【季刊誌サンプル】日本にとっての日系人・日系社会の意義と日本政府の政策 山田 彰(外務省参与、ラテンアメリカ協会 常務理事) | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

【季刊誌サンプル】日本にとっての日系人・日系社会の意義と日本政府の政策 山田 彰(外務省参与、ラテンアメリカ協会 常務理事)


【季刊誌サンプル】日本にとっての日系人・日系社会の意義と日本政府の政策

山田 彰(外務省参与、ラテンアメリカ協会 常務理事)

本記事は、『ラテンアメリカ時報』2025年秋号(No.1452)に掲載されている、特集記事のサンプルとなります。全容は当協会の会員となって頂くか、ご興味のある季刊誌を別途ご購入(1,250円+送料)頂くことで、ご高覧頂けます。

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日本にとっての日系人・日系社会の意義と日本政府の政策 -山田 彰(外務省参与、ラテンアメリカ協会 常務理事)

ラテンアメリカ(中南米)への日本人移住と政策の変遷
今日、海外各地に住む日系人の数は、外務省の「海外日系人数推計(2023年)」によれば、世界全体で推計約500万人であり、そのうち6割を超える約310万人が中南米で生活している。しかし、一口に「日系人」と言っても、実はその定義はあまりはっきりしていない。
外務省の定義では、①日本国籍を有する永住者、と②日本国籍を有しないが、日本人の血統を引く帰化1世、2世、及び3世等、の両方を合わせたものを日系人としている。しかし、4世以降何世までを日系人とみなすかは、明確ではない。日本人の血統を少しでも引く者自体は時代が進むにつれ増えていくが、彼らと日本、日系社会とのつながりが薄れれば、「日系人」としてのアイデンティティを持つ者は減っていくのが通常であろう。
21世紀の初頭には、「中南米の日系社会では世代交代が進み、若い世代は、日系人としてのアイデンティティが希薄になっているので、このままでは日系社会は消滅していってしまうのではないか」という声も聞かれた。
しかし、筆者自身この10年以上中南米の各地で様々な世代の日系人の方々と接してきて感じることは、「日系社会は変貌を続けているが、若い日系人も含め、日系のアイデンティティを自認し、日本との絆、つながりを重視する層は依然として多く、日系社会が消滅するようなことはない、一方で、変化する日系社会に対応して、日本政府の政策もアップデートし続けていく必要がある」ということである。
今日の日系社会政策を見る前に、中南米への日本人移住の歴史と移住政策の変遷について簡単に触れたい。

日本人の組織的な海外移住は、1868年ハワイに渡った153名の農業労働者に始まるとされる。明治時代は米国をはじめとする北米大陸への移住が増加したが、米国では19世紀末から20世紀初めにかけて日本人移住者排斥の機運が高まり、移住者は中南米を移住先として目指すようになっていった。1897年には、「榎本殖民団」と言われる人たちがメキシコに渡った。メキシコへの移住はその後続がなかったので、中南米に対する組織的移民第1号は1897年のペルーへの集団移民(佐倉丸に乗った793人)であると考える向きもある。1908年には、笠戸丸が781人の移民を乗せてブラジルに到着した(サントス港に到着した6月18日は「海外移住の日」と定められている)。
その後、ブラジルを中心とした中南米地域への移住が官民で積極的に進められ、戦前に中南米に移民した日本人は約24万人を数えた。初期の移住者は、過酷な自然環境、重労働、低賃金、病気など厳しい生活・労働環境を耐えなければならなかったが、移住者は団結して徐々に各地でその地位を築いていった。しかし、当初日本移民を歓迎していた現地国でも排日の動きは存在し、例えばブラジルでは、1923年排日移民法が議会に提出され否決されたものの、1934年には移民制限法が可決された。この時期の日本の対南米外交の最重要課題は、安定的な移住の実現にあった。