設し、商業形態を変革するだけでなく、政府の文化政策も180度転換した。例えば、出版物の発行は禁じられていたが、財政援助が始まり発行が奨励され、書籍の発行の際の税も免除された。
しかも、王立出版所も設立されて新聞、小説なども出回るようになった。そして、カリメリテス修道院には王立の図書館も誕生し、一般にも公開された。摂政官邸のLinhares 宮廷には、リオ外科学校、植物園、展望台、小規模の鉱物博物館が建てられた。
かくして、リオの都市自体が王国にふさわしいものに近代化されるに至った。摂政自らが多くの公共建築物の建設を承認、その全てがゴシックではなく、近代的なネオ•クラシック様式のものであった。
[ブラジル宮廷における古典主義(neoclassicismo)の 改革) ] ③
近代的なネオ•クラシック様式がブラジルでも浸透するなかで、ブラジル人建築家たちが必ずしもこの”モダニズム” に精通しているわけではなかった。
この状況を変えるべく王室省のバルカ議会は、ナポレオンがサンタ•ヘレナ島に収監された1816年、フランス芸術協会と契約を取り交わした。これまで
辛酸を嘗めてきた多くの芸術家にとっては、歓迎される気運となった。
ナポレオンI世政権下で美術協会の元会長であった
Jacques Lebreton 首導の下に、Nicolas Antoine Taunay, Jean-Baptiste Debret, 彫刻家のAugust Ma-
rie Taunay, 建築家のAuguste Henri Grandjean de
Montigny, 音楽家のSegismundo von Neukommなどの使節団がブラジルの地を踏んだ。
ブラジルにおける使節団の活動は容易いものではなかった。というのも、宮廷は彼らの過去のために、条件付きでしか活動を認めなかったからである。
実際、計画の策定•建設、現地の美術協会の指導•助言をするために契約を結んでいたにもかかわらず、そうした計画は実行されないままに延期されもした。のみならず、終いには、王立芸術学院院長には、ポルトガル人の画家Henrique José da Silvaが任命される始末。
これに失望したフランス芸術協会の会員の多くは母国に帰ることとなる。それにもかかわらず、ブラジルに残った者は、この国の芸術に多大の影響を及ぼした。しかも、リオの景観を一変させ、音楽にも影響を与え、ほぼ一世紀に亘ってブラジルの芸術を左右したのである。
それかあらぬか、ブラジルの書籍に接すると、デブレーの描いた植民地ブラジルの光景などによく出くわす。
[ブラジルの宮廷における新古典主義(neo-classicis- mo)の改革] ④
音楽家のVon Neukommは、ポルトガルから1811年に来伯した指揮者のMarcos Portugal と、ブラジルで最初の偉大な指揮者にしておよそ400曲も手掛けた作曲家のリオの混血児José Maurício Nunes Garciaと合流、活動をともにした。
ちなみに、荘厳な曲で定評あるマス•オブ•サンタ•セシーリア(Missa de Santa Cecília)は、Gárciaの手になるものである。
ブラジル国歌[1831年]の作曲家でもあり、リオの芸術の初代校長ととして知られるFrancisco Manuel
da Silvaをはじめ多くの音楽家が、前述の三人の周りに集まった。
他方、建築家のMontignyとその弟子たちは、リオの街にパルテノン神殿のギリシャ様式の柱、白い外壁と三角形の正面を彷彿とさせる、クリアでシンプルな線を持つ、一連のネオ•クラシックの建物を建造していった。
しかしながら、その優美さに特徴を持つneo-classicismo 様式は、どういうわけか、ブラジルにはあまり適応せず、馴染むものではなかったようである。
ドリス様式もイオニック様式の柱の空間はブラジル人の趣向には合わず、白い空間はカラフルなタイルで覆われ、派手な花模様や田園生活の風景が代わって描かれた。
こうした趣向は国民の気質を表すものとして、ある時は親しみを込めて、またある時は皮肉を込めて、トロピカーリア(tropicália)名づけられた。
モンテイグニのみならず、我々をを驚かせたのは、neo-classicismo がトロピカーリアのかたちを借りて、19世紀全般に亘って存在し続けたことかもしれない。

[ブラジルの宮廷と新古典主義改革] ⑤
それでも、フランス芸術協会の影響は、ブラジルの芸術のさまざまなジャンルに浸透していった。ニコラス•タウネイ、デブレー、フェリックス•エミリ•タウネイ[そのうち、後者の二人は王立芸術協会の理事となった]は、美術史に足跡を残した。
興味深いことに、デブレーの場合は、新古典主義の様式を学んだことはなく、従って作品にはほとんど採り入れていないように思われる。と言いながら、多様な色使い、バランス感覚、美の極致の追求等において、neo-classicismo の理想型が垣間見まれる印象を強く持つ。ともあれ、この画家の作品は次に言及するドイツ人のJohann Moritz Rugendas の作品同様に、社会的なドキュメンタリー性を具えており、当時の社会を識る貴重な資料となっている。
1821年にブラジルを旅したルゲンダスも、数多くのスケッチを残している。
デブレーとその仲間たちによって確立された流儀は目を引き、新古典主義は一般大衆にも波及することとなった。
ブラジルではPedro Américo, Victor Meireles, Rodolfo Amoedoなどが登場し、歴史的、政治的な絵を描いた。アモエードはパリでは、” アカデミー会員の父” と称されたPuvis de Chavannesや、国民的叙情風の先駆者José Ferraz de Almeida Juniorに師事し、その後を継いだ。リトグラフやエッチングのごとき彼の作品に新な技巧の極致を見れるのは、疑いもなくフランスの影響だろう。
その一方で、ブラジルの美術が旧世界ではすでに時代遅れだった型に拘泥した要因ともなった
