連載エッセイ41:天野芳太郎の夢 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ41:天野芳太郎の夢


連載エッセイ 40

「南米南部徘徊レポート」その5

執筆者:島袋 正克(伊島代表取締役、ボリビア・サンタクルス在)

「少年たちの穴掘り作業」

モンセニョール・リベーロ街と第二環状線が交差するロータリーにはサンタクルス市のシンボルであるキリスト像が町を祝福するかのように両手を広げている。
そのキリスト像が背を向けている方面がサンタクルスの北側になる。サンタクルス市から北に向かう通称カレテーラ・ノルテ(北街道)は、古くからアスファルト舗装され、コチャバンバや首都のラパスに至るが、途中、日本人が開拓したオキナワ移住地やサンファン移住地を訪ねることもできる。

その街道を車で北に20分も走ると、右手にユーカリの樹木が見えてくる。ユーカリはサンタクルス地方に常に吹いている強い北東の風に長年押されているせいで、真っすぐだったはずの幹を南西に傾がせている。ユーカリは、サンタクルスになかった木であるから、誰かが何らかの目的をもって植林した木である。今回はそのユーカリにまつわる物語を語りたい。

吉家和秀は当時15歳だった。家族はサンファン移住地からサンタクルス市に転住し、その近郊で野菜を作り生計を立てていた。そして彼は家業を手伝いながら、福原道場で仲間の鳥居靖夫や原田啓介らと柔道に熱中していた。ある日、原田が先輩の神谷健からある仕事を依頼されてきた。原田が仲間を片隅に呼び込んでひそひそと話した内容は「サンタクルス郊外に植林用の穴を掘ってくれ」という仕事だった。
「なんであんな土地に木を植えるんだ」と吉家が訊くと「知らねえ、しかし、ペルーのお金持ちが持ち込んだ話らしい」と原田は答えた。

「とにかく神谷さんに会って交渉しようや」
鳥居がそう言うと、少年たちは半信半疑ではあったが連れだって神谷を訪ねた。
「ひと穴2ペソでどうだ」と神谷に持ちかけられると、柔道少年らは交渉するもなにも、現金欲しさにふたつ返事でその穴掘りの仕事を承諾してしまった。

北街道沿いの9キロ地点にあるその土地にはまったく木がない。至る所にオルミゲーロと呼ばれる蟻塚があっちこっちにずんぐりと盛り上っているだけで、樹影のないパンパと呼ばれる草原にはホンホンというウズラによく似た鳥が生息しており、鉄砲を担いでホンホン鳥撃ちに通っていた吉家はその辺りの地形に詳しかった。

「いいか、深さは50センチだ。そして直径は30センチの穴だ。それを2万個掘ってくれ」と几帳面な神谷から説明されると、彼らはすぐに貰える金の勘定を空で計算した。
「おい、40,000ペソだぜ」と鳥居が小声で云うと、「黙ってろ」と、吉家は喜びをおさえて云った。

砂地の土はスコップが面白いようにくい込み、掘るのは容易かった。しかし、1時間も掘り続けると背中は汗でびっしょりと濡れ、汗が目に滲んだ。手を休めて振り返ると、掘った穴の列が草むらの中に点々と並んでおり、吉家はおもわずその数を指で数えていた。

「いくつある?」
服田がスコップを土に突きたてて横から訊いた。

「まだ30もない」と吉家が応えると、隣の鳥居も手を休めて後ろを見た。
「おい君たち、まだ始めたばかりだろう、先は長いぞ」

いくぶん叱咤するような神谷の声に急かされて、彼らはスコップを握りなおし、また三人一列になって穴を掘りだした。

「もうかれこれ45年前のことだ。あの時、ユーカリ植林の穴を掘った柔道仲間の原田はまだサンタクルスに住んでいるが、鳥居靖夫はエクアドルに移り住んだ。吉家は冷えたビールを片手に懐かしそうに当時を語りはじめた。

「福原兼詳とサンタクルス柔道連盟」

わき道に逸れるが、福原兼詳(くふはら・けんよう)とサンタクルス柔道連盟についても少々書き記しておきたい。と言っても、その歴史に詳しいわけではない。実は,オキナワ移住地50周年記念誌と、吉家が少年時代を懐かしんで語った後「持って行け」と言って、強引に押し付けられたレンベルト・ガンダリーリャ・スワーレス(Dr.Remberto Gandarilla Suarez)のSanta Cruz en los Umbrales del Desarrolloという著書に書かれた柔道についてのわずかなページを暇つぶしに読んだだけに過ぎないことを最初に言い訳しておきたい。

サンタクルスの柔道の歴史は沖縄具志川村出身の福原兼詳が1954年、第2次移民としてオキナワ移住地に入植し、2年後の56年にサンタクルスに転住、さらに4年後の60年、福原はバリビアン街に柔道場を開いた。それがサンタクルスで初めての柔道場だという。また、レンベルトの著書には福原は30歳であったとあるが、オキナワ入植50周年記念誌によると彼は1928年生まれだから、その当時32歳ということになる。

福原兼詳の道場はバリビアン街からモンセニョール・サルバティラ街に移転し、その後ラ・メルセーデ教会(教会で柔道を教えたのだろうか?)、そして、場所は異なるが当初と同じバリビアン街のバシリオ・デ・クエリャル校の向かいに移り、最後はチーノ・サベードラ(Chino Saavedra)の家(自宅か借家かは不明)で指導していた。
しかし、1970年にレンベルトがサンタクルス柔道場(Academia Cruceña de Judo)という道場を韓国人の李五段(Myung Lee)と開くと、福原は門下生の吉家や原田たちとともにその道場に合流したという。

同道場は、板壁の畳敷きだったという。しかし、奇縁なことに私は畳屋の息子なので、畳職人も材料もないボリビアでまともな畳を作るのは無理だと思い、吉家に訊ねると「畳表の替わりにテント生地、その下に草やカンナ屑、おが屑を敷いていた」という返答をもらった。草野球ではなく草柔道か・・と微笑ましく思った。

サンタクルスの柔道は、1975年には日本講道館から師範が来訪しCine Boite Mau Mau(映画館)で型や乱取りを指導するほど普及したという。翌76年には、軍隊、警官以外に柔道、空手、テッコンドーなどの武術を学ぶことを禁止するという奇妙な法令が出たが「そんな法律を守る者は誰もいなかった」と、吉家は語り、レンベルト・ガンダリーリャが会長を務める、サンタクルス柔道連盟(Asociacion Cruceña de Judo)が設立されるほどであった。

その後、サンタクルスの柔道はレンベルト が1988年の自動車事故で亡くなり、翌年89年にはサンタクルス柔道連盟の道場は18年の歴史に終止符を打った。それではまた、ユーカリの話に戻らなければならない。そして、もう少し吉家の話に耳を傾けなければならない。

「あの頃は金がまったくなくてね、柔道の後では腹が減るし、ともかく現金が欲しかったよ。気が付くと、とうとう一カ月近く穴を掘っていた。弁当持参で、馬に乗って通い、貰える金を数えて、ただひたすら穴を掘っていた。当時、労働者の賃金がいくらだったかよく覚えていないが・・月1,000ペソ程度だったかな・・、いい報酬だったよ。その頃、神谷さんが住んでいた家がまだカレテーラ・ノルテ(北街道)沿いに残っている」

吉家は懐かしそうに話しを結んだ。

「天野芳太郎の夢」
南米を多少知っている日本人なら「天野芳太郎」を知らない者はモグリだという。

それほど彼の活動は幅広く、ペルーでは金融、チリで農場、パナマで商業、コスタリカで漁業、エクアドルではキニーネの生産など南米各国で実業家として功をなし、晩年は考古学者としてチャンカイ文明の発掘に挑み、天野博物館を建設した。

その天野が57歳のとき、サンタクルスの平野に夢を見た。彼がこの地で事業にしようとしたのは「教育植林会社」であった。事業の内容は、昭和30年(1955年)9月20日付けの海外移住新聞に掲載されている。見出しは“500円出資で地主になれる”副題は“ボリヴィアの教育植林会社計画”という勇壮なタイトルが躍っている。記事を要訳すると「1口500円の出資でボリヴィアに植林を行い将来の教育資金にあてると共に、少年の頃から南米に関心を持たせ、南米移住に役立たせる」という内容であった。会社の事業計画では、ボリビアのサンタクルス市郊外ワルネス道沿いに1千町歩の土地を購入し、ユーカリを植林する。5百円の出資者には100m2の土地に8本のユーカリを植林し権利譲渡する。また、出資者にはユーカリの成長を毎年写真で確認してもらう。尚、日本における代理人として東京港区に住む藤井忠三の名が記されている。

同事業については、天野芳太郎の生涯を描いた小塩尚著の「天界航路」の444ページから446ページの半ばまでの、わずか3ページ足らずだが、友人の松井精次郎に宛てた手紙として書き記されている。
「・・・私は目下サンタクルスにいる。植林地の広々とした野や林を横切ると、アンダリエン時代の情熱が湧き、身体の中に沸々と若い力がみなぎる」
天野は挑戦する喜びに溢れた手紙を書いている。そして、天野は和歌を詠んだ。

“ボリビアの白き雲とぶ野をゆきて、樹を植うわれは大和ますらを”

神谷健が植林管理を引き受け、吉家と仲間たちが穴を掘ったこの事業の顛末も「天界航路」に載っている。それによると、天野はこの事業によって日本の若者がいつか海を渡ってボリビアにやってくるにちがいないと夢をみたが、現実には日本の為替管理法が妨げになったことと、信頼していた者の横領行為で夢は実現しなかったという。そして、その夢に共鳴した出資者への返済処理は天野の死後、長男夫妻が後々まで行ったとある。また、神谷健の談話によると「ユーカリの植林は1960年から実施したが、土地が砂地で乾燥しており、蟻塚が多かった。7年目の67年には目標の20万本の植林を完了したが、蟻の被害で8割は壊滅したので、植林は中止した」という。天野の夢は日本だけでなく、ボリビア側でも問題があったことがうかがえる。

私は、天野博物館を二度訪問した。最初は1973年だった。その当時75歳だった天野は好々爺で天野博物館を訪れる者を自ら案内することを楽しみにしていたというが、当時20歳だった私には残念ながら誰に案内されたか記憶がない。その後、私はこの原稿を書くために、サンタクルス中央日本人会の会長として2008年に天野博物館を訪問し、美代子夫人とお会いし、短時間ではあったが天野という男の生涯を語って頂いた。

美代子夫人によると天野は三国志の諸葛孔明の出師表が大好きで暗記していたという。病気を患って意識を失った時も「出師表をもってこい」と指示して、記憶を確かめるように読んでいたという。私は天野が所持していた古い出師表を見せて頂いた。己を諸葛孔明にみたてて彼は南米に出師する心構えを持っていたのだろうか。私は、天野という男に会った記憶がないので彼の説明がつかない。ユーカリを植えるように指示した神谷は、几帳面で温厚なお人柄で、サンタクルス中央日本人会の重鎮であったが、お亡くなりになった。そして、ユーカリを植える穴を掘った吉家は2006年に開催されたサンタクルス中央日本人会創立50周年の節目に日本人会会長を務め、ブルドーザーのような有無を言わせない強引な性格で50周年祭典を見事に仕切った。そして今、私の良き飲み友達である。

天野の植えたユーカリの梢をゆすって風が過ぎていく。
その風と梢が過ぎ去った日々に想像を運んで行く。
ペルーやチリ、そしてパナマなど、南米の各地で夢を実現させようとした男が1955年、このサンタクルスの地に立っていたのは事実だ。

その男が夢見た頃から65年の歳月が過ぎ、天野が夢見たサンタクルスの未来は、私が立っているこの風景だろうかと首を傾げる。

ユーカリは天野という男の夢の残りであるかのように今もサンタクルス郊外の地で、梢を風に揺らしている。
(文中敬称省略失礼)