1811年にスペインから独立したパラグアイは、1844年にアントニオ・ロペス大統領就任とともにそれまでの鎖国政策を転換して貿易振興と富国強兵に励み、欧州から技術を導入して鉄道や武器製造を含む工場、学校建設に注力した。その長男ソラーノ・ロペスは素行が芳しくなかったが欧州特派大使として訪欧、パリで既婚のエリーザ・リンチを見初めて同伴、帰国して1862年に父大統領の死の後大統領に就任した。1864年にパラグアイが依存するモンテビデオ港をもつバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)地方の内乱と帝政ブラジルの侵攻への対抗、ラプラタ河の上流パラナ川・パラグアイ川での艦船の通航をめぐって戦争状態になり、パラグアイ軍がアルゼンチンとの係争の地コリエンテスに進出したことから、1865年アルゼンチンへも宣戦を布告し、パラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの同盟軍を相手に戦うこととなった。1870年3月にロペスが戦死したことで終結するまで、パラグアイは三国を相手に、戦前52万人いた人口が1871年には21万人に減り、成人男女比が1対5(4とか10という説も)にまで激変、領土が4分の3になるまで勇敢に戦った。
本書は、ロペス大統領親子の時代に英国からパラグアイに渡り7年間滞在、鉄道、造船所、武器工場で技術指導を行っていた英国人技術者がパラグアイ軍に加わって戦った見聞録である。ロペス大統領がアルゼンチンに仕掛けた戦争は不法だったが、ブラジルとの開戦はやむにやまれぬものであり、三国同盟間の秘密協定はパラグアイが戦うか併合されることを受け入れるかの選択肢しかなかったと指摘している。トンプソンはパラグアイ大衆への親近感から軍の一翼の指揮を取り転戦したが、ついに1868年末同盟軍に包囲されて降伏した。追放された後に戦争経緯、ロペスの残虐行為と性格を正確に記述しようとしたのが本書の執筆の意図と述べている。
本書には、青年海外協力隊・JICA専門家として22年間関わってきた藤掛氏がパラグアイについて、航空自衛隊で長く勤務した高橋氏が軍事記述の監修を行い、解説と脚注を付して原著の表現と訳語の理解を助けているが、折角軍事専門家が監修に加わっているにもかかわらず戦史を追った地図を付けていないのが惜しまれる。なお、パラグアイ戦争前後の経緯とリンチ夫人について簡潔に解説した『パラグアイを知るための50章』(明石書店 2011年)の100~128頁との併読をお薦めする。
〔桜井 敏浩〕
(ハル吉訳 藤掛洋子・高橋健二監修 中南米マガジン 2014年11月 301頁 2,000円+税 ISBN978-4-907766-31-3 )