連載エッセイ4:『恐怖のサンティアゴ大地震について』 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ4:『恐怖のサンティアゴ大地震について』


連載エッセイ4

『恐怖のサンティアゴ大地震について』

執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

 1985年3月3日に、アルガロボを震源地とする大地震が発生した。マグニチュード8.0、死者178名、負傷者2,575人を出す大地震であった。サンテイアゴももろに被害を受けた。サンティアゴに駐在して2か月後におこった出来事であった。その日、家族そろって、サンティアゴ市のラス・コンデス地区にあるパルケ・アラウコ・ショッピングセンターのスーパーマーケットでほぼ買い物を終了し、レジに向かうところであった。午後7時過ぎだったと記憶する。「ドーン、ドーン」と2回大きな音とともに大きくグラグラと揺れだした。家族全員を1か所に集め、ゆっくり、スーパーの外に脱出した。スーパーの中では、水やワイン、ビール等のガラス瓶が陳列棚から落下し、あたりは水浸しの状況であった。外に出たところで少し落ち着き、子供たちと一緒に周りの人々の様子をうかがった。

 私の意識の中では、当時のチリは発展途上国で貧しい国である。したがって、このような時には、略奪行為が行われるに違いないと想像したのである。しかし、その想像は、全くの杞憂・間違いで、誰一人として略奪行為に走っている様子は見られなかった。地震の規模が大きすぎて、自分の身を守ることで精いっぱいであったかも知れないとかラス・コンデス地区は、総じて上層部の人が住んでいるので起こらなかったのかとも考えてみたのだが、とにかく何も起こらなかった。 次に私が考えたことは、このような場合、オイルショック時の日本のように水やトイレット・ペーパー等が一斉に店から消えてだろうということであった。あわててスーパーマーケットにそれら物資を買いに走ったが、店頭に所狭しと並べられていた。少し恥ずかしい気がしたものであった。後でわかったことだが、政府が売り惜しみをしないようにしっかり指示していたとのことであった。翌日、サンティアゴ中心部の中央広場(Plaza De Armas)にあるジェトロ事務所に行ってみると、カテドラルの上部にあった聖人の像とか、市庁舎や郵便局の壁等が落下していたのだが、瓦礫はすべて片づけられていた。

 地震当日、本部から緊急電話があり、事務所は大丈夫ですかと無神経にも聞いてきた。私や家族を守ることに精いっぱいなのに、とても事務所まで手が回らないと回答した。同時に、当地は大変なので、ジェトロの有志を募って寄付金を集めて欲しいとお願いしたところ、当時の総務課長や企画課長が音頭を取り、180名から18万円が集まった。ジェトロ職員のボランテイア精神の高さには感激したものであった。18万円は、早速東京銀行に送金されてきたが、銀行手数料を徴収すると言う。支店長に掛け合い、ボランテイア資金なので手数料を無料にしていただけるよう交渉した。 18万円に私の2万円を加え、20万円相当分の小切手を用意し、誰に、いつ、何の名目で寄付するか、そのタイミングを計っていたが、日本政府も緊急支援で5,000万円を拠出すると発表した。そこで当時のアランギス文部大臣に面談のアポイントを取り、「小学校の修復にあてて欲しい」という名目で寄贈した。

 チリ人はボランテイア精神にあふれた国民である。地震、洪水等の災害が起こると、当然のように、「チリはチリを助ける」(Chile Ayuda a Chile)という国民的キャンペーンが組織される。スーパーマーケットなどでは、買い物客が腐らない食品を購入し、所定の所に置いておくと、トラック輸送業者がボランテイア活動の一環として、被災地や必要とされる所に届けるようになっている。 年末ともなれば、「テレトン」というテレビとマラソンを掛け合わせた日本の24時間テレビのような番組があり、多額の義捐金を集める。私の家内もチリの駐在員夫人の会であるコピウエ会の飯野会長らと一緒にテレビ出演し、チリ人なら誰もが知っている司会者ドン・フランシスコのインタビューを受けた。

 その後、ロータリークラブに入会し、会員との交流、地域社会への貢献活動、ファンド・レージングのやり方を見ていて、より一層、チリ人の素晴らしい国民性、ボランテイア精神が理解できた。 当時の朝日新聞社の小里特派員と一緒にサンテイアゴの消防署を訪問し、消防士のボランテイア活動の実態を調べてみると、消防士は、全員ボランテイアということであった。これら一連の出来事の結果、私のチリ人に対する敬意は格段に深まった。

 最初の地震が発生したのは、3月3日の午後7時過ぎであったが、同じ日の午後11時頃に同規模の大地震が再び起こった。アパートの壁面が崩れ落ちた。地震の恐ろしさを実感した。その後、3か月くらい余震が続いた。毎日続くと慣れると思いきや、震度1程度の地震でもすぐに目を覚ますようになった。毎朝、壁から壊れ落ちる土砂を掃除することになった。家主に掛け合い、早く壁面を修理するようにお願いしたが、地震が落ち着くまで待ってくれの一点張りであった。結果的には、それは正しい決断ではあった。このような状況で3か月程度過ごすことを余儀なくされたが、家内とは、6か月の駐在期間をロスしたような感じだねと語り合った。

 この地震を経験する以前は、日本は地震国であり、日本人は地震に慣れていると考えていたが、とんでもない誤りだと気がついた。日本人は、震度3~4程度の地震までは慣れているが、震度7や8の大地震は、全く別物であり、決して慣れているとは言えない。サンティアゴ大地震は、自然災害の恐ろしさ、チリ人のボランテイア精神等につき、様々なことを考えさせてくれた出来事であった。

「追記」
 2010年2月27日に、チリ中部のコンセプシオンを中心としたマグニチュード8.8の大地震が発生した。死者802人、負傷者85,358人だったという。その時、私は、JICAの短期専門家として、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴに10日間ばかり滞在していた。直前の1月12日に隣国ハイチで、マグニチュード7の大地震があり、31万6,000人の死者が出た。首都ポートプランスの空港が閉鎖されたため、諸外国やJICAの救援隊もサントドミンゴから陸路救援物資を届けていた。毎日、サントドミンゴで新聞を数紙購入し、読んでいたが、チリでも略奪行為が発生しているという報道があり、残念に思った。また、ハイチの大地震は、チリの地震の8.0や8.8に比較して、マグニチュードが7と下回っているにもかかわらず、膨大な死者が発生したことにも大いに心を痛めた。貧困、建物の構造、政府の対策のまずさが大惨事をもたらすということもよくわかった。


写真: アランギス文部大臣に、ジェトロのボランテイアによる募金を寄贈。