連載エッセイ486:設楽知靖「ディアスポラとラテンアメリカ」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ486:設楽知靖「ディアスポラとラテンアメリカ」


連載エッセイ486

『ディアスポラとラテンアメリカ』
=越境的民族移動、政治的難民などの歴史的・地政学的視点からの考察=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

ラテンアメリカ時報、2024年・春号の特集『日・カリブ交流年2024』とカリブ諸国の今の28ページ。ガイアナの記事のところで“ディアスポラ”の言葉が登場する。この
『ディアスポラ』の言葉を調べてみると非常に深く、また歴史の面から興味がわき脱植民地期における旧宗主国と旧植民地の間の問題、冷戦崩壊後のグローバル経済が進展するとともに地域紛争が各地で激化してきている。このような複雑な問題を多方面から考察を試みてみたい。

1. ディアスポラの語源について:Diaspora/ diasporas

英語の辞書を引いてみると、『dia-』は“二つの間”、“横切って”などの意味が出てくる。また、“あちこち”ということらしい。そして『-spora』は“散在する”、“ばらばら”という意味から“散らばっている”ということになる。さらに調べると『まき散らされたもの』というギリシャ語に由来する言葉で、パレスティナ以来の地に移り住んだユダヤ人及びそのコミュニティーに使われたとされる。
このことから現在では『移民』や『難民』を含む幅広い越境現象や離散民をさす用語となっている。もともと古代ギリシャ語の『ディアスポラ』は地中海圏に広がった都市国家“ポリス”にギリシャ人が入植し離散していることを意味していたが、ヘブライ語聖書がギリシャ語に翻訳された際に古代イスラエル王国の滅亡によるユダヤ教徒の故郷喪失をさすヘブライ語『ガルート』の訳語として充てられたことから、後に『ユダヤ人離散』のみをさす定冠詞,大文字“Diaspora”として使われるようになったと言われる。

2. その後の言葉の展開と拡大:

離散ユダヤ人は各地で文化発展に大きく貢献した。そして故郷を離れて他の土地へ移住することを余儀なくされた、または選択された人々のグループをさすことが、さらに拡大してギリシャ人のディアスポラ、アルメニア人のディアスポラ、として使われ始め、最近では華僑、印僑、パレスティナ人、日本人へ広く使われるようになり元の国家や民族の居住地を離れて暮らす日系人にも使われる。その後、第二次世界大戦後、脱植民地期に旧宗主国と旧植民地との間で越境的な民族移動に『ディアスポラ』が使われるようになり、小文字複数形の『diasporas』と変化していき、ディアスポラは“ユダヤ人の独占”ではなくなった。

3. ディアスポラの概念は急速に普及:

冷戦崩壊後グローバル経済が進展するとともに地域紛争が各地で激化してきている。移民労働者や政治難民が世界規模で生み出されるようになり、1990年代より、その概念が普及していった。ディアスポラは離散や故郷喪失という否定的なニュアンスだけでなく新しい混淆文化の創造に寄与するものと言われている。

4. メソアメリカ文化のディアスポラ

ラテンアメリカ地域における歴史上のディアスポラについて検証すると“ディアスポラ”は人が移動して異なる文化圏で、そこの人々と接して、交渉、交易ができる。その異文化地域に居住することにより、次の創造が展開されることになると思われる。
ここでコロンブス到達以前の中央アメリカ地域のメソアメリカ文明における交易展開について検証してみると、メキシコ湾岸で紀元前1500年ごろから都市文明が形成され数カ所の離れた地方で域内相互交流が行われるようになった。それがタバスコ州で紀元前800年頃から開花したオルメカ文化である。この分布状況がメキシコ湾岸からメキシコ中央高原への回廊に沿っての往来の集中がみられる。
生産物はヒスイや黒曜石の交易から始まり、熱帯低地産のカカオ豆で、これは飲み物だけでなく“貨幣”として使われたといわれている。そしグアテマラとユカタン半島のマヤ文明、高原のテオティワカン文明では約10万人の人口に達 していた。そこでマヤ低地と高知地方との交易が盛んになった。
中央高原ではトルテカ文化とアステカ文化が栄え都市国家テノティトランはスペイン人が1519年に到達したときは『市場システム』が大きく発達していた社会でトラテラルコでは毎日6万人もの人々で賑わい、数百の様々な商品が扱われて地元産品と長距離交易商品で『市場ネットワーク』が発達していた。
資料によれば、オルメカ起源の海岸地方の古いディアスポラが役割を果たし、高原文化とかなり同化していたが海岸地方とつながりのある固有のアイデンティティといくつかの文化要素を維持していた。文化的に異なる人々が都市の中に居住区で分離して住んでいた多くのディアスポラが存在していた。
この商業的共同体の中で記録されていうのが『ポチテカ人』(アステカに存在した交易人)で彼らはとくにトラテロルコとテノティトランのアステカ人の中で暮らしていた。

5. アンデス・インカ文化とブラジル・バンデイランテスのディアスポラ:

初期交易の『互酬、再分配、市場交換』の概念としてインカ帝国は高度な官僚国家で、自給自足の中で村落の余剰生産物を国家倉庫に集め分配システムを管理,不作の時の備蓄に備えた。また市場交換が並行して存在した。インカ時代は,その前時代の商業習慣が保持されていて国家の再配分システムと民間のシステムが競合していたとされる。また“ミティマす”という制度があり新に併合した地域に派遣された集団が新しい土地で独立した村落を構成して特使技術を発達させた。
ヨーロッパによる侵入で陸上交易ではブラジルの後背地の置ける『バンデイランテス』の存在がある。バンデイランテスは奴隷狩りと商業と探検と探鉱を目的とする内陸遠征のために武装した組織で内陸の探検と入植の任を負っていた。その中心地が今日のサンパウロで、そこから内陸へ展開し地方拠点の設立にも貢献した。これが植民地都市の中核となる永住値をつくりあげディスポラへ進展させた。
その後、長距離交易商人はバンデェイランテスの活動により、はるか南のラプラタ川両岸でヨーロッパから牛が草原に逃げ出し、このパンパ地帯から皮革輸出をスル交易民が生まれ、ディアスポラによる異文化間交易の形を作った。

おわりに:

『移民』と『難民』の違いは、前者は故郷を離れて他の土地に居住してその社会に同化して生活してゆくことで、後者は故郷を離れるが、やがて故郷の地が情勢が変化して安心して生活できることで戻れる可能性ができる人をさすことである。
このところ世界情勢は厳しい状況にあり、ウクライナ問題のみならず中東における紛争は予断を許さない情勢となり、特に私が最初のプロジェクト経験をした地であるイランは心配であり、イランの京都といわれる美しいイスファハンの美しさを思うかベル昨今である。また、パナマに駐在の折、中央アメリカの各国は東西冷戦の代理戦争といわれ、内戦状態でした。その結果、住民はアメリカ合衆国の受け入れにより難民となって故郷から渡り、その人々の大半はそこに残り生活の場を得て、特にエルサルバドルの人々は、その後故郷のファミリーに支援を続けている。
今日の中東情勢を初めとして{難民}が激増して、再び『ディアスポラ』という言葉がクローズアップされ、住民が離散する事態は再燃され、拡大されることが懸念される。居住者が故郷を追われることなく、よい意味での『ディアスポラ』が続く平和な世界を望むものである。   

以   上

<資料>:『異文化間交易の世界史』、フィリップ・D・カーティン著
     田村愛理、中堂幸俊、山影進 訳、NTT出版、2002.7.27.
  『ブラジル史』、アンドウ・センパチ 著、岩波書店、1983.9.22.