連載エッセイ34:記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクトエクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設 我儘を聞いてくれたエスメラルダスの民 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ34:記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクト
エクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設
<最終回> 我儘を聞いてくれたエスメラルダスの民


連載エッセイ33

記憶の中のラテンアメリカ・プロジェクト
エクアドル国営石油公社第一号リファイナリー建設
最終回 我儘を聞いてくれたエスメラルダスの民

執筆者:設楽 知靖(元千代田化工建設株式会社、元ユニコインターナショル株式会社、元明治学院大学国際学部講師)

「カピタン・デ・カマローネス、キトーでのクーデター未遂」

 いよいよ仮の宿舎のドクター・サラスの病棟の内装も完成し、20名ほどのプロジェクト先発隊を受け入れる準備がも整い、昼食をサインで食べられるレストランも三軒ほど契約ができた。仮の宿舎では、調理も行うので、そのケタ―リングも重要な業務となり、材料の調達先を調べたり、結構多忙な日々が、現場サイト・プレパレーションと並行して続けられた。特に浜辺のマーケットで海産物を調達するのは朝早くで、その時は、工兵隊のケタリング担当の兵士と喧嘩になることも多かった。マーケットで買った大きな魚、大半がコルビーナ(スズキのような白身の魚)で、それを天秤につるして町中を大きな声で売り歩く姿もあり、なかなか売れないので夕方には、丸干しになるのではと心配したものだった。

 マーケットでは、えび〈カマロン〉がたくさん捕れて、これを毎日、早朝から、工兵隊が買い占めてしまうので、いつも喧嘩になった。ある時、工兵隊に抗議に行くと、ケタリング担当の大尉(カピタン)が応対してくれて、リファイナリー・プロジェクトの先発隊メンバーも増えるので、漁具類も譲ってほしい旨を述べると快く了解してくれ、以後アミーゴになってしまい、我々は彼をエビ大尉(カピタン・デ・カマロネス)と呼ぶこととし、以来スムーズにマーケットで調達できるようになった。

 一方、公社エスメラルダス出張所長の退役大佐、コロネル・アンドラ―デ夫妻と工兵隊の隊長を日本に招待した。そして、東京、京都を案内したところ、平安神宮のあたりで、たまたま隣り合わせの観光バスの乗客がエクアドルからの観光客であった。当時では、珍しく、筆者はハイヤーで案内していたが、実は前夜に「エクアドルのキトーでクーデターが起こったらしい」という情報を得ていた。これをコロネルが一向に話したところ、大変驚き、さらに実際どうなったか、早く知りたいと頼まれ、筆者が、現地へ確認することになり、その夜に、都ホテルのロビーに集合することになった。東京本社を経由して、エクアドルのキトーに電話を入れた結果、「クーデターは未遂に終わった」ということが確認され、その夜にホテルのロビーに集まったエクアドルの観光客に知らせ、みんなとても安心して自分たちのホテルへ引き上げて行った。その夜、コロネル・アンドラ―デ夫妻とエスメラルダス工兵隊長と夕食の席で話をしたところ、「クーデターの際に、大統領がどこにいたかが鍵を握る」とのことであった。この時には、南のクエンカ近郊に滞在していたとのことで、エクアドルの軍は、南部、すなわちペルー国境近くに駐屯する軍が一番強い部隊であるとのことであった。エクアドルはペルーとの国境問題を抱えており、警備とこの配置がもっとも重要とのことであった。国境問題は、ペルー側でフジモリ大統領が誕生した折に、両国間の交渉がもたれ、現在は落ち着いている。

「スペイン語現場用語集」の(日英西語対照)の作成・配布」

 千代田では現場が開設されるたびに、主なプロジェクトの現場赴任者向けに、「現場用語集」を作成することにしている。その第一弾は、サウジアラビアのリファイナリー・プロジェクトで、ジェッダの現場赴任者用に、「日英アラビア語」用語集が初めで、第二弾は、イランのカーグ島に建設したLPG/硫黄回収プラント・プロジェクトで、その時は、「日英ペルシャ語」用語集であった。そして今回、第三弾としてエクアドル・エスメラルダス・リファイナリー建設プロジェクト向けの「日英西語」用語集であった。その内容は全五巻からなっていた。
第一巻:土木・建築工事編
第二巻:溶接・配管・据付け・タンク・加熱炉工事編
第三巻:電気・計装工事編
第四巻:機械・安全・検査・試運転編
第五巻:日常会話・庶務編  であり、その冒頭では、「このテキストを活用して建設工事をスムーズに行わしめることは勿論のこと、スペイン語地域の人々といわゆる明るく陽気なラテン気質をもった人々と一日も早く”アミーゴ”となり、歴史観に立脚した風俗・習慣を理解すれば、このテキスト作成の効果は100%発揮されたことになる」と述べている。

「セビチェ・デ・コンチャ・ネグラと肝炎、エスメラルダスを震源とする大地震発生」

 プロジェクトの先発隊20名ほどが順次現場へ到着して、市内の三軒ほどのレストランと交渉 して、現場赴任者が昼夜に指定のレストランに行って食べれば、サインで食事ができるようにした。その店の中には、一軒の中華料理店と冷房の効いた唯一のレストランがあった。この冷房の効いたレストランで、週に2~3回食べられる主人が作る「セビチェ・デ・コンチャ・ネグロという赤貝の種類であるが、見てくれは黒く、それをりモン(ライム)を絞り込んで、瓶に二昼夜、漬け込んでから客に出すことになっていた。見てくれは泥水漬であったが、これをつまみにして食前にビールを飲むと、これが最高である。毎回沢山あるわけではなく、四人で食べに行って、三人分しか無いときは、何とか食べたいので、ジャンケンで勝負をつけるのが習慣となった。

 しかしながら、このセビチェで、りモンを大量に使って、漬け込んだものは心配ないが、自身の体力が低下している時には、十分に漬け込でいないと、ビールス性肝炎にかかることが多く、現場に赴任した人たちも大勢が肝炎にかかってしまい、宿舎の主治医であったドクター・サラスにお世話になったもので、この現場で肝炎にかかった人たちで「エスメ肝臓同好会」を形成したものであった。

 第二船の機材を受け入れ、現場のセットアップの第一段階が終わり、第二弾の現場スタッフの受け入れた後の1975年来に後任者とバトンタッチして日本へ帰国した。1976年の新年を迎え、直ちにベネズエラの国営製鉄所SIDORのべネズエラ東部、マタンサスでの水処理プラント建設プロジェクトの国際入札に参加することになり、サイト・サーベイを実施するために、本社のプロジェクト・チームの機械エンジニア―と一緒にベネズエラへ飛んだ。そして、現地のサブ・コントラクターと接触し、ベンダーから調達品の見積もり取得を進めるとともに、入札書類の記述に基づいて、プロポーザルを作成し、首都のカラカスから、東部のオリノコ河流域マタンサスの「インターコンテイネンタル・ガイアナ・ホテル」に泊まって、翌日に国営製鉄所SIDORの事務所で実施された国際入札に参加した。午前中に開札が行われ、残念ながら、その場で勝負がつき、数パーセントの差でドイツ勢に敗北してしまった。

 ガックリして、ホテルに戻り、部屋に入る前にロビーのテレビを何となしに見ていたら、「エクアドルのエスメラルダスで大地震が発生」とのニュースが流れた。聞きなれた”エクアドル”、”エスメラルダス”、”テレモト(地震)“の文言に驚き、すぐに部屋へ戻って、東京の本社へ国際電話をかけた。日本は夜中であったが、これが「第一報」であった。それから東京―キトー―エスメラルダスへの電話が入れられたが、現場の新しい宿舎(別荘的建物)の壁が崩れたりしたが、リファイナリーのプロセス・エリアに最初に据え付けられたメインタワー(原油常圧蒸留装置:通商トッピングタワー)は、基礎のアンカーボルトの上部のボルトが吹っ飛んでしまったが、タワーの倒壊は免れた。またエスメラルダスの街中では、学校や大きな建物に被害が出た。

「終りに」

 一つのプロジェクトが完工して、コントラクターとして、オーナーのオペレーターを指導して、プラントの引き渡しが完了するまでは様々な問題が起こる。そして、LSTKプロジェクト(一括請負契約:全て請負業者が全責任を持って、建設、試運転を実施して、オーナーにキー(鍵)を渡して、オーナーが、キーでスイッチを入れてプラントが動き出す状態にするプロジェクト)ではなおさらである。

 その後、エクアドルを何回か訪ねたが、先ず、エクアドルは、1800年代にスペインからの独立を成し遂げた英雄、シモン・ボリーバルの副官として、エクアドルの独立に貢献したアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍で、通貨の単位も「スクレ(Sucre)で長く親しまれたが、2000年1月から「ドル化政策」により、通貨はUSドルとなり、米国ドル紙幣が流通するようになった。

 またリファイナリー・プロジェクト完工後、それまで存在しなかった中小零細企業が育成され、外国貿易・工業・漁業省の配下に、「中小零細企業規約」が作成され、キトーには、これら企業を育成するための研修センターが設置され、企業家の育成に力を入れている。ここでは、「コンソルシオ・スミトモ・チヨダ」(住友・千代田コンソーシアム)を起点としたことで感謝されている。この会議所を訪問した時は、「ドル化」された直後であったので、山岳部の住民に対して、手持ちの通貨の「スークレ」からの換金の方法につき丁寧に説明する場や住民の手工業、家内企業の起業についての研修が行われていた。

 この他にも、エクアドルで有名なのは、この地で黄熱病の研究をした「日本の野口英世博士」であり、キトーやグアヤキルには、博士の銅像が設置されている。そしてキトーには、“オレリャーナ通り“という通りがあるが、これは、フランシスコ・デ・オレリャーナ(Francisco de Orellana)であるが、スペイン人で、初めてエクアドルのアマゾン源流からアマゾン河を下って、大西洋へ出たことで有名である。

 1992年には、シスト・デュラン・バジェ大統領が来日し、東京と大阪で、大蔵大臣、外務大臣と共に、「エクアドル貿易投資促進セミナー」が開催され、千代田もJBICとともに講師として、筆者が話し、エクアドルでの経験として、現地での労働力に大きな協力を得たことを紹介した。

 大統領が来日して、貿易・投資セミナーが開催された時のエクアドル政府の標語は、公的機関のレターヘッドに必ず書かれていた{El Ecuador ha sido, es, sera el Pais Amazonico」(エクアドルは、過去も、現在も、将来もアマゾンの国である)である。筆者としては、「無限の可能性がある国」と解釈していた。また、筆者がブラジルに駐在していた1970年代初めの標語は、「Ontem,Hoje sempre Brasil」(昨日も、今日も常にブラジルのために)という、ブラジル独立150周年のメジシ政権の標語であった。ラテンアメリカ諸国では、その時代、時代で様々な標語が生まれるが、国民の団結を促す、素晴らしいことだと感じる。


エクアドル大統領を迎えての投資セミナーの一場面