連載エッセイ28:エルネスト・チェ・ゲバラと14才の少年 そして50才の中年男 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ28:エルネスト・チェ・ゲバラと14才の少年 そして50才の中年男


連載エッセイ27

エルネスト・チェ・ゲバラと14才の少年そして50才の中年男

執筆者:島袋 正克(伊島代表取締役、ボリビア・サンタクルス在住)

「序章」>

ボリビアというと何を連想するだろうか? アンデス山脈、海抜4,000メートルにある首都ラパスだろうか。あるいはインカ帝国の発祥の地チチカカ湖に浮かぶ太陽の島だろうか。それとも、天空の鏡と呼ばれるウユニ塩湖だろうか。それらの場所は全てアンデス山脈の高地にある。だからボリビアから連想するのは荒涼としたアンデス山脈に響くケーナの音色が描き出すフォルクローレの世界に違いない。
しかし、アンデス山脈を東側に降ってみよう。 ボリビアの北東には緑に覆われた亜熱帯の密林がブラジルへと続き、南東にはパンパと呼ばれる草原がアルゼンチンまで広がっている。そしてアマゾンとラ・プラタの両大河に合流する様々な支流が大西洋に向かって流れている。

「1967年・エルネスト・チェ・ゲバラ」

この物語はアンデス山脈を海抜1,500メートル辺りまで降り、1967年のイゲーラ村から始めたい。なぜなら、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナが、その年、その村で射殺されたからだ。エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナという彼の長ったらしい名前の理由は、ラテン系の国々では父母の両姓も名のるためで、セカンド・ネームがあるとさらに長くなる。つまりゲバラは父方で、セルナは母方の姓である。この長い名前は原稿のページを稼ぐには良いが、読者には面倒だ。それで、良く知られているチェ・ゲバラという名をこれから使うことにする。チェ・ゲバラを説明する必要はない。アルヘンティーノ(アルゼンチン人)で、フィデル・カストロと共にキューバ革命を戦い、その後、コンゴ、そしてボリビアで最後を遂げた男だ。
キューバ革命のことはフィデルに説明を譲って・・そうかカストロも死んじゃったか。まあ仕方ない。ではその部分は端折ってしまう。コンゴ?アフリカのことなんか知るもんか・・いや失礼・・不肖、筆者が語りたいのは、1967年、ボリビアのサンタクルスで死んだチェ・ゲバラ、いや親しみをこめて、エルネストのことだ。

「1967年の忘れられないふたつの出来事」

それでは物語を少し新しくして2003年に戻す・・・・ある日電話が鳴った。それはリマに住んでいた先輩の友人からだった。
「島ちゃん、転勤辞令が出たよ。それでね、学生の頃から憧れていたチェ・ゲバラの足跡を訪ねる旅をしたいんだが・・どうだろうか・・つきあってくれないか」 丁重ではあるが、有無を言わさない頼み方であった。「ゲバラですか・・・」ある風景が脳裏に浮かんだ。
物語は・・申し訳ないが、再度1967年、52年前に戻す。あの頃、私は14才の少年で、ボリビアのサンタクルスという町の郊外に家族と住んでいた。あの頃のサンタクルスは人口1万人にも満たない小さな町で、バナナやアボガド、そしてマンゴーなど熱帯果樹が町の至るところに生い茂っているような田舎町だった。そして白い砂地の道を、木車輪を付けた牛車が早朝ギィギィという音を立てて町の市場に向かい、夕刻になると同じ音を立てて帰って行った。
家の近くにはボリビア第8陸軍師団の駐屯地があった。晴れた日には兵隊たちが砂地の道を踏みしめて行軍していた。行軍といっても先頭で指揮しているカピタン(大尉)と行軍の中頃までは軍隊らしかったが、それ以降の列は乱れ、最後の兵隊などはバナナを頬張りながらダラダラと最後尾にくっついて歩いているだけだった。
この年、忘れられない出来事がふたつ起こった。ひとつは歴史的なことで、もうひとつは個人的なことだった。

歴史的なことは当然、チェ・ゲバラの死だった。しかし14歳の少年にとって、チェ・ゲバラの死は身近な事件ではなく、彼がどんな理想をもって革命を成そうとしているのか、理解どころか考えたことすらなかった。
それは私だけではなく、チェ・ゲバラのボリビア革命はサンタクルスに住む普通の少年たちにとって大きな出来事ではなく、南米ではよく起こりえる、失敗したクーデターのようなものだった。クーデターも大きな出来事ではないかと思うだろうが、当時のクーデターは政治的な権力闘争だけではなく、軍部の内紛といった様相を呈して頻繁に起こっていた。
だから、チェ・ゲバラとゲリリェーロ(ゲリラ)たちがサンタクルスで革命を起こそうとしているという風聞を聞いても、それは権力の内部紛争で少年の世界には関わりなく。また、バナナを食いながら行軍しているボリビア兵たちの印象は「役立たず」という表現以外に言葉がなく、米軍払い下げの軍用ジープが砂埃を立てて「ゲリラ討伐」に遠ざかって行くのを見送りながら、少年は「どうせ負けるだろう」としか思わなかった。

そして、その年の10月9日、エルネストは射殺された。

「14才の少年の個人的なこと」

個人的なことは、14才の少年が初めて家出したことだった。エルネストが射殺されるわずか半年前だった。家出の原因が何であったか・・よく覚えていない。覚えていないと言うことは家庭内の問題でもなく、思春期によくあるような何かを思い詰め、いたたまれずに家出したのでもなく、その後の少年の行動から判断すると単にふらっと放浪に出ただけに過ぎないだろうが、そのふらっとした放浪は歴史と個人的な出来事をクロスさせた。
3月の早朝、サンタクルスは終わったばかりのカーニバルの余熱が残っていた。人々はどことなく浮ついていて仕事に身が入らず、ラマダ市場の道路は普段よりも塵が多く積もり、買物客が歩道だけでなく車道の半ばまで溢れてその塵を踏み潰していた。
少年は荷物を盗られないように人ごみに気をつけながら歩いていた。少年はラパス行きのバスを探していた。ポケットには片道切符がやっと買えるだけの乏しい金しかなく、安い料金のバスを見つけようと必死だった。長距離バス停留所のあるグリゴタ通りを行ったり来たりして、出発直前の捨て売り切符を買った。現代風に言えば直前ディスカウントだろうか。
67年当時のラパスへの街道はピライー川沿いを上流に向かって真西に走らなければならなかった。そのバスは年式の古いフォードで、エンジンの強度を誇示するようにやたら大きなボンネットが前方に突き出ていた。運転手がアクセルを吹かすとボンネットがガタガタと震えたが、エンジンの回転数は逆にしぼむようだった。そして、バスの速度は満員に近い乗客の重量を支えているせいか、それとも疲れ果てた年代物のフォード社のエンジンのせいなのか、道路沿いで草を食む牛馬の数を正確に数えることができるほど、のんびりとした速度だった。それでも出発して数時間走ると、平坦な道の向こうにあった山影が近くなり、だんだんとその高さを増した。少年の心は躍った。遠くから眺めていたアンデス山脈の影が実像となって目の前にある。これからこの山脈を海抜四千メートルの高さまで登ると想像しただけでうれしくなり身が震えた。そして、その山の麓にあるアンゴストゥーラ村に着くと、平原を素晴らしいスピードで走り切ったフォード製のエンジンは息切れしたように、その村で停止した。

バスは右手にある検問所に誘導された。これまでも何度か検問を受けていたが、アンゴストゥーラの検問所では銃を構えた兵隊が運転手に降りるように身振りで指示した。小太りで色黒の運転手はいまいましそうにバスを降りて行くと、兵隊はバスを指差しながら運転手に怒鳴るように話していたが、数人の武装した兵がバスに乗り込んできた。

「わたしはマリオ・ギテーラ少佐(仮称)だ。これから皆さんの荷物と車内を検査しますので、荷物を車内に置いてバスから降りて下さい」少佐は命令を下すと、乗客の反応を確かめる必要もないというふうに軍人特有の機械的動作で反転してバスを降りていった。人々はバスを降り、不安を隠すようにざわめき、不満をもらしていた。
「きっとゲリレェーロのせいよ」
「バルブ―ド(髭面)たちには賞金がかかっているらしい」
「頭目はエルネスト・ゲバラというアルヘンティーノらしい」
少年は怯えていた。それは彼らがバナナを食べながら行軍していた、だらしない軍人ではなく、本物の軍人だと思えたからだ。
1967年の忘れられないふたつの出来事。
世界的な歴史と少年の個人的な体験がクロスした小さな出来事だった。

「50才の中年男、チェ・ゲバラの足跡を訪ねる旅に出る」

では、物語を2003年に戻そう。
私と先輩は早朝サンタクルスを出発した。車はホンダのパイロットで、3.5Lエンジン搭載の4WD車だった。パイロットは、当時のフォード車のバスとは比較にならない快適な走りで、1時間足らずでアンゴストゥーラ村に着いた。昔と変わらないのは、この村には相変わらず検問所があり、車を降りて、検問所に行きライセンスを提示する必要があることだ、そして、面倒を避けたいなら、多少、協力金として小銭を置く必要がある。
アンゴストゥーラ村を過ぎると、山間部の曲がりくねった渓谷の道路を走らなければならない。そして、ベルメーホの赤い山を左に見て通り過ぎ、更に1時間も走ればバリェと呼ばれる海抜1,700メートルに到達するが、そこから眺める峰々のパノラマは絶景だった。そして、サパイパータ村で休息をかねて昼食した。サパイパータはサンタクルスの裕福層の別荘地で、気温は一年を通して涼しく、気持ち良い風が吹いていた。しかし、先は長いので早々に食事を済ませて我々は出発した。36年の技術の進歩は素晴らしく、その後もパイロットは快調に走り、午後3時半頃には目的地のバリェ・グランデに到着した。
荷物を民宿に放り出し、二人は村役場に隣接していた。チェ・ゲバラ資料館を訪問する。資料館と言っても12畳間程度の部屋にゲバラやゲリラ達の写真が壁に飾られ、その遺品が雑然と展示されているだけに過ぎなかったが、先輩は熱心だった。私は手持無沙汰で写真を眺めていたが、ある写真が関心を引いた。
それは、ゲバラたちが殺された67年から数えて30年後の1997年、長く不明だったゲリラ達の埋葬場所を時のバンセル大統領が陸軍情報を基にアルゼンチンやキューバの人類学者の協力で埋葬現場を探し出し、発掘した時の写真の一枚だった。
発掘作業の写真は、掘られた穴の中にゲリラ達の遺骨が横たわっている写真が多かったが、医学の知識がない私には遺骨が男性なのか女性かの判別できなかった。しかし、その写真の遺骨はすぐに女性だと分かった。なぜなら遺骨の胸にブラジャーらしき千切れた布があり、腰はパンティらしき小さな布で覆われていた。それは彼女が女性として生きていたことを生々しく伝えていた。
写真に近づいて説明分を読むと「タニア・グティエレス(ハイデ・タマラ・ブンケ、東ドイツ系アルヘンティーナ)」という、名前と出身地と生前の美しい女性の写真があった。

「祖国か死か、セニョール・デ・マルタ病院にて」

「よし、ここはもう良い。次はチェ・ゲバラの死体が公開された場所に行こう」そう言って、先輩は張り切って次の目的地を告げた。
その場所、セニョール・デ・マルタ病院は町の南外れにあった。意外だったのはその病院が現在も病院として普通に診療しており、廊下には診察を待つ患者たちが並んでいたことだった。その中で幾分か元気そうな者に「チェ・ゲバラの死体が公開された場所知りませんか?」と訊いた。
「この廊下を左に曲がって、病院の裏に行くと洗濯干し場があるから、そこを抜けたところにあるよ」と教えてくれた。その通りに行くと、シーツのような大きな布が何枚も吊るされている洗濯干し場があった。しかし、その先は腰丈ほどの雑草が生い茂っていた。
「こんなところだろうか・・」迷っていると、草むらの中に隠れるように廃屋が埋もれていた。
「すごいな」先輩の第一声はそれだった。
もともと洗濯場だったという小屋は、三方が壁で、正面だけは壁が無かった。そして、その真ん中にセメントで作られた、使われていない洗濯台がまるで教会の司教座のように鎮座していた。しかし、先輩の感嘆は内壁に書かれていた無数の文字に向けられていた。
「ビーバ、チェ!Viva Che, 」
「祖国か死か!Patria o Muerte」     」
ゲバラを称える声、革命を賛美する叫びが聞こえてくるような、大小の殴り書きが壁や天井に至るまで、ぎっしりと埋め尽くされていた。
1967年10月10日。射殺された翌日、ゲバラは死体となってここに横たわって、遺体は全世界に公開された。あれから36年、落書きとセメントの洗濯台以外、何もない空間はまるで歳月が止まったように、そのまま残されていた。
「なあ、島ちゃん。ここまで来たんだ。どうせならチェ・ゲバラが殺されたラ・イゲーラ村まで行けないかな」 マルタ病院を出ると、先輩はすかさず次の要望を出して来た。
「しかし、今からだと帰りが夜になりますから、今日はバリェ・グランデに泊まって明日行きましょう」と答えると、先輩は嬉しそうに頷いた。
「やっぱり島ちゃんもゲバラに興味があったんだな」と言ったが、あえてそれに反論はせず、その日はゲリラ達が密葬され、そして発掘された現場を見に行くことになった。
そこは飛行場と呼ばれていた。しかし、そういう印象はまるでなく、草むらの中に未舗装の途切れた道路のある空き地があるだけだった。そして、その場所の横にある発掘現場は建設工事中であった。
「何を建てているの?」と訊く。
「来年のゲバラ没後40周年を記念して、この遺体発見現場にゲバラ博物館を建てるんだ。これから観光客が増えるぞ」と、作業員は汗を拭いながら返答した。
私は言葉に詰まった。社会主義革命に殉じたゲバラという男を、村人はその対局にある金銭に変えようとしていると思ったからだ。人々の逞しさに驚嘆するとともに、その欲望に辟易したしたことも記憶している。

「ラ・イゲーラ村の教室にて」

翌日も早朝出発した。バリェ・グランデから先の80キロの道路は未舗装で、パイロットは後方に砂埃を巻き上げながら懸命に走ったが、悪路で、到着は思ったより遅れた。急いだのは、今日中にサンタクルスに戻ろうと思っていたからだ。 先輩は到着するとすぐにゲバラが殺された小学校跡に突撃した。そこは学校の教室というより廃屋だった。室内は土間の床で、イスが一脚だけ置かれてあった。
「そのイスにゲバラは座っていたの」
いつの間にか背の低い老女が戸口に立っていた。
「わたしね、彼に食事を運んだの。お話し訊きたい?」
私は断ろうと思ったが、その女性カルメンは、私を無視して、獲物を見つけたように先輩に説明を始めていた。
私は外に出て村の中を歩いてみた。小さな村と小さな公園。大きな石の上にこれも大きなゲバラの胸像と十字架が建てられてあった。村を見て回るのには15分もあれば十分だった。
「いやー、良い話を聞いたよ」しばらくすると先輩が教室から出てきて嬉しそうに笑っている。そして、何か言いたげで目が落ち着いていない。
「どんな話を聞いたのですか?」
「いやね、彼女の夫がガイドしていて、チェが捕まった場所まで案内してくれるそうだ」
「私も行くんですか?」
「勿論だよ!」
私はまちがいなくため息をついたに違いない。
「いや無理なら良いんだが、こんなところで一人で待つより一緒に行ったほうが楽しいだろう・・はははは」

「そして最終の地、エル・チューロへ」

結局は車を村に置き、フリオ爺さんというガイドを雇って我々はQuebrada del Churo(エル・チューロ、※注、ユーロと訳される場合も多いが、ボリビアで使われている発音を使用)という沢を目指して降りて行った。道はなく、斜面に植えられたトウモロコシ畑の中を歩き、雑木と雑草の中の細いけもの道を下った。案内人が先頭で、次が先輩、私は最後尾。先頭のフリオ爺さんは大声で先輩に説明していたが、私は「なんでこんな処で、ゲバラは・・」という疑問を感じながら歩いていた。
2時間半はたっぷり歩いた。珍しく澄んだ水の流れる沢を渡る時には、ゲバラはこの沢の水を飲んだだろうかと想像した。そして、少し開けた空き地に出た。
「ここだ、ここだ」というフリオ爺さんの声を聞いてほっとする。
そこには大人の背丈ほどの岩があり、白いペンキで「革命家チェ・ゲバラ降伏の地、1967年10月8日」と、書かれていた。
「ゲバラはここで、ガーリー・プラド大佐に捕まったんだ」
人里からも道路からも離れたエル・チューロは不思議なほど静かであった。そして、そこは盆地のような低地で、その周りを囲むように稜線が続いていた。
「エルネストはここで捕まったんだ・・ここでは隠れることも不可能だ・・」そう思うと、チェ・ゲバラは何故ここを革命の地に選んだんだろう・・と、大きな疑問が湧いて来た。
チェ・ゲバラが革命の地に選んだこの地方には、わずかな住民しか住んでいない。彼が革命の狼煙を上げても、その煙を見る者も存在しない。彼はこの地で政府と対抗できるゲリラ隊員を、あるいは賛同者を募ることができると信じたのだろうか。今も昔もボリビアで革命を起こすには労働者を、特に鉱山労働者を味方につけるしかない。彼は、シエラ・マエストラでの勝利をラ・イゲーラに重ねたのだろうか。
「いや、そうではあるまい」
そのときノルテ(北)の風が吹いた。風は私の脇を過ぎて南に向かって去って行った。その通り過ぎた先にある稜線を見上げていると、あることが思い浮かんだ。それはチェ・ゲバラという革命のヒーローが、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナという男に戻った瞬間だった。

「郷愁・・そしてチェ・ゲバラがエルネストに戻った時」

私の結論は突飛かもしれない。しかし、南の稜線とその次に連なる尾根、その先の平原を想像すると思いつきは確信に変わっていった。彼が、ゲバラがこの地、ラ・イゲーラを選んだのはEstrategia(戦略)ではなくNostalgia(郷愁)だったに違いないと。あの南の稜線を超え、幾つかの尾根を越えれば真っすぐな平たんな道が彼の故郷、アルゼンチンへと続いている。キューバで戦い、コンゴで失意、そしてボリビアで戦い疲れたエルネストは故郷に帰る夢を見ていたのではないだろうか。だからこそアルゼンチンに近いこの地を選んだのではないか・・と。
当時のボリビアは貧しく、南米でも最貧国だと言われていた。確かにアンデス山脈の荒涼とした地は、貧しさとは食物が無いことを意味していた。しかし、亜熱帯のボリビア東部には果樹や芋、そして穀物もあった。現金が無いことを貧しいというのであれば、確かにサンタクルスは貧しかった。しかし、少なくとも食は足りていた。そのような地で、己の生命を賭けて革命に参加するだろうか・・。 「革命を起こすのは思想ではなく、空腹だ!」と言ったのは誰だっただろうか。残念ながら1967年にボリビアで起こったことは、それが正鵠を射ているような気がした。
当時14才だった少年は、50才になっていた。そして、遥か南のエルネストが生まれたアルゼンチンの方角を眺めながら、彼の革命と夢、そしてその死に想いを馳せていた。

追伸、この原稿を書き始めたのは奇しくも、チェ・ゲバラが死んだ10月9日だった。