執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
少年時代から諺に関心のあった私は、ずいぶん日本の諺を覚え、またそのためにそれに関連する辞書や資料を集めたものである。そのこともあってか、ポルトガル語の諺にも興味を持ち、リオに留学時には、ネイティブスピーカーからかなりの諺を教えられ、同時に自ら学びもした。目下、ポルトガル語の慣用表現について記しているが、これはあまりにも身勝手で、おそらくこの言語をかじられていないほとんどの人にとつてはたとえて言えば、「猫に小判」(lançar pérolas a porcos=豚に真珠を投げる、放つ)の如きかも知れない。つまり、ポルトガル語を解せない方々には土台無理があり、あまり意味がないように思える。でありながら、ポルトガル語にある程度理解のある人のために、今後も継続して論及することに変わりはない。
しかしながら、その一方で並行して、よく使われるポルトガル語の諺を、日本語のそれとの連関において言及したい。諺を通じてブラジル人やポルトガル人の思考や心理の一端を知ることも出来るのでは、と思うからである。以下のようなかたちで、ポルトガル語の諺を取り上げつつ、簡単な解釈を加えてみたい。
なお、日本語のものを含めて、ポルトガル語の諺辞典については写真で後日、紹介する。
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“Raio não bate no pau deitado”(雷は倒木したものには落ちない)
出過ぎた人や、頭角を現す人は、叩かれたり憎まれたりする。日本語の諺で例えればさしずめ、「出る杭は打たれる」に当たる。なお、pau は棒とも杭とも訳せる。
ともあれ、このポルトガル語の諺は、言動には謙虚さ(humilidade)が必要であることを説いているのである。
日本の諺では俗に、「出る釘は打たれる」と 誤用されて用いられることもしばしば。
ともあれ、こうした教えや真理には一理あるが、他方において「出ない釘は腐る」のも確かであるような気がする。
“Saco vazio não se põe又はnão pára de pé ” (空の袋は立たない)
留学時に初めて耳にし、覚えた諺である。日本でいう「腹が減っては戦ができぬ」に当たる。要は、空腹では力仕事はできないことを教えている。この種の意味を持つ諺は、世界中に共通して見出だせる。
例えばフランス語では、全く同じ表現のSac vide ne se tient deboutがあるし、またイタリア語でもSacco vuo non sta rittoという諺がある。ついでながら、Sacco pieno vuol ripouso 、すなわちポルトガル語に訳すれば、 Saco cheio quer repouso(=いっぱいに詰まった袋は休憩を求める)といった全く虐待の意味の諺もある。
※戦は軍とも書かれる。páraは前置詞paraではなく、動詞の活用形である。前置詞との混同を避けるために、三人称単数の活用の場合は、a の上に鋭音符が付けられる。
つまり、「ジャガー(=アメリカひよう)の子供には親と同じ斑点がある」という諺である。この諺は、いささか意味は異なるが※、日本語の諺である諺「鳶の子は鷹を生む」、「鳶が孔雀を生む」、「瓜の木に茄子はならぬ」、「瓜の蔓に茄子は生らぬ」を想起させる。
※平凡な親が優れた子供を生む意味とは対照的に、平凡な親からは平凡な子供しか生まれない。または相応の結果を生じること。
●パンタナルの食物連鎖の頂点にあるjaguara を見ることがこの大湿原の旅の一つであった。めったに昼間に出くわすことのないこの動物に運よく幾度も遭遇し、写真に収めることができた。その一方で余談ながら、作家の吉行淳之介さんの『珍獣戯話』(毎日新聞社)のご著書に、ジャガーに関する拙文を収載して頂く幸運にも浴した。その表紙をジャガーが飾っている。
日本語で言うところの「羹に懲りて膾を吹く」の諺。これと同義のものは他に、“Quem foi mordido por uma serpente tem medo até de uma corda”.「蛇に咬まれた人は縄さえ恐れる」ということだろう。これは「蛇に噛まれて朽縄(くちなわ)に怖(お)じる」というもう一つの日本の諺にまさしく相当する。
“Quem foi queimado por um tição tem medo até de um vagalume” [燃えさしの薪で火傷した人は蛍さえ怖がる]、「黒犬に噛まれて灰汁の垂れ滓に怖じる」、「舟に懲りて輿を忌む」などの諺もそう。
詩人Ovídioの詩に“Quem uma vez naufragou teme até mesmo as águas tranquilas”[一度難波した人は穏やかな海をも恐れる]の一節にも同種のものが見出だせる。
イタリア語でも“Cão que queimou a língua lambendo cinzas desconfia até da farinha”[灰を舐めて舌を火傷した犬は粉さえも不信を抱く]という諺があるようだ。
英語でも下記のようにおよそ似たものがあるが、それは子供を対象にした諺だ。
“ A burnt child dreads the fire”.
日本の「急がば回れ」に当たる。英語で言う
More haste, less speedである。Mais depressa, menos velocidadeというポルトガル語の表現に文字通り合致する。せいては事を仕損じる[Haste makes waste]ことへの教訓なんだろう。
目下、アメリカとの関税交渉で、赤澤大臣は[ゆっくり急げ](Make haste slowly)の姿勢で臨んでいるが、まさしくそう願いたいものだ。ポルトガル語に置き換えれば、Vá depressa devagarあるいはApresse-se devagar になろうか。この種の諺は共通して世界でみられる。
“Love is blind“の諺はポルトガル語では文字通り、“O amor é cego ”という言葉に置き換えられる。日本の「痘痕もえくぼ (O namorado cegamente ama sua namorada que tem a cicatriz da varíola , achando esta marca como covinha no rosto)に当たる。
いったん惚れてしまうと、天然痘の跡もえくぼのように恋人に映るのは、一定の真理のように思える。「愛は盲目」と、よく言ったものだ。
調べでみれば、Amor não tem lei (愛には法はない)とか、O amor é cego,
o ódio enxerga bem(愛は盲目、憎しみは遠くによく見える)といったditadoがあまたある。
下の諺はアンビヴァレンスを含んだもののように思われる。
O amor é como a lua: quando não cresce, mingua(愛は月の如きもの:育まれず進展しなくなると、欠ける[破滅する])。恋愛は誰にとってもこうありたくはないものだ。
日本の諺に「一石二鳥」(“Com uma pedra mata dois pássaros)、それとは逆の意味の「二兎を追う者は一兎をも得ず」(Quem tudo quer, tudo perde= Quem muito abarca pouco aperta)がある。
前者の類似の表現として「一挙両得」(obter dois lucros ao mesmo tempo por uma ação)という諺もある。
この種の意味を持つ諺は、世界のどこにもある。
ポルトガル語ではさしずめ “Matar dois coelhos de uma cajadada” =“ De uma cajada matar dois coelhos ”(二匹の兎を一本の杖で殺す)というところだろうか。英語の諺なら“Kill two birds with one stone ”に当たる。
私は学生時代に幸運にも、京都大学の人文地理学の第一人者の藤岡謙二郎先生の謦咳に接し、先生主宰の野外地理学研究所(FHG)の研究員になることもできた。
曲がりなりにもブラジル研究者になれたのも、先生の影響があったからだろう。
その先生の「多兎を追う者になれ」というお言葉は、今も忘れられない。私が学際的に専門分野の垣根を越えて、地理学、民族学、文学などに走ったのもおそらく、藤岡先生の学問的信念に染まったからであろう。
「柳の下にいつも泥じようはいない」「柳の下に泥じよう」
むろん、どじょうは漢字なのであるが、検索しても出てこないので、ひらがなを当てた。
この日本の諺は、文字通りポルトガル語では”Nem sempre se acha um cardoz ”となるが、現実にはなかなか二匹目の泥じようをねらうのは、容易ではないのが一般的である。
この日本語の諺に相当するポルトガル語のそれは、“Nem a estratégia que dar certo é100% segura”かもしれない。(上手くゆく戦略は100%確かではない)、Nem sempre há
sorte(いつもついているとはかぎらない)、Nem sempre a galinha põe ovo(常に雌鶏が金の卵を産むとはかぎらない)といった類いの表現かも知れない。
●Nem sempre →一部否定[必ずしも(いつも)〜ではない]。Ex. Nem sem-
pre eu bebo na taberna.(いつも私は居酒屋で飲んでいるとはかぎらない)。
dar certo=上手くゆく、命中させる。Ex. Acho que
vai dar certo.(上手くゆくと僕は思う)。
Lilian Tomyama さんから調べて頂いた日本の諺「鶏口なるも牛後になることなけれ」
A estimada Sra. Tomyama pesquisou e me ensinou o provérbio da língua por-
tuguesa corresponde aoprovérbio japonês no mesmo sentido.
Facebookでお知らせしたように、「鶏口となるも..」と同じ意味のポルトガル語の諺を、いくつかの文献を駆使して探したが、徒労に終わった。
そこでサンパウロ在住のリリアン・トミヤマさんにすがる思いでメールしたところ、瞬時に教えてくださった。まことに嬉しいかぎりである。
ところで、日本の上記の諺は、大きな組織や団体に属して目立たない存在よりも、人数の少ない小さなところでリーダーなり長になった方がむしろよい、ことを意味する。
Tomyamaさんは次のような諺を探して送って頂いた。
“ Antes ser cabeça de sardinha do que rabo de baleia”(鯨の尾になるよりもむしろ鰯の頭になれ)。
まさしく日本の諺にぴったりあてはまる気がする。
加えて、Tomyamaさんは、ポルトガル語のその諺を簡にして要を得た説明したGoogleの文まで付加してくださった。その説明文を以下に転載するが、日本の諺に合致したものであることが理解できる。
A expressão “antes ser cabeça de sardinha do que rabo de baleia” é um
provérbio popular que significa que é melhor ter uma posição de destaque,
mesmo que em um grupo pequeno e menos importante, do que ser uma parte insignificante de algo maior poderoso.
「鯨の尾になるよりもむしろ鰯の頭になれ」という表現は民衆的な諺である。その意味するところは、たとえ小さな、重要でない集団で、大きくより強力でないことから意味がないにしても、際立った地位にある方がベターである。つまるところ、大きな影響力のあるところのメンバーに属するよりはむしろ、小さな集団のリーダーになるのが好ましい、と。
最近では水を必要としない稲作もあるようで、驚くばかりである。私の先祖は庄屋をやっていたそうで、昔はかなりの田畑や山林があったように聞いている。
ひよつとして私の苗字である田所も、田んぼのある所、からきているような気がする。
昔は、庄屋であったことから、優先的に我が田に水を引水したのではないか、[冗談ながら]あたかも苗字に表徴されるように。
ところで、「我田引水」に当たるポルトガル語の諺には、“puxar a brasa para a sua sardinha ”(自分の鰯に炭火、おきを引く)や“levar água ao seu moi- nho” (自分の製粉機[水車]に水を引く)がある。
説明は無用であるが、英語では、to look out for one’s own interests,
feather one’s own nestといったところだろう。
●=“chegar a brasa à sua sardinha”(自分の鰯に近づける) , “pescar para o seu samburá”(丸みのある自分のかごのために釣りをする)もある。
Ex. Cada candidato procurava puxar a brasa para a sardinha dele.
各々の候補は[自分の鰯のために]我田引水に努めていた。
“Antes burro vivo que sábio morto”
文字通り日本語に訳せば、「死んだ賢者よりもむしろ生きたロバ」ということになるだろう。愚かな、つまり馬鹿者を一口にburroと言ったり、cabeça de burroとも言う。
馬と鹿には申し訳ないが、愚かな人を日本語ではこの動物を表す二つの漢字使う。
が果たして、馬も鹿もロバもそんなに愚かなのだろうか。
ところで、上記のポルトガル語の諺は日本語ではさしずめ、二つが私には思い浮かぶ。
つまり、「命あっての物種」(Enquanto há vida, há esperança=命がある間は、希望がある)と「畑あっての芋種」(Há semente de batata porque existe horta)である。
命があってこそできるものであり、死んでは何も果たせないことを説いている。類似の表現として「命あっての事」もある。
なおポルトガル語の同義の諺には他に、“ Antes covarde vivo que herói morto” (死んでいる英雄よりもむしろ生きている臆病者)がある。
愚かな意味でburroを使った次のような表現なりイディオムがある。
Nunca conheço um rapaz mais burro na mina vida.
僕の人生でこんなに愚かな少年をかつて知らない。
Ele é mais que burro é um burro quadrado.
彼は馬鹿以上の何者でもない。全くの阿呆だ[o burro quadrado ]。
焼け石に少々の水をかけても効果がない、つまりわずかの努力や手助けがあっても意味がないことを、私達は「焼け石に水」(Água para a pedra queimada ou escaldada)と言う。
英語で言う“ to try to hide what is plain to see, attempt to cover up the obviousは、ポルトガル語のそれは “Tapar o sol com uma peneira ”(ふるいで太陽を覆う)もしくは“Uma gota [de água] no oceano”(大洋に水の一滴)に当たる。馬鹿げた効果のない手段で、明らかなことを隠そうと試みる際に使われるようだ[tentar esconder o que é óbvio, especialmente por meios ridicularmente ineficazes ]。
大赤字をかかえた村の再建にこんなはした金は焼け石に水のように私は思う。
Acho que a reconstrução da aldeia que tem o enorme défice é uma gota no oceano com pouco di- nheiro.