連載エッセイ31:記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクトエクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設 サイト・プレパレーションと工兵隊の協力 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ31:記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクト
エクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設
<第2回>サイト・プレパレーションと工兵隊の協力


連載エッセイ30

記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクト
エクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設
第2回 サイト・プレパレーションと工兵隊の協力

執筆者:設楽 知靖(元千代田化工建設株式会社、元ユニコインターナショル株式会社、元明治学院大学国際学部講師)

「契約調印、工事の開始」
 
1974年2月に契約調印となり、契約条件の最初の業務として、義務付けられていた「プラント・サイトの土壌分析」(ソイル・スタデイ)と「トポグラフィック・サーベイ」(測量図面作成)を先行実施するため、土木エンジニアと営業企画スタッフが3月に現場へ乗り込むことになった。2人は羽田空港から、エア・フランス機でタヒチ経由ペルーのリマへ飛び、機内で土木図面を開いて、出来る限り、スペイン語でメモし、公社側と現場であるエスメラルダスの陸軍工兵隊との打ち合わせのためのメモを作成し、早朝のペルーの首都リマへ到着して、3時間後にブラニフ・インターナショナル航空で、隣国エクアドルの首都キト―に向かった。キトー到着後はホテル・コロンに入り、1泊、翌日は石油公社と打ち合わせ。そして最初の業務を行うための数個のダンボール箱をホテル・コロンのタクシーをチャーターして、陸路、峠を越え、サントドミンゴの町を経由して、両側にバナナ・プランテーションの広がる街道をエスメラルダスの町へ向かった。翌日は、あらかじめ選定したソイル・スタデイとトポグラフィック・サーベイを行う業者と打ち合わせ、プラント・サイトに向かい、図面で指示した数か所でボーリングを開始した。

 エスメラルダスの町では、ツーリズム・エージェントと交渉して、タイプライターを借りたり、マイクロバスをチャーターしたりした。我々二人は、このエージェントの両親が新しく建設したホテルを宿泊先として交渉し、常宿とした。このホテルの向かい側には、中華料理店があり、夕食はそこで食べたが、我々二人が食事をしていると、窓辺に必ず数人の裸足の子供たちが見ていて、食事を残すのを待っていた。残した食事をレストランの主人に頼んで、新聞紙に包んでもらって、子供たちに手渡すと、我先に争うようにして取り合って、その場で食べるのではなく、家に持ち帰るのであった。

 通常の日は、タクシーを使って、プラント・サイトへ行って、業者のボーリングをスーパーバイズするとともに、工兵隊の駐屯キャンプと公社の出張所で所長と打ち合わせをしたりと、多忙な毎日を過ごすとともに、本体工事の準備としての各種業務、すなわち、現場事務所の建設のための木材店との交渉、現場のスタッフ宿舎として使う、町医者が建てたが空き室になっていた病院の借用交渉、電話局との回線交渉、郵便局とのPO Box開設交渉、税関官吏との通関手続き並びにボンド・エリア設置交渉、借家や事務所の電燈、机、電気器具の購入交渉、日本からのスタッフが町中の3軒のレストランでサインで食事ができるための主人との交渉等々 を行った。

 さらに、現地調達のための砂、砂利、セメント等の業者探し、日本からのスタッフが現場に着任した後の宿舎の食材調達ルートとして、工兵隊のケタ―リング・マナージャーとの交渉などがあった。他の国であれば、下請け企業(サブコントラクター)が数社あって、そこと一括交渉、あるいは、見積取得を行えば良かったのだが、このような大型プロジェクトの経験が無く、全てが初めてであったため、調達は全て、商店を見つけては、あるいは個人と交渉しなくてはならなかった。このような社会では、個人は純粋であり、「必要性を説明すれば」皆、快く応じてくれた。このように様々な細かい経験を積むことができた。その例をいくつか列記してみたい。

 サイト・サーベイの時に、最初に泊まったゴキブリとネズミの出るホテルから、その後、鉄筋コンクリート5階建てのホテルが完成した。当面は、ここを最初の宿舎として、お世話になることとしたが、このご主人夫婦のおじちゃん、おばちゃんが、すごく良い人たちで、毎日1階のレストラン「ガビオータ(カモメ)」で食べ、そのご主人の子供たちが、エスメラルダスの町で唯一の観光ツアーを経営しており、息子がマイクロバスを運転し、娘がタイピストとしていた。後に、これを丸ごとお世話になることになる。

 プラント・サイトでのボーリング・テスト、トポグラフィック・サーベイには、毎日、町の流しのタクシ-(ほとんど客はいない)で往復した。このタクシーは、毎日、ほんの少ししかガソリンが入っておらず、町の中にガソリンスタンドは一軒あるが、毎日、グアヤキル(エクアドル最大の港湾都市)からタンクローリーが一台、ガソリンを輸送してくるだけで、タンクローリーがパンクでもしようものなら、エスメラルダスの町にガソリンなくなってしまう状況であった。 朝、ホテルへ来たタクシー運転手が今朝は、ガソリンが少ししか入っていないので、プラントサイトまで行けないという。よし分かった。それでは、工兵隊(バタジョン)まで行ってくれと言って駐屯地まで行ってもらい、そのゲートでは、我々二人が毎日着ている千代田の作業服にヘルメット(黄色で千代田のロゴマーク付きのもの)でタクシーに乗り込んで、ゲートでは敬礼すると、警備兵もこれに応えてくれて、「行先は」と問われて、「工兵隊長のところ」と言い、通過して隊長のところへ行く。隊長室で「プラント・サイトに行くタクシーのガソリンが無いので、ガソリンが欲しい」と告げると、隊長は、その場でメモ用紙に兵舎内のガソリンスタンドへ指示してくれた。無事、兵舎内のスタンドで満タン(無料)にしてもらって、プラントサイトへ向かった。

 プラント・サイトでは、工兵隊によるサイト・プレパレーションの一部の作業が始められていたが、その中で、我々はボーリング・テストとトポグラフィック・サーベイを行っていた。工兵隊の作業は、エクアドル政府が直接調達して、工兵隊にサプライされた最新の建設機械類も使っていた。作業は牧場であったプラント・サイトのブッシュの伐採が主体で、コントラクターからの土木図面(整地、カッテイング図面等)は、ボーリングによる土壌検査とトポグラフィック・サーベイ後に、千代田本社で設計し、その図面が、石油公社に提出され、それが工兵隊に渡って、本格的な土木作業が開始される。この作業中に、千代田の土木担当が、スーパーバイザーとして、プラント・サイトに入ることになっていた。

「Arcilla Limesa出現(特殊粘土質;expanded soil)」

 プラント・サイトのボーリングテストで採取した土壌をキトーの中央大学土木工学科の協力を得てテストした結果、非常に特殊な土壌であることが判明し、研究室で実験を繰り返すため、土壌のケーキを作り、乾燥させて、シャーレに入れて、その上から、ケーキに向かって、一滴ずつ、水滴を落として、ゆっくりと一昼夜、実験を繰り返すと、その土壌ケーキは、徐々に膨張して行くことが分かった。この種の土壌は、世界的には三か所しか存在しないことが文献で分かった。北米のプレーリー、イスラエル、そしてエクアドルの太平洋岸のエスメラルダス地域ということであった。その現象を確認するために、エスメラルダス周辺の建物の土台の部分の調査を行った。その主な建物として、一番多く存在する教会を対象とし、建物の周囲と、教会内の床の部分に焦点を当てて調査をした結果、建物の屋根に降った雨水が周囲の土壌にしみ込んで、それが、教会の床を固めたうすいコンクリートにしみ込み、この特殊な土壌が、下から突き上げるため、どこの教会の床もヒビ割れが生じていた。

 この現象が、プロセス・エリアを主とするプラントの基礎工事に大きく影響することが考えられ、土木工事の設計に当たって考慮の必要性が生じ、基礎の部分に水の浸水をシャットアウトする工夫をすることとして、主にプロセス・エリアには、分厚い防水シートをカッテイングした基礎土壌の上に敷き、その上に大型の玉石を乗せて、それをコンクリートで固める工法が取られることになった。この結果、プロセス・エリアの基礎が、水分から、プロテクトされることになった。この土壌データは、一連の入札資料におけるUOPデータの中にも無く、受注後にコントラクターが再確認を義務付けられていたソイルスタディーのボーリングで採取した土壌の研究室分析により、確認されたもので、キトー中央大学土木工学科分析室の協力と、この卒業生で石油公社に勤務し、土木担当のインへニエロ・バジェホ(Ing.Vallejo)と千代田土木担当の連携が大きくものを言った。その後の土木工事遂行の信頼関係強化にも役立った。

 さて、千代田本社での土木工事計画図面もキトーの石油公社本部プロジェクト経由、エスメラルダス駐屯工兵隊に提出することにより、プロジェクトの現場工事が、いよいよスタートした。我々(当面二人;土木技師と通称化学技師)が公社エスメラルダス出張所とバタジョン(工兵隊)の工事部隊と連日、打ち合わせをして、プラント・サイト内各エリアのサイト・プレパレーションのカッテイング工事に入り、工兵隊の建設機械が兵士により、稼働しだし、我々のスーパーバイズ作業を開始した。

 もう一つ、日本から来るプロジェクト・チームのスタッフの宿舎は、当面の20名ほどは、町医者のドクター・サラス(Dr. Salas)の建てたけれども使用されていなかった病院を活用させてもらうため、内装を整えたが、本体チームが乗り込んできた時の宿舎は、プラント・サイトから離れて、エスメラルダス河の支流に公社が確保していた土地に建設することになっていた。これは、契約上の項目としては、リファイナリー本体工事が完了し、プラントが稼働した後、公社のスタッフが家屋として使用することを条件として、コントラクターが建設することになっていた。これもまた面白い話があり、プロジェクト・チームの宿舎活用として、千代田本社が作成した建築図面は、全くの飯場のような図面であったため、見事に公社の建築技師にリジェクトされた。先発メンバーの我々は、設計を公社側の建築技師に一任することにした。後日、その結果としての建築設計図を見せられたところ、正に日本で言う「別荘の建物図」で周囲の植木の位置までも設けてあった。「なるほど」と了解して、この図面通りにコントラクター側で建てることとした。立派な吹き抜けの居間付きの別荘で、最初に使用した千代田プロジェクト・チーム・スタッフは大いに満足していた。

 まだまだ、この「土木工事と工兵隊の関係」、「現地調達事項とエスメラルダス町民との話」、「仕事を求めて、エクアドル国内から押し寄せる人との対応」、「現地への第一船、第二船における建設機械受け入れ」。「日本に招待した公社現場スタッフ、京都案内中のクーデタ―未遂事件」、「プロセス・エリアへのメインタワー(原油常圧蒸留装置)設置直後のエスメラルダスを震源とする大地震の発生」

 このような状況を経て千代田本社側で設計した土木建築の図面を公社側に提出して、プラント・サイトのサイト・プレパレーションの工事が、エスメラルダス工兵隊の主力により、開始され、我々二人(土木技師と化学技師)のスーパーバイズが、日々実施された。同時に本体が赴任前に行うべき業務としての現場事務所の建設、現場赴任者の当面の宿舎の設置、現地調達必需品の砂、砂利、セメント等の手配、建設資機材を積んだ第一船受け入れのためのエスメラルダスより、南の太平洋岸のマンタ港当局との打ち合わせ、そして、エスメラルダスへ搬送したマンタ港からの資機材の仮置きのためのボンド・エリアと、その機材の通関手続きについて、公社出張所とエスメラルダス税官吏との連日の打ち合わせ等々。何しろ、現地の担当者は、まったくこのようなプロジェクトの経験はなく、税官吏などは今までに輸出用のバナナと木材しか経験が無いとのことであった。したがって、プロジェクトの内容説明から初めて、通関手続きの作成まで必要とした。

「天然資源大臣のサイト・プレパレーション現場視察」

 工兵隊によるサイト・プレパレーションは昼夜休みなく行われて、牧場のブッシュ伐採は効率的に進められた。このようなある日、工兵隊の隊長から呼び出しがあり、数日後に天然資源大臣(海軍大佐、Capitan de Navio)が現場を視察されると告げられ、その昼食時に工兵隊将校クラブに二人を招待するので、現場で待つようにとのことであった。我々二人はプロジェクト・チームのぺーぺーであったので、作業服に編み上げ靴、そして黄色のヘルメット姿ではまずいな、話し合いの末に、作業服の中に、ワイシャツ、ネクタイを着用、そして、黄色のヘルメットには、千代田のマークを中心として、緑色のテープを3本付けることにした。大臣の方は真っ白な海軍の制服に金のモールの憲章であった。当日は、工兵隊からジープが現場に迎えに来て、我々二人は将校クラブで、大臣並びに三軍統合本部の幹部将校に紹介され、メイン・テーブルに座ることになった。そのテーブルには、公社総裁、市長、三軍統合本部幹部の面々で、フルコースも工兵隊のケターリン担当のサービスで、筆者も喉を通らなかった。お開きになって、大臣に挨拶したが、「努力します」というのが精いっぱいであった。

天然資源大臣・現場視察時の工兵隊将校クラブでの会食風景

「通信手段の設置折衝」

 当時の日本・エクアドル間の通信手段は、首都キト―の電話局に国際通話を申し込むのが唯一の手段で、2~3時間待つのは当たり前で、国際入札ネゴの期間、電話局がよく間違って繋いでしまい、電話を取るとイタリアや日本のコンペテイターに繋がっていたことも度々で、重要な情報は、隣のペルーのリマからや米国のロスアンジェルスへ飛んで、本社と会話することもあった。そんな訳で、エスメラルダスから日本へ電話がつながることは無く、せめてエスメラルダスとキト―との電話ができればとのことで、電話局と郵便局へ申請に行き、各々の局長に面談して、片や現場事務所へ回線を、一方では私書箱の設置を要請した。両者とも、「満杯である」との回答。ここで引き下がっては、何事も進まないとの思いで、翌日には、知恵を絞って、両者に対して、「電話代、私書箱維持費を滞納している人はいないか調べてくれないか、と問いただすと、数日後、ホテルへ連絡があり、「滞納者あり」とのことで、電話局の方は、今からケーブルを引きに行く、とのこと、我々は「ホテルにいるのだ」と言うと、「そのホテルに行く」ということで、本当に滞在ホテルの室に電話が引けてしまった。また郵便局の方も、「私書箱の支払い滞納者がいることが判明」、直ちに手続きをして欲しいということで、両者ともスムーズにことが運んでしまった。

「事務所、宿舎の調度品調達交渉」

 現場事務所の建築は、エスメラルダスの市の議員で、木材商を営むグテイエレス氏に依頼。さて事務所の調度品とサラス医師から借りる病院施設の内装調度品としての蛍光灯、ベッド、イス、机、マット類、そして洗濯機、冷蔵庫は、エスメラルダスのメインストリートに2~3軒しかない電気商や雑貨商へ相談、発注するより選択肢はなかった。これには、日本から持参した西和・和西事典や西語経済参考書により、注文書(Orden de Pedido)を作成し、電気店などと折衝を開始したが、何しろ、品物は店にある各一品しかなく、ほとんど全ては、首都キト―や南の港湾都市グアヤキルへの発注ということになり、数を揃えると納期がかかるのが大変であったが、その間の内装を早めに実施することで、日本からのスタッフの受け入れに間に合った。先発の約20名を受け入れる宿舎は、主治医の所有で、その後の様々な仕事でお世話になることになった。

「エスメラルダス―キトー間のフライト・ハプニング」
 
日本から荷物が多い時は、キトー市内の常宿であるホテル・コロンに泊まり、そこのハイヤーをチャーターして、数台のキャラバンを組んで、サント・ドミンゴ経由でエスメラルダスへ向かったが。このルートは、雨期には土砂崩れで、良く通行止めとなった。一方、通常のエスメラルダスからキトーへの出張は、例のエスメラルダス河、河口を丸木船で対岸の草原の飛行場へ向かい、そこから空軍が運営するTAMEのDC-3でキトーへ行った。ある日、このフライトに乗ると、座席に座れない乗客が2名いた。出発時刻になり、ドアーが閉まり、エンジンがかかったが、二人の座れなかった人たちを座席ベルトが無いまま、二人掛けのところの人の間に座って飛び立った。無事にキトー空港に到着したが、降りる時に聞いたところ、エスメラルダス空港のマネージャーと”アミーゴ”だったということであった。リコンファームや座席の指定も無かった当時としては、”アミーゴ”は実に都合の良い習慣だった。
そしてまた、ある日、キトーへのフライトで、予定通りに離陸したのだが、しばらくして、窓の外を見ていると、突然片方のプロペラが止まっていた。機体は双発のプロペラ機のDC-3だった。しばらくして。機内アナウンスで、エスメラルダスに戻るとのことであった。海岸べりにあるエスメラルダスから、キト―へ向かうのは陸路で言えば、全て上りである。キトー空港は、海抜2,900メートルにあるので、さらに飛行機は、5,000メートル以上の周囲のアンデスの山々を超える必要がある。こんな訳で、この日はエスメラルダスに戻って、翌日のフライト待ちとなり、ホットしたものだ。現場工事中には、いろいろなことが起きるものだ。

「現地調達、労働者雇用、そして第一船受け入れ」

 さて、エスメラルダス工兵隊の土木工事のスーパーバイズを実施しながら、事前に調達、確保しなければならないことが山積していた。どこからか情報を聞きつけ、現場から、ホテルへ帰ると、門前市をなす状況になってきた。すなわち、物資の売り込みと雇ってくれとの頼みである。まずセメントの売り込みが、夜遅くホテルを訪ねてきた。バーヂにセメントを積んで、隣国コロンビアから持って来るので、買ってくれないかという売り込みであった。セメントは絶対の必需品なので、エクアドル国内でも探す必要があった。ただし、信用できるかどうかの問題が第一で、その次が価格と数量、そして隣国からの輸送日数、これにより、一割くらいは“風邪を引いていて使えない“ ということも注意点である。何回かのネゴを重ね、ちょうど、現場事務所も完成のめどがつき、保管体制も整ったので、バーヂ2隻分ほど買い付け、事務所に保管した。風邪を引いていたのは、やはり、一割程度であった。

 次に重要なのは、砂と砂利の確保である。エスメラルダスの町の近くの丘陵で、数人を雇って、竹棒で、崖をつついて、砂利を採取している個人業者がいたので、話をしに行った。条件は、もっと人数を増やして、砂と砂利を分けて、さらに砂利は小粒と大粒をふるい分けて、ダンプカーで、毎日現場へ運んでほしい。「ふるい分け」する理由は、ダンプカー1台当たりの単価を分類するためと説明した。

 相手は、このような大きな仕事をするのは、初めてなので、説明に納得して、搬入条件を了解してくれた。現場の指定場所への搬入が始まり、最初は条件通りにふるい分けして搬入、現場でダンプカーの容量をチェックして、単価通りの支払いを行ったが、しばらく経ってから、ふるい分けしないで搬入するようになった。主人を呼んで話をしたところ、「セニョールシダラ、もうこれ以上、金は要らないので、あなた方の方でふるい分けしてくれ。これからも搬入する。」とのことであった。

 砂と砂利は相当量必要とするので、他の業者を探す必要もあったが、当面は真面目なおじさんであったので、引き続き搬入してもらったが、たくさんの業者らしき人たちが連日、売り込みに来た。その中には、工兵隊を退職して、エスメラルダス河の河岸の地主と連携して売り込んでくるインスタントな業者も多く、日曜日の昼間にホテルを訪ねて来て、これから、砂、砂利の採取場所を案内するから、見てくれとのことが多く、工兵隊との関係もあるので、休みの日に見に行くと、河岸の農場へ案内され、その土地の河岸を少し掘って、砂利のありかを示されたが、確かに地形的に砂利は確認できるが、ホテルへ戻って条件を確認すると、ほとんどが「建機を買うので、頭金を最初に払ってくれないか」という人たちばかりであった。

 また、夜はホテルで食事から帰ると、ホテル前には雇ってくれという人たちが、連日、列をなし、この応対が大変で、一応名簿を作成して、簡単な面接を行ったが、特殊な技能を持つ人は皆無で、ほとんどは、プロジェクト遂行業務などはまったく知らない人ばかりであった。

 このような状況の中で、第一船を受け入れることとなり、公社のエスメラルダス出張所と税関の二人の官吏との打ち合わせを続け、エスメラルダス港には、機材を積んだ本船が接岸できる設備が無いので、少し南の太平洋岸マンタ港で陸揚げすることとし、それらの機械は、港から直ちに現場近くに設置した「ボンド・エリア」に搬入し、そこで、船積書類に基づき、税官吏立会いのもと、通関するという手続きを作成した。第一船、第二船までの機材は、ほとんどが千代田のサウジアラビア・ジェッダ・プロジェクトで活用した中古品で、コスト・セーブのためであった。したがって、ブーム型のクレーンの組み立て、試運転、コンクリート・ミキサー車の試運転は全てボンド・エリア内で通関と同時に行う必要があり、船積書類はすべて英語であったため、スペイン語に訳して、官吏に説明するのに骨を折ったが、官吏が自分の勉強と理解してくれて、協力してくれた。例えば、車のエンジン・ナンバーが陸揚げした車と船積み書類の番号の違い、途中でエンジンを乗せ換えたことが分かったが、税官吏とは、これは船積書類の方の単純なタイプミスだと話し、その場で、書類の方のナンバーを書き換えて通してもらったりした。

「サイト・プレパレーション(土木カッテイング)中に地下水噴出」

 一方、工兵隊による土木図面に基づく、原油タンク・エリア、製品タンク・エリア、すなわち、手前入り口から向かって、海岸方面への緩やかに、丘陵へ延びる現場で、右側にアンデス越で、海岸へ向かう原油パイプラインが通っており、そこから、原油タンクへ原料を受け入れ、入り口に近い場所がプロセス・エリアとなって、リファイナリーの心臓部分が配置され、左側の手前は、LPG、ガソリンの充填エリア、その上には、製品タンクが配置されている。したがって、カッテイングは上部から、ひな壇状に土木工事のカッテイングが、ブルドーザー、バックフォーで実施されていた。ここでカットされた残土は入り口からリファイナリー外の指定された場所へ投棄する約束になっていた。何故ならば、、正面、丘の上部には小さな沼があり、そこに残土を捨てると地下水の水位が上昇し、カッテイングに影響するためであった。工兵隊は昼夜交代で、土木工事作業を行っており、順調であったが、ある日、突然夜中にホテルへ電話があり、現場の土木工事中のカッテイング・エリアの上部タンク・エリアで、突然、地下水が噴出したとのこと。公社事務所のバジェホ土木技師と工兵隊の隊長が、「直ちに現場へ来てくれ」との要請であった。

 我々二人は、「やったな」という意見であった。それは、残土は指定の場所にと約束したのに、近い場所に投棄するという違反をしたからだと直感的に思ったのである。案の定、思った通りであったので、直ちにカッテイング作業を止めさせて、建設機械を現場中央上部へ集め、その中央にバックフォーで、入り口に向かって、ドレインを至急掘ることを提案し、エスメラルダス河支流の方へ地下水を流すことにした。バジェホ土木技師並びに工兵隊隊長以下協力してくれて、ドレインはあっという間に、彫られて地下水を流すことができた。しかし、タンク・エリアのカッテイングは、周囲が乾くまで工事を遅らせることになった。この次には、丘に向かって、左側の製品タンク・エリアの土手を45度にブルドーザーでカットしていると、今度は、作業の中ほどで、地下水による土手ずれが生じ、またホテルへ飛び込んできたので、45度で土壌がずれてきたのなら、30度でカットせよということで解決した。土木屋と化学屋のアイデアが現場で生きた瞬間であった。