個人の理想を、計り知れない倫理的価値によって、国連憲章を時代の変化に合わせて進化させることに取り組み、ノーベル平和賞を受けたメキシコ出身の外交官の生涯を追った伝記。
1911年にメキシコ高原の田舎町に生まれ、メキシコ国立自治大学とパリ大学高等国際研究学院、ハーグ国際法アカデミー等に学び、31年に在ストックホルムのメキシコ公使館勤務から始まり、外務官僚として頭角を現して、第二次世界大戦中に始まった国際連合設立に合わせて米州会議とパンアメリカン連合の調整に関わった。国連憲章を制定したサンフランシスコ会議では、特に議論の争点になった安全保障理事会での五大国への拒否権付与は将来機能しなくなると強く反対し(その指摘が正しかったことは、後年の冷戦時代以降今日に至るまでの実態が示している)、「常任理事国の議席を将来の事情変更に合わせて定期的に再検討することが望ましい」と発言している。国連発足後、事務局の中堅である政治問題部長に就き、57年にメキシコ外務省に復帰して、領海範囲を決める海洋法会議等のメキシコ代表、ゴラール大統領が登場し米国との関係が緊張しているブラジル駐在大使としてキューバ危機も経験し、核兵器の製造、受領、貯蔵、実験を禁じる多国間合意の始まりとなったラテンアメリカ、カリブ海域の核兵器禁止条約で、調印式が行われたメキシコ外務省の所在地名に因んだ67年の「トラテロルコ条約」、国連での68年の「核拡散防止条約」実現に尽力した。70年に国連大使となって冷戦の論理の応酬で不毛な議論がなされた中で第三世界のリーダー的存在として活躍、75年にはついにエチェベリア大統領の下で外務大臣にもなり、その後も「世界軍縮会議」の実現に努め、「包括的核実験禁止条約」の実現に晩年の情熱を傾け、89年に二度目のジュネーブ軍縮会議の議長を務めるなどして、91年に世を去った。彼の座右の銘は「手法は柔軟に、実行は剛毅に」だったという。
〔桜井 敏浩〕
(社会評論社 2015年6月 247頁 2,200円+税 ISBN978-4-7845-1122-8 )
〔『ラテンアメリカ時報』2015年秋号(No.1412)より〕