連載エッセイ38:記憶のメキシコ・ペメックス・アプローチ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ38:記憶のメキシコ・ペメックス・アプローチ


連載エッセイ 37

記憶のメキシコ・ペメックス・アプローチ

執筆者:設楽 知靖(元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル)

これは、エンジニアリング企業でラテンアメリカ諸国の石油公社のプロジェクトに対して、営業企画の立場から、戦略的挑戦によりメキシコのペメックス(メキシコ石油公社)という「牙城」にアプローチした筆者の記憶に基づく記録である。

「UNAMのアミーゴに”エンリケ”と名付けられて」

 筆者がペメックス(メキシコ石油公社)と出会ったのは、社会人となる直前の大学生活最後の時に遡る。大学の専攻科目は、「工業化学」であったが、4年間のクラブ活動として、「ラテンアメリカ研究部」に所属して、この地域の研究を続けていた。4年生の時の就活で、エンジニアリング企業に決まり、1964年、東京オリンピックの年末に、卒業論文も最後に近づいた頃、早稲田大学の先生で、筆者の大学にスペイン語を教えに来て下さって、クラブの顧問であった先生から、中米のエルサルバドル共和国の招待で、早稲田大学を中心として、「中米学生親善見学団」を派遣するから参加しないかと言う連絡を受けた。

 4年間の地域研究の集大成のチャンスと思い参加することにした。この時は、先ず、エルサルバドルの首都サンサルバドルに入り、グアテマラを経由して、メキシコに入国、1965年3月にオアハカを通り、メキシコ市に着いたのが、1965年3月7日、25歳の誕生日の日であった。メキシコには、2週間ほど滞在し、いろいろな場所を見学したが、その中で、メキシコ市内にあったペメックスのアツカポツ゚サルコ・リファイナリー(石油精製工場)を見学した。

 これが「ペメックスとの最初の出会い」であった。今は、このリファイナリーは閉鎖されて、そのプロセス・プラントの大部分は、メキシコ市から近い北部のツーラ・リファイナリーへ移設されている。 そしてこの見学に同行してくれたのが、当時メキシコ国立自治大学(UNAM)の商学部の学生であった、サルバドール・アギレラ君とエンリケ・ラソ・カノ君であった。サルバドールのお父さんとおじさんはペメックスに勤めていた。筆者は、エンジニアとして、一番見学したいところであり、精製設備にも興味があったので、社会人として巣立つ一歩手前で、勉強ができた。

 この時案内してくれたUNAMの二人は、文科系のアミーゴとして親しくなった。その一人のエンリケ・ラソ・カノ君が、自分の名前をお前にやろうと言うことになり、俺は文科系であるので、リセンシアード・エンリケ(Licenciado)、そしてお前は、理科系だからインヘニエーロ(Ingeniero)と名乗れということになった。これ以来、社会人となってからも、名刺に「Enrique」を使うようになった。

「アポイントは、パシエンシアの連続」

 メキシコから帰って、一週間後の1965年4月1日、入社式を迎え、社会人としてスタートしたが、この時の会社は、中近東地域主導で、ラテンアメリカ地域のプロジェクトには関心が薄かった。入社後、最初で唯一の引き合いが来たのは、アルゼンチンの石油公社(YPF)が同国のアンデス側、メンドサに建設する、ルーファン・デ・クーヨ・リファイナリー・プロジェクトであったが、会社としては入札に参加しないことに決めた。その結果、米国のルーマス社が受注し、建設を行った。

 筆者は、イラン帝国のLPG/硫黄回収・プロジェクトにアサインされ、本社と現場を経験し、特にイランの現場、ペルシャ湾のカーグ島は、日中、摂氏52度、湿度70パーセントといった気候で、当時「毒蛇とサソリと千代田しか住めない」と言われたところであった。

 そのプロジェクトが、完工し、終了した1969年末に出勤すると、常務室から電話があり、すぐに部屋に来るようにとのことで、行ってみると、日本産業機械工業会からMITI(当時通商産業省、現経済産業省)経由、ジェトロ(当時日本貿易振興会、現日本貿易振興機構)へ出向して、メキシコとブラジルに駐在して、産業機械の市場調査を担当することで、期間は3年とのことであった。最初、メキシコに駐在し、二年目からは、新しく開設するサンパウロ・ジャパン・トレードセンターということであった。同時に1970年4月から日本プラント協会(JCI)の海外事務所を合併して、プラント部門も担当することで、プラント・エンジニアリング分野の経験者としては、最もやりがいのある仕事であった。1970年4月2日、羽田から、就航間もないパンアメリカン航空のジャンボ機で発って、メキシコ市のジェトロ・メキシコ機械センターに赴任した。

 この時が、本格的に、ペメックスへのアプローチということになる。すなわち、産業機械調査として、焦点を当てようとしているペメックスのプロセス・プラントは、何処の、どのような機械機器が組み込まれているのか、であり、そのためには、現物の見学、「現場を見る」ことを最初の目標としたためであった。何しろ、学生時代にメキシコ市内のリファイナリーを見学したのが、最初のペメックスとの出会いであったので、今度は自分で開拓しなくてはならない。すなわち、アポイントメントをどうとるか、目的は「リファイナリー見学」であるが、そのためには、ペメックス本社の上層部とコンタクトする必要があり、当時のジェトロ所長と相談して、ペメックス本社の上層部の人物を紹介してもらい、いざアポイントを取得して訪問するが、先方は多忙で、なかなか会ってもらえず、何日も、何時間も待つことになった。これが、一番の、その後の勉強になり、「3時間以上待っても、決して諦めない」が基本となった。重要なのは「忍耐」(Paciencia)である。

 このアポイントメント取得でも、ペメックス本社上部へ約束の時間前に到着して、秘書に告げて待っていると、時間が過ぎても一向に会うことができない。秘書に何回か督促すると、「今、上層部に呼ばれている」との返事ばかりである。ペメックス上層部の各階のオフィスは、その裏側に専用のエレべーターがあり、待っている人の前を通らなくても上下でき、目的の人物の動向はわからないようになっている。そして、3時間以上待った挙句、ようやく面談が出来た時の印象は、全くすまないといった様子は無く、“まだ待っていたのか”と言った感触であった。この「忍耐」が理解されると次回のアポイントを取得する時から、話をよく聞いてくれるようになった。

 この時の目的は、リファイナリー見学の日時を決めることで、希望の日程を説明すると、その場からリファイナリーの都合を確認し、担当者を教えてくれた。行くための輸送手段を聞かれて、“カミオン”と答えたら驚いていた。”カミオン”(Camion)は、当時、メキシコでは、バスのことであった。今は、”Autobus”であるが。

「カミオンでリファイナリー見学」

 ようやく、ペメックスの本社のアポイントが、ミナテイトラン・リファイナリー、タンピコの、シウダー・マデロ・リファイナリー、そして、中央部のサラマンカ・リファイナリーに取得できて、メキシコ市から、ミナテイトラン行の夜行のカミオンに乗った。夜中のメキシコ市を出て、プエブラ街道を南下するカミオンはメキシコの国営企業DINA (Diesel Nacional)の大型車で、夜中の街道を100キロ以上のスピードで走るので、一番前に乗っていた筆者は、寝ていることが出来ず、昼間であれば、メキシコの最高峰“オリサバ山”が左に見えるはずが、それも見えず、ただひたすらバナナの畑、アボカドの大きな木、マンゴーの林を突っ走った。真夜中の村々は寝静まっているのに、爆音のような音を立てて走り抜けるDINAのカミオンはまるで戦車のようであった。

 このようにして、ほとんど寝る時間もなく、早朝のミナテイトランの町に到着したが、十月のミナテイトランは湿気がものすごく、朝食を取りにレストランへ入った時は、汗がどっと出て来て、これが本当の「汗カロール」(Hace calor)だと感じた。リファイナリーのゲートが開くまで、レストランでコーヒーを飲んで時間をつぶし、リファイナリーの設備にはどんな装置があるのだろうと考えていた。このリファイナリーは、メキシコでも一番古く、ミナテイトランの地形も狭く、町に隣接して、貯蔵タンク、プロセス装置などがどうレイアウトされているか興味があったが、街のほうから見る限り、ステイームや黒煙が昇っていて、設備全体がかなり古く見えた。

 そして、開門と共に、入所手続きを済ませて、所長とオペレーション担当と面談して、その後は、ヘルメットをかぶって現場を見学した。 “プラントは芸術品”といつも思っていたので、イランでのプロジェクト経験や、日本でのリファイナリ見学経験から見ると、最初のトッピング・タワー(常圧蒸留装置)から配管等のエンジニアリングは、やはり一時代前のような感じであった。しかしながら、初めてのペメックス・リファイナリー見学であったので感激した。その後、近くのコアツアコアルコスの港に行き、税関長と面談した。この税関長は、学生時代にメキシコ市で会ったもう一人のUNAMのアミーゴのヘスス・エルナンデス・トーレス君(法学部卒業後、弁護士や文部次官を歴任)のおじさんで歓迎してくれるとともに、”他にどこか見たいところがあるか”と言われ、筆者は、頭の中にあった、「完成して、まだあまり時間のたっていない、パハリート石油化学プラントを見たい」と言ったところ、すでに閉門時間が過ぎていた石化プラントの所長に電話をかけてくれて、予定外のプラント見学をさせてもらった。この設備は、新しかったので、設備やユーテイリテイ関連も整っていて、配管の溶接工事などもよく見ることができた。

 日が暮れるころに、ペメックスの石化プラントを後にして、夕食を取り、再び、次の目的地、タンピコのシウダー・マデロ・リファイナリーに向かった。ミナテイトランからタンピコは、メキシコ湾岸に沿って北上するルートなので、同じくDINA製のディーゼル・カミオンで、大きな音を響かせ走行したが、今度は、疲れていたので、夜明けまでぐっすりと寝てしまった。タンピコのリファイナリーは、パヌコ川の河口に位置している。やはり、初期のリファイナリーで、ミナテイトラン・リファイナリーよりは大きく、現在は約20万バーレルの日量精製能力がある。ここでも早朝に到着したので、開門を待って見学し、平坦な河口の敷地に広く建設されたリファイナリーで、日本の沿岸工業地帯のリファイナリーの感が強く、装置も比較的整然と配置されていた。

 このリファイナリーも、その後のユカタン半島近海オフショア―のマヤ原油の増産に伴い、この見学の30年後には、リファイナリ―改造プロジェクトが国際入札にかけられ、日本のエンジニアリング企業も応札したが、残念ながら価格で、韓国勢に敗退してしまった。このシウダー・マデロ・リファイナリーを見学後、ちょうど、10月末は、メキシコでは、休日があるため、夜行カミオンで、更に北上し、米国国境のラレード市まで行き、夜中のリオグランデ川をトランクを持って徒歩で渡り、対岸のヌエボ・ラレード側で、米国のイミグレーションと税関を通って、シカゴ行のグレーハウンドのバスに乗って、かってメキシコの領土で、メキシコのサンタ・アナ将軍と米国騎兵隊トラビス大佐(この戦いの副官が、デビー・クロケットとジム・ボーイだった〉が戦った”アラモの砦“を見た。歴史に思いをはせながら、サン・アントニオからは、テキサス・インターナショナルのフライトでメキシコのモンテレィに戻り、今度は、また昼間のDINAのカミオンで、メキシコ中部のサラマンカに向かった。その道中でハップニングが起こった。

 昼間のカミオンであったので眠りはしなかったが、何もないメキシコ中央高原をやたら飛ばすのである。そしてあるカーブに差し掛かったところで、急ブレーキがかかり、運転手が、”全員降りて”自分のトランクを確かめてくれ“とのこと。降りてみるとカミオンがカーブで腹の部分のトランクの扉が開いてしまい、トランクが滑り落ちてしまったのだ。運転手は、これをバックミラーで見ていたとのこと。カミオンのトランクは空っぽで、乗客はカーブの所まで100メートルほど戻って、草むらに落ちていたトランクを回収し、カミオンに戻した。そしてようやく発車、あれがもし夜であったら、全てが無くなっていただろうと思った。とんだハップニングであった。

 夕方、サラマンカに到着、翌朝、サラマンカ・リファイナリーを無事に見学し、メキシコ市に戻り、筆者の産業機械調査の最初の調査が完了した。このペメックス・リファイナリー調査は、大変勉強になり、メキシコの設備の現状が把握できた効果があった。この時は、まだ北部のカデレータ、メキシコ市から近郊のトゥーラ、そして、南部太平洋岸のサリーナ・クルスの各リファイナリーは、未だ建設されておらず、その後のマヤ原油の増産と共に、メキシコの各種プロジェクトのアプローチの立案に役立てるものとなった。

「ペメックス城は難攻不落」

 筆者は、メキシコが好きで、ジェトロ出向解除後も、駐在と出張により、エンジニアリング企業の営業企画スタッフとして、いろいろな角度からアプローチを繰り返した。初めの頃は、ペメックス本社の組織は縦割りで、機器類を売り込むためには、購買部門に登録して”出入りの業者”としての認定を必要とした。そのために、プロジェクト部門とは,なかなかコンタクトできず、別行動でプロジェクトが進められていた感が強く、ある時期には、機器類ばかりをペメックスが買い付けて、ヒューストンに山積みになっていたという話も聞いた。エコロジカル・パッケージ・プロジェクトでは、ファイナンスの関係で、LSTK条件(Lump Sum Turn Key)が採用されたが、入札にかかる評価については、価格のみが重視されて、技術の評価は、二の次と言った感が見られ、変化が見られなかった。

 ペメックスの各リファイナリーを訪問して、マヤ原油の処理について、スタデイやキャタリストの話をしたが、担当マネージャーなどは、かなり実際の日々のオペレーション経験から、理解してもらえたが、ペメックス本社のプロセス・エンジニアに説明しても、なかなか理解してもらえなかった。ベネズエラでもオリノコ超重質原油について、INTEVEP(PDVSA下のR & D Center)とスタデイを続けたが、こちらは、プロセス・エンジニアの理解は、それなりに経験を積んでいる様子で、早かった。メキシコにも、IMP (Instituto Mexicano del Petroleo)という国営の研究機関があり、重質油の研究はしていたが、成果は、十分に得られていない様子だった。

 筆者は、エンジニアリング企業から開発コンサルタント企業に移ってからも、ペメックスへのアプローチを続け、JCI〈日本プラント協会〉のインフラ開発調査でも、エネルギー部門の調査でもペメックスとコンタクトするとともに、JBIC(国際協力銀行)のプレFSとして、ペメックス・サリーナクルス・リファイナリーのマヤ原油の「シンクルード化」(Synthetic Crude)について、ペメックス本社のホールデイング部門の企画部と打ち合わせて、サリーナクルス・リファイナリーを訪問、メキシコ湾側から、パイプラインで輸送したマヤ原油を二系列にして、その内の一系列を、日量15万バーレルのシンクルード化して、APIを下げて、中質原油としてアジア方面に輸出する案を提案した。これは、コンベンショナルなSDA(Solvent De -Asphalting)プロセスを活用して、副産物の石油コークスは、サリーナクルスで火力発電し、この電力を、当時、計画されていたPPPプロジェクト(Plan Puebla Panama) により、電力が不足している中米諸国へ輸出するという企画であった。

 この時、一つのエピソードがある。現場と打ち合わせのため、行きは、サリーナ・クルスの空港は小さいため、メキシコ市から小型機で順調に到着し、リファイナリーを見学後、打ち合わせを行い、帰ろうとした矢先に、猛烈なスコールに見舞われ、フライトがキャンセルになってしまい、翌日に、ペメックス本社企画部との打ち合わせがセットされていた。またペメックス本社と打ち合わせ後、午後のフライトでメキシコからロスアンゼルスへ飛ぶことになっていた。サリーナ・クルスの町の観光エージェントに飛び込み、何とか、車でオアハカの町に出られないかと交渉した結果、ピックアップトラックのような車が手配でき、夜中の雨の街道を突っ走って、午前2時頃にオアハカの町に着き、ホテルで仮眠して、7時のフライトでメキシコ市に戻り、ペメックス本社とのミーテイングに辛うじて間に合った。報告とプレFSの概要説明を行って、ホテルにトランクを取りに戻って、午後3時のロスアンゼルス行きのフライトに乗ることができた。翌日、米国の企業と打ち合わせを済ませ、昼のフライトで成田に帰ることができた。この時、ペメックス本社では、ホールデイング部門の組織が出来ていて、企画部の上層部と面談し、マヤ原油の対応の重要性が認識された。

 最後に、現在のメキシコは、2018年12月1日に、二大政党以外の新政権、Andres Manuel Lopez Obrador大統領が就任した。この政権は、無駄の抑制に努めており、評価も高い。一方、ペメックスのプロジェクトでは、タバスコ州のドス・ボカスに日量34万バーレルの新規リファイナリー建設計画を実行しようとしている。その大きな目的は、メキシコ国内のガソリン需要に応えるためとされるが、現在のメキシコは、原油生産高が下降気味であり、埋蔵量も伸びず、世界的に原油価格が低迷の中、資金をどのように調達するのか、また、プロジェクトも小間切れして、入札を実施しており、様々な問題があるように思われる。

 筆者は、約40年に渡り、ペメックスにアプローチしてきたが、プロジェクトの受注に関しては、成功とは言い難い。メキシコの歴史、ペメックスの生い立ちについて理解して来たつもりであるが、やはり、一口で表現するならば、「ペメックス城は難攻不落」であると言わざるを得ない。しかしながら、時代時代で、様々な戦略、想像力を駆使して攻め続ける企業であると確信している。

以  上