連載エッセイ3:エクアドル国との出会い - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ3:エクアドル国との出会い


連載エッセイ3

エクアドル国との出会い

筆者:小林 明夫(元東芝プラントシステム株式会社勤務)

「初めての海外赴任」

 1970年、27歳の時に、最初の海外赴任でエクアドルのクエンカに旅立った。当時は1ドルが360円の固定相場時代、成田空港はまだなく、羽田空港からの出発という時代であった。海外出張も珍しく、私の様な若年者が派遣されるのはまだまだ珍しい時代だった。

 未だ見ぬ南米の地エクアドルに希望と不安を抱えて、煙草の煙が色濃く漂う狭いDC8機の中で、「地図では見たが本当にそんな国があるのか」と思いながら金鉱の町フエアバンクス経由でNY迄飛んだのを今でも鮮明に覚えている。米国の国内線に乗換えて、フロリダ迄行き、再び乗り換えて、深夜のボコダ空港へ到着した。翌日、駐在員事務所に顔を出し、エクアドルの入国査証の申請を行い、査証受領までの数日を博物館や市内観光で過ごしながら、初めての南米の町を楽しんだ。
 
 初めて到着したコロンビアは世界有数な高品質なエメラルドの産出国で、日本では高価なエメラルドが比較的安く手に入ると言われていたが、当時はこんな噂話が飛び交っていた。 宝石店でエメラルドを講入すると「保証書は後からご宿泊先のホテルまでお届けします。お届け先をお書き下さい」と言われる。しかし、エメラルドの保証どころか貴方の命の保障は無いかも知れないという。保証書を届けに来た人間を部屋に入れたら最後、偽の保証書と一緒にピストルまで出され、買ったエメラルドや手持ち現金も懐に入れて、店員はニヤリと笑って帰っていくという話であった。もちろん、騒げば、弾丸を撃ち込まれ、死体となるとの噂であった。嘘か真かは解らないが、昔はそういう話がまことしやかに語られていた。

 再び機上の人となり、東京出発から5日間をかけ、やっとバナナの積出港で有名なエクアドルの港町グアヤキルに到着した。私の赴任地は、アンデス山中の2530mの盆地に有るクエンカ市で、さらに飛行機で1時間弱かかった。当地の電力会社に売却した発送電設備の建設並びに技術指導が私の当面の業務であった。

 1970年代の日本からエクアドルへの輸出品は、大部分が繊維や雑貨で、重電機器の輸出は大変珍しく、当社としても本件を足掛かりに、重電機器案件を是非とも伸ばして行きたいたいと目論んでいた。

 私が港町グアヤキルから乗った飛行機は、エクアドル空軍が運行する古いDC-3型機で、機内は少数の乗客と共に、機材やダンボール、果ては大量の雛の箱が満載で会った。アンデスの谷間をエンジンは喘ぎ声を上げながら這い登り、やっとクエンカの狭い空港に着陸し、ホッとしたのを覚えている。

「クエンカ到着」

 到着そうそう市長、電力会社役員、新聞社回りを始め、建設地を見学した。一日も早く仕事を始めたかったので、建設部隊の幹部の集合をお願いし、早速打合せを行った。幹部の中には、電気設備の保守管理経験者はいたが、建設経験者は一人としておらず、その上英語の理解者は電力会社の技師長が唯一人だと言う。 技師長は、他の業務もいっぱいで、なかなか対応して貰えなかった。 私も西語は出張前に、本を買って多少自習した程度で、ほんの初心者だった。 本格的な工事着工までの事前準備期間が、約一か月間あったのは幸いであった。毎日毎晩、寸暇を惜しんで勉強し、多忙な技師長にも協力してもらい、工事着工時までには、何とか多少は会話が出来るようになった。まさに身が細るような思いで、今思い出してもあんなに辛い時期は無かった。

 当社と電力会社との技術指導の取り決めによると、建設指導、性能試験、性能保証が当社
の責任で、労務、工程管理等々の建設実務は、すべて電力会社の責任となっていた。 しかし、建設経験の無い幹部ばかりだったので、実際の工事の指揮を取る人材は誰もいなかった。
そういう事情であったので、「クエンカに住み込みで来たからには俺がやる」とばかり、建設の指揮を取ることを決心した。 こうして、作業員は、ほぼ臨時職員ばかりという素人集団で建設工事が開始されることになった。

「朝礼を始める」

 まずは規律が大切と言うことで、前日、ホテルで辞書を引き引き、スピーチ原稿を作成した。 毎朝きっかり8時に朝礼を励行することにし、伝えるべきことを朝礼で話す。朝礼開始直前に建設現場の門を閉め、朝礼に遅刻して来た作業員は、そのまま帰って貰い、場内に入れず、帰ってもらうことにした。翌日も遅刻を繰り返す作業員は、解雇することにした。この朝礼作戦は効果絶大で、当建設現場の規律は最後まで保たれた。

 その間、私のスペイン語も徐々に進歩してきたのか、皆と打ち合わせも出来、冗談さえも言えるようになって来た。日本から届いた日本食を建設現場に持って行き、皆で食べたり、
作業員と一緒に昼食を取りながら、日本の話をしたり、エクアドルのお祭りの楽しい行事や習慣を聞いたりした。こうして仕事も楽しく快適な職場環境が出来てきた。 なるべく遅く来てさっと早く帰る、どんな時でも残業は拒否、仕事中は影に隠れてお喋りばかりと言うラテンの悪癖も影を潜め、建設は全員で行うものという気分が出来て来た。

「クエンカ市の電力事情」
                   
 アンデス山中の作業現場の大きな問題点は雨期の襲来である。11月頃から晴天が続き、気温が上がり、積乱雲が出る時期になると雨期がやってくる。午前中に発達した積乱雲は、午後には気温の低下と共に短時間ながら豪雨を呼ぶ。工事中にはどうしても濡らしたくない機材が有るので、充分注意しているのだが、突然の豪雨に見舞われることもあるので、豪雨対策が必要となってくる。そんな時でも、通常、ラテンの作業員は「雨は俺のせいでは無い」とでも言いたげに、全てを投げ出して蜘蛛の子を散らす様に逃げ出して、機材の処置をしない。 このような時こそ、全員で建設を行っているという意識を持ってくれるようになるとありがたいのだが、徐々に、チームワークも機能するようになり、豪雨の中でも自ら進んで豪雨対策に走る姿が見られる様になってきた。言い方は悪いがアメとムチの効用である。

 本建設工事前のクエンカ市は、人口約10万人、国内3番目の地方都市だった。町々が各盆地に発達しているため、国内の電力事情は、都市間の相互融通の送電線設備への投資金額も大きく、負荷容量と投資効率の観点から送電線設備は無く、都市毎に単独の発電設備を持っていた。 各市の電力事情は悪く、クエンカ市も全市の25%が毎夜、計画停電を行い、安定的な電力の供給は出来ていなかった。クエンカ市は、天候温暖で冷暖房負荷はほぼ不要だが、この時期から各家庭にテレビ等家電製品が急速に普及し始め、電力会社は苦労していた。そのため、市の郊外にある工業団地の中でも、大きな工場は小型ながら専用の発電設備を持ち、自前で安定的な電力を確保している状況であった。しかし、本発電設備の建設により、電力事情は改善され、大きな成果が上がった。

「様々なエピソード」

 楽しいことや様々なことがあった。当時、日本本社との連絡は片道20日間かかる航空郵便か、グアヤキル市にある商社のテレックスを借用するしかなかった。 国際電話は、まず繋がらなかった。 そこで1~2週間毎に、グアヤキルまで作業状況の説明を送信しに出かけることにした。 往復の航空機のキャビンアテンダント達と顔見知りになり、若かったこともあり、すぐに仲良くなった。 当時のDC-3型機の最後尾は、彼女達乗務員の部屋に成っており、3座席あった。自分の座席には座らず、その部屋でお茶とお菓子を楽しんで往復していたことも良い思い出だ。
 また、工事期間中に、日本の航空会社が中古航空機をクエンカの航空会社に2機売却した。
その航空機が日本から到着し、歓迎セレモニーの招待状が届いた。その日は、仕事を抜け出してクエンカ空港にいそいそと飛行機の到着を迎えに出かけた。ところが空港の上空では爆音は聞こえるがが、いくら待っても飛行機は降りて来ない。とうとう爆音も何時の間にか聞こえ無くなり、困り果てて解散することになった。 原因は、日本人パイロットが操縦して来たのだが、クエンカの谷間の狭い飛行場を見て怖気づき、着陸できずにグアヤキルに引き返したという。その翌日には、地元のパイロットが操縦し難なく着陸してした。その頃、上映された「トラ トラ トラ」という真珠湾攻撃の映画がクエンカでも上映され、日本海軍は大層評判になった。しかしこの事があってから「もう日本にはカミカゼはいないのか」と評判が立ち、日本海軍の名声に傷がついた。

 工事も完成が近づくと、親しくしていた作業員たちも徐々に減り始め、試験調整と性能保証の作業に入った。この期間を利用して作業員の中から、今後の保守運転要員の選抜試験が行われた。就職場所の少ないクエンカ市では、この就職口は、大変な魅力の有る職だったようだ。選抜試験の結果、十数人の採用が決まった。これらの採用組は、ほぼ全員定年退職迄勤務したそうだ。私個人としては、この就職の機会を作れたことがとても嬉しかったので、今でも忘れられない。

「そしてエクアドルとの別れ」

 約1年間の工事や試験運転と試験調整もすべて無事完了し、キトーから日本大使もご臨席いただき、引渡し式を行った。その数日後、一緒に働いた現地の人々との別れの挨拶もそこそこに朝日の中の懐かしいクエンカ空港から日本に向けて離陸した。28歳の初夏のことだった。この仕事を通じて、南米と出会い、南米人やその文化を知り、一生涯離れることの出来ない南米フアンになった。
 帰国後も幾つかの国々で駐在所長や現地法人代表等の職を経験し、長期滞在も行ったが、やはり最初の出会いは強烈だったのかエクアドルへの思いは強いものがあるようだ。
 そして定年退職後、エクアドルに家を購入し、半年毎に日本とエクアドルを行き来する生活を送っている。

40年ぶりに訪れた懐かしい発電機と共に