連載エッセイ461:田所清克「ブラジル雑感」その62 ブラジルの芸術⑨ | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ461:田所清克「ブラジル雑感」その62 ブラジルの芸術⑨


連載エッセイ461

ブラジル雑感 その62
ブラジルの芸術 ⑨

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

ブラジルの芸術  Arte Brasileira
ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) 10

 政治的独立から100年後の1922年、多くのさまざまな芸術家たちを巻き込んだ「近代芸術週間」(Se-mana de Arte Moderna)は、音楽の領域においても、進むべき道についての議論の対象となった。
 その中心の議論の目的は、ヨーロッパ音楽の傾向とは全く異なる音楽の創造の模索とその定義付けにあったように思う。
 文学の視座からSemana de Arte Moderna の意義を考究してきた者の立場から、音楽も文学同様に、ブラジル性の追求にあったことは寸毫の疑いもない。
 近代主義の立役者の一人であり、傑作『マクナイーマ』(Macunaíma)を著し民族音楽者(etnomu-sicologista)のでもあったMario de Andradeは事実 1928年、ブラジル音楽についてのエッセイEnsaio sobre a Música Brasileiraも世に問い、作曲家は国民生活の中にテーマを見出だすことを主張している。そのために大陸規模の広大な国の、そこかしこに存在する豊かな民俗音楽に着目する必要性を説いているのである。
◎Semana de Arte Moderna については文学を 中心に、拙稿と拙著がいくつかある。興味をお持ちの方はご参照ください。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) 11

 サンパウロの市立劇場で発現した、国のオーセンティックな文化を希求する芸術革命とも言うべきSemana de Arte Moderna からしばらくして、二つの流れが台頭した。
 一つは、Mário de AndradeがEnsaio sobre a Música Brasileiraの著作で示した、ブラジル音楽の有り方に追従した動きである。Andrade の子弟であったCamargo Guarnieriに先導されて、ナショナリストとして知られているLuciano Gallet、Oscar
Lorenzo Fernandes、Francisco Mignone、Rada-més Gnattaliなどの作曲家たちは、音楽言語の普遍的な特徴を失わないnacional languageを共通して求めた。
 審美的に根底から異なるもう一つの流れは、ドイツ出自のHansJoachim Koellreutterが1939年に生み出した作品に端を発する。 Música Vivaを創設へ、した、Villa-Lobos やMário de Andrade とも親交のあった彼の周りには、Eunice Catunda、Cláudio Santoro、Edino Krieger、Guerra Peixe などが結集し、音楽言語の普遍性を拠り所にした。
 その支持者たちは、作曲の基本的な方法として無調様式(atonalism)と12音技法(dodecaphonism)の使用を擁護した。
 これらの作曲家たちはそうした考えを流布するために熱烈なキャンペーンを展開し、それは1946年に出版されたLive Music Manifestで絶頂を迎えるに至る。しかしながら、その後、Guerra PeixeとCláudio Santoroは音楽グループを脱退して別の考えを展開していく。

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 ケルロイイターとその支持者たちが普及させた概念と技巧にいささか不満を抱くCamargo Guarnie- ri-は1950年11月、辛辣なことで注目されることになる一冊の、公開質問状めいた(Carta Aberta aos Mú-cos e Críticos do Brasil)を世に問い、独自の作曲流派を立ち上げた。

 この流派に共鳴して後に名をなした作曲家には、
Nilson Lombardi 、Osvaldo Lacerda、Theodoro Nogueira、Sérgio Vasconcelos Correia、Raul do Valle、Aylton Escobar、Marlos Nobre、Almei-da Prado、Dinorá de Carvalhoがいる。
 1963年には、ケルロイイターが1946年に出したLive Music Manifest よりは広義で過激的な「新たな音楽のマニフェスト」(Manifesto da Música No-va)が、具象詩のグループと関係を持つ音楽家たちによってサンパウロで発表された。
 そうした音楽家の中で、Gilberto MendesとWilly Correia de Oliveira は、指揮者のKlaus-Deter Wolf-
fの活動に加わり、数年後にはサントスにArs Vila協会を設立している。
 この協会が1962年以降開いているニュー•ミュージック•フェスティバルを通じて、ブラジル内外の作曲家たちの作品が紹介されるようになった。
 新世代のJamil Maluf、Roberto Martins、Rodol-fo Coelho de Souza 、Gil Nuno Vaz といった作曲家たちもこの音楽祭典に参加していたとのこと。

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 ほとんどが地元の大学を卒業して互いに連携を取り合っていた、バイーアの作曲家集団が1966年には設立された。
 その設立者であったErnest Widmer、Lindember-gue Cardoso 、Jamary Oliveira らは、先進の技巧と音楽言語を駆使した。将来有望視されたAlda de Je-sús Oliveira とAgnaldo Ribeiro も後に入団する。
 バイーアの例にならって、他の大学も作曲家と接点を持ち始めるようになる。例えば、ブラジリア大学音楽部はCláudio Santroによって創設されたが、Jorge Antunes 、Emílio Terrazaのごとき著名な作曲家を擁している。
 リオでは電気音響音楽の分野でGuilherme Bauherが特異の存在である。彼とAntunes は、実験的なグループであるGemUrbやArs Contemporânea と関連を持ち、彼らの作品はLive Electronics などの新しいメディアの実験を反映したものになっている。
 パラナー州のJosé PenalvaやHenrique de Curiti-ba、南大河州のBruno KieferおよびArmando Albu-querqueも作曲活動を続ける傍ら、大学での指導に携わっている。
 ピアニストのHeitor Alminda、指揮者のRicardoTacuchian、映画や劇音楽の作曲家であるAyltonEscobarなどはリオを拠点に同様の活動を行っている。その一方で、作曲とその普及に尽力しているEdino KriegerやMarlos Nobreを忘れることはできない。
 サンパウロ州ピラシカーバのErnest Mahle、同州のタトウイーを代表する独創性に富んだMario Fica-relliやNilson Lombardi、南大河州の地方主義の視野を広げたBreno Blauth、エッセイストで指揮者でピアノ奏者のSouza Lima 、日本にも長く住んでいたLuis Carlos Vinhores、Murillo Santos、J. Guerra Vicente、Yves Rundes Schmidtらも特筆すべきであろう。

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クラシック音楽(música erdita) 13

 概して、現在のブラジル音楽は、ナショナリストとアヴアンギヤルドとの古いアンタゴニズムを乗り切っているように思われる。
 こうした音楽界の図式的な分割は、新しい技巧を採用し新しい手法を実験するのにはより受容的で厳格でない形式のものが現れたことから意味をなさないものになっている。
 新世代のブラジル人作曲家による作品は、海外でも頻繁に演奏されている。Marlos Nobre[モザイク、マルチプライド•ソング]、Jorge Antunes[ フラウタタウル、ウルトラヴアイオレツト•カタストロフイー]、Almeida Prado[Sonorous Book, Exoflora]、LIndembergue Cardoso (Sediments]らの作品がそうである。
 1974年の「ブラジル現代音楽協会」の再興•復活やブラジリアでの「全国作曲家ミーティング」の開催等でブラジル音楽の演奏回数も増え、音楽活動も一段と活発になっている。

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侮れないこの国の独創性に満ちた珠玉の作品群: ブラジルのスクリーン ①
As obras sublimes cheias de originalidade deste país que não podemos desprezar: Cinema Brasileiro

はじめに
 学生の頃、ブラジルの映画を観ることは全くなく、その存在すら疑っていたほどであった。国立フルミネンセ大学(リオ)に留学時に、Catete 宮殿とは指呼の距離のGlória、そしてニテロイに転居してからも、前者はCinelândia、後者はIcaraí にある映画館に足繁く通っていたような気がする。
 それというのも、ポルトガル語の運用能力を高めることを兼ねての目的もあったからだ。が、観たものは総じて、喜劇性に溢れたエロチックなものが少なくなく、この国の映画の質的レベルの低さーーあくまで誤った自身の認識ーーに失望したほど。
 ところがどっこい、そうした誤認は私のブラジル映画に対する知識の浅薄さに起因していることが、文献を介してこの分野への知見を徐々に深めるにつれて、と同時に、実際に名だたる映画を鑑賞することによって、思い知らされた。
 ことにCinema Novo以降の作品群や、私がかじっているブラジル文学を土台とした作品には、ブラジル性を表出した独自性のある優れたものが少なくない。
 次回から、不完全なかたちではあるが、歴史に沿ってブラジル映画について素描したい。

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歴史に沿って観るブラジルの映画 ②

 1986年、リオの新聞は最初の映写機(オミノグラフ)がブラジルに到来したことを報じている。が、アニマトグラフ、シネオグラフ、ビタモトグラフ、ビオグラフ、シネマトグラフ、ビタスコープなどの様々な機械と共に映画が主要都市に持ち込まれたのは翌年のことである。
 ”珍品会館”(Novelties Hall)とか”リオのパリホール”(Paris-in Rio Hall)とか呼ばれた最初の観覧会場が設けられたのは1897年の7月らしい。
 その一方、ブラジルにおける映画制作の幕開けとなったのは、ホールのオーナーであるPaschoal Se-gredo兄弟がパリからの帰途、フレンチ•ライナーの機内からグワナバラ湾を撮影、” Brésil” という題名で1898年7月19日に作成したのが一致した見方である。
 1907年までのブラジルの映画作品は、驚くことに、自然風景のみであったそうだ。初めて物語と脚本のある作品、例えば「アナスタシウス叔父の旅からの帰着」(Uncle Anastasius Arrives on his Travels)が制作されて現れるのはその翌年であったそうな。短編でリオの田舎者(caipira)の冒険を物語るこの作品は、ブラジル初のフィクション映画となった。

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歴史に沿った映画 ③  

 立て続けに1908年には、Photo Cinematogra-phia Brasileira映画会社 を経営するAntônio LealとJosé Labancaが、リオで実際に起きた犯罪を扱った「絞殺魔」(Os Estranguladores)を制作した。後者は長年、ブラジル映画の創始者とみなされていた。
 この映画が成功を収めたことから、当時の犯罪を描く数多くの作品が制作されることになる。「血の婚約」(Noivado de Sangue)、「サンパウロの悲劇」(Paulista Tragedy)、「チジユーカの一幕」(Um Drama na Tijuca) 、「姉妹のスーツケース」などがその一例である。
 1908年から1911年にかけて、多様な主題の映画を私たちは知ることとなる。つまりそれらは、メロドラマ、警察者、歴史的ものであったり、愛国的、宗教的、政治的ものに基づいたコミカルなものであった。
 そのほとんどの作品がLealとLabancaの手になるものであることは驚きである。この二人とライバル的な存在の人物は、Cristóvão Guilherme AulerとFrederico Serradorかもしれない。オペレッタ作品「陽気な未亡人」(A Viúva Alegre)、「ルクセンブルクの伯爵」、「芸者」、「ワルツの夢」(Walts Dream)¿¿8>、「伯爵夫人のバレフオツト」の他に二人は、新しいスタイル、すなわち演劇の伝統を取り入れながら、政治的な事件を作品に風刺したりもした。

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歴史に沿ったブラジルの映画 ④

 当時の映画興行で大成功を収めた作品といえば、José Patrocínio Filhoが脚本、Alberto Botelho が監督してGuilherme Auler がプロデュースした「平和と愛」(Paz e Amor)だろう。
 ところが、1911年が幕を閉じる頃には、絶頂にあって経済的にも潤んだ国内の映画産業も劇的にすたり、1912年にリオで書かれた脚本はただの一本という有り様であった。
 1910年代の当初はそのように映画産業は停滞した状況にあったが、10代の若者が再生、復活をもたらした。
 復活の起爆になったのは、Botelho 兄弟がリオで制作した「1400コントの窃盗」(Roubo dos 1400 Contos)、「パウラ•マトスの罪」(O Crime de Paula Matos)などの短編犯罪映画である。
 1914年には俳優でもあったポルトガル人のFrancisco Santosが到来、Rio Grande do Sul に定住して、ヒット作の長編映画
「バニヤードスの犯罪」(O Crime do Banhado)を制作している。ちなみに、この映画は、南大河での政治闘争の結果虐殺された家族の物語をテーマにしている。存在するなかでもっとも古いフィクションであるようだ。 
「おじいちゃんのメガネ」(Os Óculos do Vovô)の作品があるFrancisco Santos には他方、私が敬愛して止まなかったJorge Amadoの「フロール夫人とその夫」(Dona Flor e Seus Dois Maridos)を映画化した人物として記憶にある。

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歴史に沿ったブラジルの映画 ⑤

 O Crime do Banhadoの後、映画産業は復活の兆しをみせ、とくにリオやサンパウロで創作活動が行われた。
 1914~1918年の間に、12以上の映画会社が上の2都市だけで設立された。同時期には、戦争で疲弊した演劇や映画の専門家もヨーロッパから逃れてやって来た。そうした外国人とともに、リオのLuiz de Barros、サンパウロのJosé Medina、ジャーナリストのIrineu Marianoが、この時代の映画制作において重要な役割を果たした。
 1915年以降の映画は、磁石で引きつけられる砂鉄さながらに、ブラジル文学の虜になった私にとっては黙過し得ない。つまり、雨後の筍のように、ブラジル文学作品をベースとした、あるいは作品に想を得た映画が目白押しに制作されたからである。
 José de Alencar の『オ•グワラニー(OGuarani)、『イラセマ』(Iracema)、『ウビラジヤ』(Ubiraja-ra)、『若後家』(Viuvinha)をはじめ、Viscondede Taunay の名作である『イノセンシア』(Ino-cência)と『ラグーナからの撤退』(A Retirada da
Laguna)、Olavo Bilac の『エメラルド•ハンター』(O Caçador de Esmeraldas)、Aluísio Azevedo の原作『オ•ムラト』から作られた「南十字星」(O Cru-zero do Sul」などがそうである。

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歴史に沿ったブラジルの映画 ⑥ 

 前述の作品に加えて、ブラジルの第一次大戦への参戦を描いた作品も生まれている。「祖国と旗」(Pátria e Bandeira)や「悪魔の映画」(O Filme do Deus)がそうで、後者はドイツ軍の進攻の間の、リオとベルリンが舞台として設定されている。
 この時代のブラジルには、最初のアニメ映画[desenho animado]「カイザー」(O Kaiser)が風刺画家のÁlvaro Martins [Seth]の手によって制作されていることも注目される。
 1920年には、警察映画も「クラヴイーニヨの罪」(O Crime de Cravinho)で復活を遂げた。同時期、リオで演劇監督を務め「すべてが音楽」(Tudo é Músi- ca)などの作品のあるLuiz de Barro、サンパウロを活躍の場とするJoséMedina、そしてVittorio Capella-roなどが傑出した映画人として名を連れている。
最後のVittorio Capellaroの場合、ブラジルロマン主義を代表する小説家José de Alencar の珠玉の作品のいくつかを映画化している。
 1920年代に突入すると、映画の数も大幅に増え、それに並行して、映画自体の質も格段に向上する。

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歴史に沿ったブラジルの映画 ⑦ 

 1920年代になると、制作される映画も大幅に増え、その質も高まつた。Pedro de Limaと、雑誌「シネアルテ」(Cinearte)を通じて、映画界ですでに活動していた団体を導いたAdhemar Gonzagaらが重要な作品を生み出した。
 それに加えて、リオやサンパウロ以外の地域でも、新たなグループがこの国の映画産業の発展、拡大に寄与した。わけてもペルナンブーコ•サイクル(Ciclo de Pernambuco)と、飛躍的に前進させたプロデューサーにして映画監督のHumberto Mauroを代表とする、カタグアーゼエス•サイクル(Ciclo de Cataguases=1920年代からミナスジェライス州のカタグアーゼエス市で始まった活発な映画制作)の作品群は抜きん出ている。
 1930年3月15日シネーデイア(Cinédia)がリオに創設されて間もなく、Humberto Mauro は「キスのない唇」(Lábios Sem Beijos)を作っている。Mário de Peixotoも新たな伝説となる「限界」(Limite)を同じCinédiaから作品にしている。シユールレアリズムの映画に分類されるこの上質の映画は、人間の不満
となる条件によって引き起こされる争いを描いている。
 CinédiaがプロデュースしたHumberto Mauro の最重要作品といえば1933年の、「ガンダ•ブルタ」(Ganga Bruta)だろう。古典的な映画として、主役を取り巻く社会環境を検証し、蜜月旅行の初夜に妻を殺害する技術者の物語で、Simbolismo を探究したものとみなされている。
 同年CinédiaはCarmen Miranda にとってはデビューとなる「カーニバルの声」(A Voz do Carnaval =The Voice of Carnival)を発表した。ブラジル映画の進むべき方向を予見する意味で、この作品の存在は看過し得ない。