連載エッセイ51:アンデスの国ペルーへのアプローチ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ51:アンデスの国ペルーへのアプローチ


連載エッセイ50

記憶:アンデスの国ペルーへのアプローチ
=Petroperuと多角化セールス『水撃ポンプ』=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株))

1. はじめに:

皆さんの記憶の中に、おそらく残されている事の一つとして、ペルーの歴史とアンデス文明に結びつける人と植民地時代からの流れとしての政治体制など、いろいろな角度から想像される方もおられるでしょうが、経済の観点から見ると、『魚粉の臭気』を思い出すのではないかと筆者は考えます。

どういうことかと言うと、その昔、日本からブラジルへ出張するときに大半の人はブラジルのバリグ航空(VARIG)で羽田から米国のロスアンジェルス経由ペルーの首都リマのホルヘ・チャーベス国際空港に着き、トランジット・ルームへ入るとき、航空機がターミナル近くに停止して、タラップが設置され(当時ジャバラはなかった)、さて、搭乗機のドアーが開かれると、真っ先に入ってくる空気が”魚粉の臭気“でした。特に冬のじめじめした夜半の空港で、冬の寒さと歩いてトランジット・ルームへの間は強烈な臭気であった。しかしながら、これはペルーの経済を知るバロメーターと筆者は思っていた。

当時のペルーは世界でも有数の漁獲高を誇る国で、太平洋岸でのアンチョビ(カタクチイワシ)の漁が盛んで、これを原料として”魚粉“を生産して飼料として欧米へ輸出して外貨を獲得していた時代であった。その後は政治混乱で、東西冷戦のなか、反政府勢力としての”センデロ・ルミノーソ(輝ける道)“や”MRTA(ツパックアマル―革命運動)“が活動を活発化して、筆者も出張中に″トケ・デ・ケーダ(戒厳令)や夜の官庁の建物、米国大使館爆破、山間部の鉱山や農村周辺の混乱を近くで経験したが、幸いに遭遇することはなかった。

2.ペルーの石油とPetroperu{国営石油公社}へのアプローチ:

 
ペルーの石油精製工場(リファイナリー)は首都リマの北部近郊、パンピージャ(LaPampilla)とさらに北部のタララ(Talara)で主に輸入原油を精製していた。1980年代の初めに、北部アマゾン川源流のイキ―トス近郊で石油が発見され、パイプラインでアンデス越えの原油輸送を計画、太平洋岸バヨバール(Bayovar)へ800キロメートルを日本の融資で建設、返済は原油と言うことであったが、ジャングル側の原油開発は思うように行かず、軌道に乗らなかった。

その理由は、開発地域がアマゾン源流地域と言うスワンピーなところで、先ず油井を設置するのに、フェリーポートを建設して資機材を郵送する必要があり、ペトロペルーのエンジニアに聴いた話では、このスワンピーなところに胸まで浸かって、体を蛭に血を吸われながら作業をしなければならなかったと聞かされた。このような条件で、油井一本当たりのコスト高で採算が取れない状況となり、建設後も順調な生産ができなかった。原油タンクも完成させたが、これを満たす原油は三日に一度の、輸送可能量にならない状態であった。

一方、石油製品の国内需要は増大して,ペトロペルーとしてはパンピージャ・リファイ ナリ―の増設計画(Expansion Plan)を計画し、1973年に国際入札が実施された。筆者はエクアドルのリファイナリー建設プロジェクトに参画していたが、ペルーの現地調査の応援に行けとの本社からの指示で、ペルーのサイトサーベイ・チームにエクアドルから合流し現地ポーションの見積もり作業に加わった。ペルーではエクアドルと違ってローカル・コントラクターが何社かあり、土木工事のファクターを中心に作業は順調に進んだ。しかしながら、競争相手のフランス勢(Technip)も強力で、最終的には涙をのみ、エクアドルへ戻ることとなった。

その後、ペルーへのアプローチは、ペトロペルーのタララ・リファイナリーのアップグレードに対して、本社からのプロセス・エンジニアと共に訪問を繰り返して議論したが、ペルーの経済的、政治的情勢が不安定となり計画自体が実行できなくなった。ペルーの太平洋岸は、エクアドルからチリ―の北部まで土漠地帯ですが、エル・ニーニョ現象の折に、この地域に雨が降ると一週間ぐらいで、一面緑になることもあり、リファイナリー近辺でも土砂崩れが起きたこともあった。
 
また、この時代は、アンデス南部の、クスコ近郊カミセア天然ガス田は発見されておらず、現在は、このガス田からアンデス越えのガスパイプラインが完成して、太平洋岸のリマの南,メルチョリートで、南米では初めてのLNGプラントが米国のCBI{シカゴブリッジ}のエンジニアリングで建設されて稼働している。また、ペトロペルーの現在の主要リファイナリーは北部のタララ・リファイナリーで日糧95,000バーレルの近代化計画が実施されていて、原油はエクアドル、米国、コロンビアからの輸入と、アマゾンの少量の原油を精製している。さらに、ペトロペルー翼下にイキ―トス・リファイナリー、リマ近郊のアスファルト生産のコンチャン・リファイナリーがあり、ラ・パンピージャ・リファイナリーは、現在、スペイン・アルゼンチンのRepsol/YPFに買収され、日糧117、000バーレルの生産を続けている。一方、ジャングル側の開発、埋蔵量はかなり確認されているが、社会問題、環境問題で進まない状況であると報じられている。

3.エンジニアリング企業の多角化方針の中での『水撃ポンプ』セールス:

1) 水撃ポンプ(Ariete Hidraulico)の試作;

エンジニアリング企業の本社では、石油・ガス産業の分野の他に、多角化の方針として自動車、空港施設などのプロジェクトの営業分野の開発を進めるための一環として、電気、燃料油の不要な灌漑用無動力ポンプ(水撃ポンプ)を開発、試作を行った。これは,前世紀頃にフランスで開発された歴史があるもので、これを設計してイギリスのポンプメーカーに制作してもらい、インテークの口径で三種類を試作、工場内にデモンストレーション・プラントを設置してカタログを作成し、ネパールや沖縄などへのセールスを図った。このポンプの設計に当たっては、地形が重要であること、目的 をはっきりさせることであった。その例として、一定の水路から最低3.0~3.5メートルの落差を利用してポンプに向かって落とした水が、やがてポンプ内で生ずる圧力によって、一方のバルブを押し上げて、このハンマー現象により、ポンプからの高さ10メートルまで揚水する技術で、このハンマー現象が繰り返されることにより。連続で揚水できるシステムである。これが燃料不要から、”無動力“と言われる理由である。
  
その目的が10メートルの高さの家畜用の水飲み場の活用や、10メートルのところにポンドを設けて、そこから下への農業用地の灌漑をしたり、途中での水圧を利用してスプリンクラーを付けて、利用の拡大を図ることもできる。また水は100パーセント揚水できるのではなく、ポンプのインテークの10パーセントに限られるので、ポンプからオーバーフローした水は元の水路へ戻すことができる。さらにポンプを並列にして,揚水量を増やすことや、少量の水力発電も可能である。

2) カタログがペルーの大統領府へ渡って: 

本社から各国へ宣伝用に配布された、このポンプのカタログの一冊が、いまだにどうの様なルートで渡ったか不明であるが、ペルー大統領府へ渡って、ペルー太平洋岸の乾燥地帯の農業開発に対して『無動力』という電気も燃料油も不要ということが印象を与えたようで、当時のアラン・ガルシア政権の大統領府から“このエンジニアリング企業とコンタクトしたい”との指示が出され、そのことが、当時中南米地域に拠点を置いていた筆者のところへ連絡が届いた。そして、大統領から、この『水撃ポンプの技術的説明を得たいので直ぐに来てほしい』と言われた。そのときに筆者のところには、まだカタログが来ていなかったので、直ちに本社へ連絡して担当エンジニアを一人、ペルーへ派遣してほしい旨を要請して、ペルーのリマで落ち合うこととした。
  
大統領とのアポイントメントは、1986年1月28日、午前10時、大統領官邸の大統領執務室と言うことになった。リマで待ち合わせたエンジニアと、朝早く官邸へ向かい、正面左側のピサロの銅像がある向かいの入り口から入って奥の執務室へ通された。その入り口を入ると大統領は奥の大きな執務机から入口の方に出てこられていて、あの紺の背広に紺のネクタイをされた長身の若い大統領が出迎えてくださった。
  
大きな机の右端には、ガルシア第二次政権で運輸通信大臣として来日もした、若い、大統領官房長官が居られた。背が高いので、顔を上げて挨拶の握手を交わして、カタログをどこから入手したかなどの話は抜きにして、いきなり水撃ポンプの技術説明の話になり、ペルーは農業 開発を重視しており、海岸地帯の乾燥地域やアンデスの農業地帯の開発を進めているが資金面で悩みが多く、電力、燃料が欠如しているので無動力ポンプと言うことに大きな興味を持っているとの発言があり、技術的説明を続けた。
  
大統領は最後に、この水撃ポンプをペルーにデモンストレーション・プラントとして設置してくれないかとの要請がなされた。これに対して、本社からの技術担当と共に『Sí, Señor Presidente』と了承の返事をしてしまった。そして、大統領に対して、”設置に当たってペルーの灌漑計画並びに地形調査をすべく、農業省を紹介してほしい”と質問した。これに対して大統領は了解し、横に座っている大統領官房長官に対して、直ちにその場から農業次官へ電話を入れて、”これからエンジニアリング企業の連中が行くから便宜を図ってくれるように指示を出してくれた。我々は直ちに、農業次官と面談するとともに要望を聞いてもらうとともに、ペルーの灌漑計画の図面を入手するため、今度は農業省管轄下の『灌漑公社』へ行き、公社総裁と面談して資料を入手してホテルへ戻った。

この日、1986年1月28日は大変な日であった。と言うのは大統領官邸を出たとき、数人の新聞記者に囲まれ、大統領と何を話したのか?と聞かれて、農業開発問題と答えたところ、新聞記者から”今、米国のスペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げ直後に爆発事故を起こした”と聞かされたのであった。

3)水撃ポンプ・デモプラント設置のための現地調査: 

灌漑公社から入手した資料に基づき『デモプラント』を何処に設置すれば、効果が生かされるか!を目標にして、本社で候補地を選定してもらうこととした.ペルーの海岸線は太平洋に沿って乾燥地帯が北から南へ伸びており、アンデス山脈から太平洋へ注ぐ河川は限られていて、アンデス文明、植民地時代を通してン農業地帯はその流域に、ほぼ限定されていた。したがって、水撃ポンプの設置場所としても、これに沿った水路を調査することとした。また、ペルー植民地時代からアンデス山系の水源を有効に利用するかの問題は長年のテーマとしてヨーロッパの灌漑水路建設の土木技術を活用して、長い距離を自然のグラビティーを維持して河川に沿ってバイパスのように水路がつくられているとこが見受けられた。

入手資料を検討の結果、海岸線に沿って首都のリマから北部の二か所、と南部の二か所を候補地として調査することとした。北部は、あのインカ帝国の最後の皇帝『アタワルパ』がスペイン人征服者、フランシスコ・ピサロに捕まった湯治場,カハマルカのさらに北西部の河川沿いを調査。この途中は過去においてドイツ人が入植した地域があり、小さな村を通った時、青い目をしたはだしの子供たちに会ったのには驚いた。一方、南部はリマから海岸線に沿ってパン・アメリカン・ハイウエーを南下し約100キロメーターのところで、今から120年前に日本人が佐倉丸で移住して最初に入植した、サン・ビセンテ・デ・カニェテ(San Vicente De Canete)の横をアンデスから流れるカニェテ川に沿って、農業用の灌漑水路があり、ここも調査。さらに、アンデスの有名な都市のひとつ,アレキーパ(通称:シウダー・ブランカ:白い都市)から太平洋のイーロへ下る流域も調査対象とした。
  
余談ではあるが、この地の調査の日は、1986年2月で、丁度、『ハレー彗星が地球に近づく』と言う時期に合致して世界各国から、この世界的にも空気が澄んでいるペルー・アンデス高原は絶好の観測地点として注目されており、欧米からの観光客でにぎわっていた。ホテルでは観光客は夜中まで寝ていて、夜中の12時ころになるとホテルに観光バスが集まってきて観測できるところへ案内するのであった。筆者も仲間とタクシーを拾って、近くの丘へ乗り付け、家並みの間を犬にほえられながら登り、草の上の犬の糞をよけながら寝転んで、夜空を見上げながら待ち、見事に流れて光るハレー彗星を観測することができた。
 
話をもとに戻して、上記の四か所の調査には、農業省灌漑公社のエルモサ長官が同行してくださり農業省地方支部からの車両応援も度々得られた。四か所の調査の結果として、北部カハマルカの先の河川沿いと南部のアレキーパからイーロヘ抜ける河川沿いは、アンデスからの雪解け水が、地形的に一気に下る可能性があり、季節の水量の変化が多きいと判断されて、ポンプを設置した後で、ポンプ自体が押し流されてしまう危険があり、この二か所は断念した。また、リマから比較的近い北部の候補地は、灌漑工事ですでに整地されていたが、揚水して農業を行う面積としては、小さすぎるのでデモプラントとしての役割と農作物の種類が制限されるので断念した。
  
最後に残ったリマから南のカニェテのカニェテ川流域の側溝水路は、水量が安定してており、3.0メートルの落差も確保でき、揚水地域が20ヘクタール以上の農地として灌漑に適していることで、デモプラントの第一候補として判断した。そして、最終的にここに決め、灌漑公社の同意を取り付けるため、公社と協議して同意を得たのである。日本からのポンプの輸送、ペルーでの輸入手続きを規定道理に実施して現地の地形に基づく設計と土木工事に基づいて水撃ポンプを設置した。
  
この時に、周囲に一番気になることがあり、それを最初に実施することとした。それは、ポンプの設置場所から揚水方向の左側は20ヘクタール以上の農地が確保できるが、向かって右手には小高い丘があり、その場所は一面、人骨野ざらしの状態であったのでした。近くの農家の住人に聴いたのですが、“植民地時代に働いていた農奴の人たちではないか“などの答えが返ってきたが誰も分からず、正規の墓であれば、ぺルーの場合、多くは素焼きのツボの中に座禅を組んだ形で織物にくるんで埋葬することが多く、この場所は丘一面に頭蓋骨、大腿骨が野ざらしにされていた。

筆者は、ポンプ設計の折にコンクリートで十字架を製作することとし、一方で、小高い丘の一番高いところにブルドーザーで大きな穴を掘り、近くの子供たちの協力を得て頭蓋骨と大腿骨をすべて集めて埋葬した。そして、そこに祭壇を作って柵と玉砂利をひき詰めて簡単な礼拝の場所を設けた。そして、水撃ポンプのイナギュレーションの日のお呼びしたカトリックの神父さんに先ず真っ先にこの丘の上の十字架の場所でミサを上げていただき、その後でポンプの場所に移動して稼働式のためのミサを上げていただいた。

この時には、農業省の次官、灌漑公社長官など要人20名ほどが参加し。無事にイナグレーションが終了し、ポンプは順調に稼働し″ゴっトン、ゴっトン“と水車のごとく音を立てて稼働し、その後も筆者はパッキンの交換に訪問したりした。最初は農業省の試験農場としてアルファルファ―の栽培、マメ科植物の栽培などを行い、後にモリーナ農科大学の試験農場に移管されている。

4)ペルー農業の勉強をすべく: 
 
この水撃ポンプの設置が決まった時に、筆者はペルーの農業に関する知識は、ほぼゼロに等しく、せいぜいアンデス高地でジャガイモ、トウモロコシを高度差と段々畑(これをアンデーナスという)に作付して、その種まき、収穫時に輸送手段としてのリャマ、織物のためのアルパカの飼育の社会生活構造の知識しかなかった。
  
そこで、海岸地域の農業を勉強するために訪問したのが『モリーナ農科大学』(Universidad Agraria De Morina)であった。訪問した時、”日本人“ということだったのか、いきなり学長室へ通され、しばらく待っていると現れたのは『アルベルト・フジモリ学長』であった。勿論、このとき大統領になられるとは夢にも思わなかった。そして、ガルシア大統領と面談して水撃ポンプをデモンストレーション・プラントとしてペルーに設置することとなった。と話したところ、学長は水撃ポンプのことはご存じであった。その後に訪問の目的を告げると『ペルーの海岸地域の農業で重要なのは、この地域の土壌は塩分が多いので、先ず水洗によって、しばらく水を流して土壌改良をすることが重要である。その後で、まずアルファルファ―を栽培して試験をして、次に、マメ科の植物を徐々に植えるとよい』との丁寧な説明を受けた。

この後も、何回か学長室をお尋ねしてレクチャーを受けた。そして、徐々にペルー経済が低迷する中、フジモリ学長はペルー学長会議のトップから、『Cambio 90:変革の90』を立ち上げて大統領選挙に立候補して、決選投票の末に、バルガス‣リョサ候補を破って当選を果たしたのでした。水撃ポンプをカニェテに設置したことも報告したが、大統領就任式までの引継ぎ期間に陸軍兵舎内におられた時、中米ミッションで行った折にペルーまで足を延ばしお目にかかった。大統領就任後も訪日の折に経団連の会議などでお会いしたが水撃ポンプのデモプラントが、今は、かつて学長をされたモリーナ農科大学の農業試験場になっていることを喜んでおられると思う。


写真:ペルー水撃ポンプ設置場所 海岸地域の現地調査風景

以  上

                     
               

写真:ペルー・カニェテ 水撃ポンプ・デモプラント設置場所