執筆者:司 涼(元JICA海外協力隊)
2025年9月13日、私はメデジンに再び降り立った。前回この街を訪れたのは6年前、JICAの協力隊員としての任期中だった。そのとき案内してくれたのは、地元大学で教鞭をとる日本人の方だった。ラーメン屋や寿司屋も点在し、日本人移住者が多いことに驚いた記憶がある。ガイドブックには「革新的な都市」とあり、夜のイルミネーションが世界一とも評される華やかな街──それが私のメデジンへのイメージだった。6年前のメデジンは、まだ発展途上の活気と同時に、どこか張り詰めた空気も感じられたが、今回空港に降り立った瞬間から、街全体が以前にも増して洗練された印象を与えていた。

写真1:エル・ポブラド地区の一角
今回は、観光化によって生じた都市の変化や歴史的背景を肌で感じるためのプレ調査。特に、都市再生の象徴とされるコミューナ13の現状を知ることが目的だった。旅は私の調査の一環だったが、現地の大学生カミーロ君が協力してくれることになり、二人旅となった。
カミーロはボゴタ近郊に住む大学4年生。国内旅行の経験はあるものの、飛行機に乗るのは今回が初めて。窓際の席から興奮した様子で翼の動きを観察し、しきりに写真を撮っていた。初めての空の旅に、彼の若者らしい純粋な好奇心が溢れていた。彼はスペイン語の通訳だけでなく、現地の案内役としても心強い存在だった。
旅程は妻が手配してくれていた。私が仕事に追われていたこともあり、彼女が率先して動いてくれたのだ。感謝しつつも、調査目的に沿ったルートを自分で練りたかったという思いもあった。早朝の帰国便やガイド付きツアーなど、予想外の要素も含まれていたが、結果的には収穫の多い旅となった。この小さなすれ違いが、後に私の研究者としての立ち位置を問い直すきっかけになるとは、このときまだ知る由もなかった。
ホテルに到着後、時差の影響で眠りに落ちた。昼過ぎに目を覚ますと、カミーロが周辺を散歩して戻ってきたところだった。私たちは近くのレストランへ向かい、メデジン名物のバンデハパイサを注文した。
豆のスープ(フリホレス)、鶏そぼろ、揚げ豚、ウィンナー、バナナのフライ(パタコン)、そしてサラダが一皿に盛られたこの料理は、妻のお気に入りでもある。カリッと揚がった豚皮(チチャロン)の香ばしさと、豆のスープの素朴な甘みが口に広がる。その記憶が蘇り、懐かしさがこみ上げた。しかし、今回もあまりの量に驚き、食べきれずに残してしまった。

写真2:バンデハパイサ
コロンビアでは、食べ残しを持ち帰る文化があるが、滞在しているホテルの部屋には冷蔵庫がなく、保存ができない。しぶしぶ料理を残して店を後にした。ちなみに、翌日には部屋に冷蔵庫が設置されていた。単にホテル側が忘れていただけかもしれないが、理由はともあれ安堵した。
その後、旅の生活費を確保するためATMで現金を引き出そうとしたが、私のクレジットカードではなぜか利用できなかった。海外では時々こういうことがあるが、スマホ決済やWISEアプリも試したものの、現地のATMは対応しておらず、制度の違いに戸惑うばかりだった。現金でしか支払えない店も多く、結局、妻の母から預かっていた現金で旅を乗り切ることにした。
夕方、カミーロの案内でタクシーに乗り、エル・ポブラド地区へ向かった。かつて協力隊時代に訪れたペルー料理店の近くで、記憶が少しずつ蘇る。夜の通りは、週末を楽しむ人々でごった返していた。アンティークな趣と現代的なセンスが融合した高級ブティック、お洒落な洋服屋、タトゥー店が並び、行き交う人々も皆、身なりを整え、活気に満ちている。洗練された香水の香りが漂う一方で、バーやディスコからはレゲトンの重低音が腹に響き、独特の熱狂を生み出していた。その洗練と熱気が混じり合う雰囲気は、私が記憶していた6年前よりもさらに安全になったように感じさせた。時間はまだ8時過ぎだったが、スリや泥棒の気配すら感じさせないほどだ。

写真3:エル・ポブラド地区の入り口
しかし、バーに向かう途中、その華やかさのすぐ近く、人波を縫って歩いた公園の入り口では、若い女性たちが客引きを行っていた。距離を置いて歩いていたものの、その光景は明確で、この煌びやかなナイトライフの裏側に潜む現実を静かに示唆していた。街の熱気と女性たちの切迫した視線が交錯する、まさに「光と影の交差点」だった。
私は一軒のコーヒー土産店に入り、チョコレートやパネラ、バニラ風味の豆について店員から話を聞いた。コーヒーの産地として知られるメデジンらしい品揃えに心惹かれたが、財布の中身が心もとなく、購入は見送り「また来ます」と告げて店を後にした。
私たちは賑やかな通りに面した一軒のバーに入り、テラス席に腰を下ろした。カミーロが店員にビールを注文すると、彼は驚いた顔で値段を私に伝えてきた。「ビール8本で10万ペソ(約4,000円)だって。高すぎるよ」。納得がいかない様子の彼は、すぐに隣の店へ向かい、同じ銘柄を注文してきた。戻ってきた彼の手には8万ペソのレシートが握られていた。
「こっちの店の方が2万ペソ(約800円)も安い。もっとローカルな店なら、3分の1の値段で買えるんだけどね」と彼は少し呆れたように言った。この価格差は、観光地で日常的に見られる現象だ。しかし、この物価の上昇は、観光客にとっては一過性のものかもしれないが、地域住民の生活空間を少しずつ圧迫していく。この一杯のビールにも、メデジンが抱える経済構造のひずみが表れているように感じられた。
テラス席でビールを飲みながら、カミーロはあたりを見回して、この地区の現状について語り始めた。
「この辺りは、住居価格がどんどん上がっていて、地元の人が住めなくなってきている。観光客が増えるほど、物価も上がる。さっきのビールみたいにね。外国人が多いから、店も値段を上げてるんですよ。地元の人はもっと奥の店で飲むけど、観光客は知らないから、表通りの店で高い金を払っちゃう。」
彼の言葉には、都市の夜に漂う解放感と、そこに集う人々の感情の揺らぎが滲んでいた。
「この辺り、週末になるとすごく混むんですよ。みんな仕事終わりに来て、酒飲んで、ちょっと現実から離れたいって感じで。ディスコでは男女の新しい出会いが始まる場所っていうか、日常とは違う空気が流れてるんです。」そして、彼が少し前に通り過ぎた公園に目をやり、声を落として言った。
「あの公園、夜になると若い女の子たちが立ってるんです。いわゆる客引きで、外国人を狙って声かけてくる。警察も見回りしてるけど、根本的には変わってない。観光地の裏側には、こういう現実もあるんですよ。」
彼の語りは、都市の光と影を等しく見つめる視線だった。私はその言葉を聞きながら、観光地としてのメデジンの華やかさの裏にある、生活者のリアルな感覚に触れていた。彼の語りは、研究者としての私の視点を補完し、都市の見え方を豊かにしてくれた。
旅の初日が終わりに近づく頃、私はホテルのベッドに横たわりながら、静かに思考を巡らせていた。かつて「革新的な都市」として記憶していたメデジンは、確かに華やかだった。ガイドブックに載っていた夜のイルミネーション、ラーメン屋や寿司屋の並ぶ通り、日本人移住者の多さ──それらは、6年前、私が初めてこの街を訪れたときの印象として、私の中に残っていた。

写真4:この地区の様子
しかし、今回再び降り立ったメデジンは、その華やかさの裏に、より明確な「影」の存在を感じさせていた。
観光地の表通りには活気があり、外国人観光客で賑わっていたが、その裏側には、日常生活における物価の高騰、そして見過ごされがちな社会のひずみが存在していた。都市の光と影が、よりくっきりと浮かび上がっていたのだ。
観光者としての私は、都市の表層を歩き、風景を楽しみ、食を味わう。一方で、研究者としての私は、都市の構造を読み解き、制度の断層を探り、人々の語りに耳を傾ける。その二つの立場は、ときに重なり、ときにずれる。妻との計画のすれ違いから始まったこの旅は、期せずして私に「予定調和ではない現実」と向き合うことを強いていたのかもしれない。
都市を歩くことは、必ずしも明確な立場を持つことではない。むしろ、揺れながら歩くこと、立ち止まりながら考えることこそが、都市との関係性を深めるのだと思う。冷蔵庫の不在、ATMの不具合、歓楽街の物価──それらの小さな出来事が、都市の輪郭を少しずつ浮かび上がらせてくれる。
この旅は、調査の始まりであり、都市との対話の第一歩だった。長いようで短かったメデジンでの最初の夜が、今、静かに終わろうとしていた。次に向かうのは、かつて最も危険な地域とされたコミューナ13。そこでは、エストラート制度が人々の生活に落とす影と、ストリートアートが持つ再生の力、そして「観光」という新たな光がもたらす現実が交錯しているという。私はその「うわべではない姿」を、この目で確かめに行く。
以 上