執筆者:設楽 知靖(元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル)
1) チャベス政権の石油活用の格差是正策
ベネズエラの石油産業依存からの脱却は難しく、チャベス政権に代わっても、政治が変化しても、経済政策は具体策がなかなか出されなかったが、その中で、社会の格差是正対策については、原油価格の高騰という背景により、これを活用した具体策として、2004年7月に、石油公社、PDVSA内に社会事業部門を設置して、医療、教育、食糧などの貧困対策を打ち出した。その後、世界的な原油価格の下落、低迷により、現マドウロ政権では、必ずしも機能していないのが実情である。
2) チャベス政権下、商工省「中小企業振興計画」=全国工業団地調査=
2001年、筆者は、JICAのベネズエラ「中小企業振興計画調査」に参加して、ベネズエラ全国の地方都市における中小零細企業の現状調査を実施した。この目的は、チャベス政権における、地方産業の底上げ、ならびに商品開発、地方からの市場開拓を行うことと、それらの目標を遂行するための商工省の若手人材を育成することが含まれていた。ベネズエラは、長年にわたり、石油から脱却できず、一次産品の輸出と国内産業の片寄りにより、底辺の産業が育成されてこなかった。
一方、チャベス政権になって、地方の首長は、ほとんどがその影響下にあった。そして、今までの産業政策を把握するために、省内にある資料を若手スタッフに指示し、検索させることと、カラカスにあるCAF(カリブ開発公社)や SELA(ラテンアメリカ経済機構)などの事務所を訪問、資料を収集させた。中でも、目的に近い「地方工業団地計画」に関わる現状調査に焦点を当て、資料を検証した。その後、商工省が指名した若手カウンターパート2~3名に支持して、各地方都市でのアポイント取得を依頼した。
工業団地は、企業誘致のために、区画の整地、ユーテイリテイ(電気、ガス、上下水道など)が完備・充実していることが条件になっているはずなので、過去の各団地の計画資料から、それらの条件の有無を列記して準備をした。
ベネズエラでの地方出張は、その都度、早朝のカラカスを出て、海岸沿いのマイケテイア空港に行かなければならず、東部、西部、南部も同様で、日帰りの戻りは、夕方のフライトで、夜にカラカスに帰着するというスケジュールの連続であった。エンジニアリング企業にいた頃は、カラカス首都圏を中心にアプローチを展開できたが、開発コンサルテイングとなると、地方で様々な人々に、何をやっているか、何をやりたいのかを聞くことが重要で、相手は、地方の首長であり、会議所の人々であり、零細企業の親父だったりした。
東部内陸部では、プラスチックの廃材を溶かして、再生、整形してその地域のマーケットで販売したり、東部のカリブ海岸では、漁業者がいわしをとって、小さな工場で缶詰加工し、ブラジルへ輸出したりした。西部のマラカイボ湖近郊の町では、アルミ板を輸入して(ベネズエラでは、アルミのインゴットは製造しているが、アルミ板は生産していない)牛乳の缶に加工して、中米へ輸出していた。また、中部の自動車修理工場が多い所でも、部品の加工工場が欠落している状況であった。さらに、西武のアンデス山脈の北限地方では、ロスアンデス大学の研究施設では、輸入品は高価なので、インキュベーション・センターで、医療用の義足の製作を行っていたり、さらにコロンビア国境に近い所には、「マキラドーラ地区」があり、コロンビアからの労働力活用を含めて、繊維加工、ジーンズ製作、皮革加工などが行われていた。
ジーンズ製作に当たっては、市場の趣向に合わせて、ジーンズの色合いを調整するために、エクアドルから火山の軽石を輸入してウオッシング・ドラムに入れて工夫していた。そして、南部のアプーレ州では、州知事が知事公邸で出迎えてくれた。同州は東西に長いので、主要都市の市長を知事公邸に集めてくれた。10数人の市長を前にして、開発調査の趣旨説明を行い、午後には、川べりのレストランで知事、市長の面々と川魚の加工方法やそれらを利用したメニューなどの話に発展した。これ等の地方の「工業団地現状調査」では、それらの工業団地で工場経営をしている業者は、殆どなく、活用状況は最悪であった。その理由の共通点は、ユーテイリテイのメインテナンスの欠如だと思われた。
商工省のスタッフの育成に関しては、地方出張の際に、空港で早朝の待ち合わせをしていたが、約束の時間に来ないこともあり、フライトが限られているので、先に行ってしまうと、行き先の空港では、必ず市長とか会議所のトップが出迎えに来ており、、良く、”一人で来たのか”と驚ろいていた。スケジュールを消化し、カラカスに戻り、翌日、商工省のスタッフに問いただすと、”寝坊した。一人で行くとは思っていなかった“とけろりとしていた。
3) 中小企業振興計画「ドラフト・ファイナル・レポート」説明の日
2001年9月11日午前8時が、計画書「ドラフト・ファイナル・レポート」の説明日だった。当日の朝、時間前に商工省の大会議室へ行って待っていると、会議室のテレビがついていたので、見ていると、あの「ニューヨーク同時多発テロ」の発生の瞬間で、まさに2機目の飛行機がタワーに突っ込む直前であった。みんなが集まって騒然となり、しばし、会議は始まらなかった。しかし、調査ミッションは、ドラフト・ファイナル・レポートの説明を終えると、翌日の早朝のフライトで日本へ帰国することになっており、変更は不可能であった。
少し遅れて、会議を行い、商工省の局長の了承が得られて、ホテルに戻ると、本部から連絡が入っており、「米国内のすべての空港が閉鎖されている」とのことで、翌日のカラカス出発が出来なくなり、日本大使館からも同様、「待機」の連絡があり、足止め状況となった。
米国経由はできず、欧州経由では、JICAが差額を出さないということで、急ぎ、メキシコ経由でトライしたところ、メヒカーナ航空で一週間後のカラカス―メキシコ市が10人分予約ができ、すぐに、メキシコ市の日本航空支店へ国際電話を入れて、1週間後のメキシコ市―成田間の予約ができた。カラカスでの足止めは、一週間となったが、その間に打ち合わせ、レポートのまとめなどで時間を過ごしたが、米国の空港閉鎖解除はならず、待つしかなかった。
そして、一週間後にカラカスを発って、メキシコ市で一泊し、翌日の日本航空10時発、成田行きに定刻で搭乗したが、一向に出発しない。搭乗したまま、昼が過ぎ、アナウンスは、”米墨国境付近の通過許可を米国政府に申請中”とだけ繰り返すだけであった。待つこと数時間、搭乗したまま機内食が配られ、3時過ぎにようやく出発。米国国境付近までは順調に飛行を続けたが、国境付近に近づくと、西に進路を変えて、大陸から徐々に離れて飛行し、米国の領海を過ぎたところで、、今度は進路を北に変え、米国沿岸を北上するような方向で暫く飛行し、やがて、カナダのバンクーバーに向かって東に進路を取って米国の大陸へ向かって、やがてようやくバンクーバーに着陸した。
ここで、給油して、発つと、当然、成田到着時間は大幅に遅れてしまうので、許可を取得し、バンクーバーを出発、日付をオーバーする時刻に成田に無事到着した。機内で到着後のトランスポーテ―ションの案内があり、東京、池袋、羽田経由横浜への3方向のバスが手配されていた。筆者は横浜行に乗車し、横浜駅西口に着いた時には午前3時を回っていた。それでも午前4時には帰宅することができた。さすがに疲れた。世界を恐怖のドン底に突き落とした「同時多発テロ」のテレビ映像の記憶は頭から離れない。