執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
「塵も積もれば山となる」という諺を私たちはよく使う。
わずかな努力であっても、積み重ねれば遠大な夢や計画などが実現する可能性があることを説いている。 これに相当するポルトガル語の諺はずばり、
De grão em grão a galinha enche o papo(一つ一つの穀粒で鶏は胃袋を満たす)だろう。
英語の諺で言えば、
”Little and often fills the burse”あるいは“Little strokes fell great oasks ”に当たる。ポルトガル語にすれば前者は“A pouco e pouco , o pássaro faz seu ninho”=「少しずつ鳥は自分の巣を作る」、になるし、後者は“ Pequenos golpes abatem grandes carvalhos” =「小さい[繰り返しの]一撃でも大きなオークを倒す」という意味を持つ。
飽き性の私であるが、そんな私にたゆまぬ努力が必要なことをその諺は教えているような気がする。
Sou muito preguiçoso,mas esses provérbios me ensinam a necessidade de esforço constante sem parar.
貪欲で愚かな男は、雌鶏が卵を生むのを待ちきれず、殺して体内にあるそれを手に入れようと馬鹿げた行為に及ぶ。
この愚かで欲張りな行いを嘲笑うかのような諺が “Matar a galinha dos ovos de ouro” (「金の卵[を生む]の)雌鶏を殺す」だろう。
この諺はもともと、ヨーロッパの民間伝承に起源を発すると考えられており、殺される対象の動物はganso(ガチヨウ)だけではない。ブラジルではgalihaが一般的であったために、ganso に代わったらしい。
英語でこの諺を説明すれば、kill the goose that lays the golden eggになるだろう。
この種と同義の諺が日本にあるだろうか。
最後に、諺を使った文章を例示する。
Quem estragou o negócio não fui eu. Ele acha que eu ia matar a galinha dos
ovos de ouro?
その商売をぶち壊した(台無しにした)のは、僕ではないさ。彼は僕が金の卵を生む雌鶏を殺そうと[現在の利益のために後の利益を犠牲にしている]とでも思っているのかな?
「隣の芝生は青い」(O relvado do vizinho é azul)、「隣の花は赤い」(A flor da vizinha é vermelha )、「隣の糂汰(じんだ)味噌󠄀」(A pasta feita de farelo de arroz do vizinho )という諺に代弁されるように、我々は得てして隣近所の人たちの事物にも気になり、自分のそれが見劣っているとともすれば捉えがちである。
これに相当するポルトガル語の諺は、A galinha do vizinho é sempre mais gorda.[お隣の雌鶏はいつも太っている]もしくはA galinha da vizinha sempre mais gorda que a minha[お隣りの雌鶏は僕のものよりいつも太っている]となろう。
この諺とほぼ同義に近いのは他に、Boa é a galinha que outrem cria[人様が育てた雌鶏は良い]、A cabra da minha vizinha dá mais leite que a minha [お隣りの牝山羊は僕のよりももっと乳が出る。
自分の欠点(defeito)を棚に上げて[não reconhecer os próprios erros]、人のそれをあざ笑うことを日本の諺では、「目糞、鼻糞を笑う」(A remela troce do muco nasal)という。また、「ぼろがつづれを笑う」とも。字義通りポルトガル語の諺となれば、“ rir-se o roto do esfarrapado”となるだろう。
“ rir-se o sujo do mal lavado”(「よく洗われていない[ものをまとった]汚れを笑う」)というのも。
「猿の尻笑い」(Macaco escarnece da sua própria nádega)といった諺が日本にはあるが、これもポルトガル語の諺と同義のものだろう。
命令、指図する人が多くて、物事が達成なかったり、目的が本来の方向からそれてしまう状況を、日本の諺では「船頭多くして船山に上る」(Barco de muitos mestres sobe à montanha[=encalha])もしくは「船頭多くして船岩に上る」(Barco de muitos mestres sobe ao rochedo)と言う。
これにぴったりのポルトガル語の諺と言えば
“Panela que muitos mexem, ou sai crua ou sai queimada”となろう。日本語にすれば「多くの人がいじって料理する鍋は、生煮えかそれとも焦げ付く」とでも訳せようか。
「多くの料理人が作るものはシチューを台無しにする」[Muitos cozinheiros estragam o guisado]と言う諺もポルトガル語にはある。
大事なことをするには、舵取りは二人も必要ない。こうした信念で私の場合は、重要な物事をするに当たっては人に任せずやってきたように思う。
最近とみに、賽銭泥棒が多いのには、辟易する。そんな輩には、バチが当たって欲しい、と願うことしきり。
ポルトガル語の諺に次のようなものがある。
“Quando a esmola é muita, o santo desconfia”
文字通り日本語に訳せば、「賽銭が多い時は、神さまは不信がられる」となるだろう。
神さまは賽銭が多いほうが喜ばれるものと私たちは考えるが、多いと疑われもするらしい。
賽銭が多いからといって疑われるのが、キリスト教の聖人や神々なのだろうか?ともあれ、賽銭の多寡がご利益につながるとは信じ難い。ところで、上のポルトガル語の諺は一体、教え諭しているのだろうか。
私なりに解釈するとそれは、巧言令色、つまりうまい話や一見よすぎる言葉には要注意であり、用心してかかることの必要性を教えているようだ。
この文脈での日本の諺には、「ご馳走終らば、油断すな」、「食わせておいて、さてと言い」がある。
ついでながら、調べてみると、“Esmola mal dada, para Deus não vale nada”という真逆の諺もみかける。
「貧しい人に施す人は、天国で金が貯まる」という諺→“ Quem dá esmola ao pobre, guarda no céu”もあるくらいなので、困窮している人には恵んで手助けすることも必要なんだろう。
「三つ子の魂百まで」という日本の諺。直訳すれば、“A alma da criança de três anos dura até cem anos”とでもなりうるか。
周知のように、幼い時分に形成された性格なり、思考・行動様式(振る舞い)は、死ぬまで変わらないことを指す。
同義のポルトガル語の諺は“ O que se aprende no berço dura até a sepultura [揺りかごで学んだことは、墓(に入る)まで続く]と言うそうだ。
“ O que o berço dá, só a cova o tira とも。
私は結婚したことがなく、従って夫婦喧嘩などあり得ない。正直言って、これまでの私の人生にあって、あまたのガールフレンドや恋人がいた。恋多き少年、青年、壮年であったから、神さまは私に対して、結婚というプレゼントをお与えくれなかったのかもしれない。好き勝手[fazer o que se quer]に生きてきたことも、その一因として挙げられる。
ともあれ、老生の身である今でも、結婚しなかったのは私の運命であったように思う。であるから、後悔したことは一度もない。大学生なってそれ以降は、旅行や主としてブラジルでの調査・研究に明け暮れ、結婚の機会を逸してしまったのが、本当のところかも。
子供好きだが、結婚の経験がないので、子供はいない。強いて言えば[se me obriga a pronunciar-me]私の子供はさしずめ、100冊あまりの著書になるだろう。本としてまとめあげるに当たっては、さも子供を育てるように、一冊一冊、細心の注意を払って対処したつもりだ。
その自著がわがセンターの一角に、わが子のように鎮座しているのを日々眺めるのは、至福となっている。前置きが長くなったが、夫婦喧嘩は直に仲直りするから、他人が仲裁するのは愚かであることを諭した諺「夫婦喧嘩は犬も食わない」がある。
ポルトガル語のそれは marido e mulher metas a colher” [夫婦の間に匙を入れるな]もしくは “Em briga de marido e mulher, ninguém meta a colher”[夫婦喧嘩に何人も匙を入れるな]というところだろう。
meter a colherは、匙を入れる、つまり干渉(仲裁)する、という意味である。
ポルトガル語の諺を調べていたら、次のようなものにも出くわした。言い得て妙である。
“A mulher é a rainha dolar.” 「妻は家庭の女王である」
“A boa mulher faz bom marido” 「良き妻は良き旦那を作る」
“ Deus dá nozes a quem não tem dentes ”
「神様は歯のない人にクルミを与えられる」という諺がある。しかしながら、この意味するところが分からず、結果として日本のどの諺に相当するものかも理解できない。
所有のポルトガル語辞典にかたっぱしに当たって調べてみたが、的確な解答は得られなかった。が、察するに、持ち前の富、才能、事物、利点などを利用できない時に使われる諺のようだ。
日本の諺でいう「宝の持ち腐れ」(o tesouro inú-
til; não aproveitado; o ta-
lento mal-empregado)や「月雪花は一度に眺められぬ」(não dá cotemplar a beleza de lua, neve, flor ao mesmo tempo)を一緒にしたようなものに解される。果たして、そうなのか。ぜひともLilian Tomyamaさんにお聞きしたいところだ。
Pedra que rola não cria limo (転がる石には藻は生ぜず)[= Pedra movediça não ajuda musgo(動く石には苔はつかない)]という諺がある。
他にも調べてみると、
Pedra roliça não cria bolarなどもあり、スペイン語ではPiedra movediza, nunca moho la cabija、英語ではA rolling stone gathers no mossと言う。
スペインでは、La piedra cria malva [Pedra queda, musgo cria]もあるそうだ。
日本では「使っている鍬は光る」(A enchada que usa, é cintila)とか「流れる水は腐らず」(A água que corre, não apoderece)といった同じ意味の諺がある。台無しにならぬよういつも使ったり、生き生きと生きることを諭しているように思われる。
うまい話や調子の良い話はえてして、油断大敵(O descuido é o maior [mais perigoso] inimigo)である。
この種の諺は日本では、「ご馳走終われば、油断するな(Não se descuide depois de ter sido oferecido a refeição por outra pessoa)」、「食わせておいて、さてと言い」などがある。ポルトガル語ではそれに当たる諺と言えば、
“Quando a esmola é mui- ta, o santo desconfia”(賽銭が多い時は、神さまは不信がられる)に当たる。
つまりこの諺が教えるところは、とかく耳障りの良すぎる話は鵜呑みせずに、疑いの目で用心してかかれ、ということだろう。
そうした諺とは意味が異なるが、ポルトガル語には、
“ Quem dá esmola ao pobre, guarda dinheiro no
céu (貧しい人に施しものをする人は、天国にお金が貯まる)”もある。困った人を人道的に助けることの重要性を説いている。
聡明な人は「一を聞いて十を知る」感じがする。それほどまでに、一端を聞いただけで、全体を理解・把握する能力がある。
逆に、あまり才知がない人は、「一を知りて十を知らず」[一つのことだけを知って、他のことは知らない]とも言われる。
ともあれ、頭を働かせよという意味で、「一と言うたら、二と悟れ」とも言われる。
“ A bom entendedor, meia palavra basta”[理解の良い人には、言葉半ばで十分]はまさしく、才知に長け先まで見通しがきく人に対するポルトガル語の諺だ。
世の中は一人だけでは生きてゆけない。私のように、人にはけして頼らない、という勝手な信念をもちつつも、これは全く独りよがりの考えに違いない。
ことほど左様に、私たちの人生にあっては、他人様との相互扶助、つまり助け合うことが求められる。
日本の諺に「船は帆でもつ、帆は船でもつ」がある。この諺はまさしく、もちつもたれつ世の中を渡ることを説いている。
ポルトガル語の“ Uma das mãos [uma mão]lava a outra” (一方の手が他方の手を洗う)は、日本語の諺にぴったり相応する。
“ Uma das mãos lava a outra e ambas lavam o rosto(そして双方の手で顔を洗う)とも。同様の諺として英語には、“ Scratch my back, and I’ll scratch yours ”
(Coça as minhas costas que eu coçarei as tuas =僕の背中を掻いてよ、そうすれば君の背中を掻いてあげるから)がある。
トロイ戦争で使われた木製の馬(cavalo de Tróia)が出所のようであるが、ポルトガルの古い諺に“ Homem grande, besta de pau”がある。文字通り訳せば、「大男、木製の馬(獣)」ということになる。
要するに意味するところは、日本の「大男、総身に知恵が回りかね」(a inteligência não estendese pelo corpo total do homem grande)や「独活(うど=a árvore grande de arália)の大木(homem grande, mas inútil)」と似た諺である。
因みに、うどの茎は木さながらに長くはなるが、柔らかくて材としては役立たないようだ。そのことから、図体ばかりが大きくて無用な人のたとえになっている。