執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株))
日本の社会に居住していて、他の国へ行くには船舶か航空機によるしかなく、『地続きで
越えて、他の国へ行く』ことは不可能である。『国境』の定義は、”主権国家によって領域を持ち,地球の連続的な広がりを有界化する“と難しい定義がある。ほとんどがスペイン語を話すラテンアメリカ地域では、この地続きの境を『Frontera』と言い、この意味は『前面』や『前へ』と言う意味があり、何かを仕切るという『壁』の意味よりも“前の方に、何か未知の世界がある”という『夢』をもたらすようなイメージを筆者は昔から持っている。英語の『Frontier』は”未知の領域”という意味がある。このラテンアメリカ地域に長い間住んで、『出張』という手段で移動した経験の中で、いろいろな体験をしてきたことをお話したい。
1.初めての”地続き“の国越え=学生時代の最後に『中米学生親善見学団』に参加して=
1)エルサルバドルからバスでグアテマラへ
1965年2月、卒業の約2か月前に、エルサルバドル、グアテマラ、メキシコの三か国を訪問する機会を得た。最初にエルサルバドルの首都、サンサルバドルに空路到着して,そこからはバスで移動して、コーヒー研究所,日系の繊維工場を視察して、現地の中学生の”炭焼きの踊りと歌:El Carbonero“という民族舞踊を見て、グアテマラへ向かい、生まれて初めて”フロンテーラ“に近づくにつれて期待と希望に胸を膨らませた。そして、フロンテーラでバスが止まると、先ず、その窓辺に物売りが大勢近づいてきて、口々に発するのは“サンディーア、サンディ-ア(Sandia:西瓜)”という声で、二口ぐらいで食べられるように切った冷えた西瓜を売りに来た子供や女の人であった。
そして、バスの前方を見るとその前には踏切があり,閉まっていて、その先には小さな川に橋がかかっていた。エルサルバドル側の出国手続きが終わり、やがて踏切が開いて、その小さな橋をバスがゆっくりと渡った。国から他の国への、”地続きの“陸路で渡る経験であった。そして、その渡ったところに小さな小屋があり、そこが『Aduana:税関とイミグレーション』と書いてあった、Ciudad Pedro De Alvarado,Guatemalaとスタンプが押されている。エルサルバドル側の出国スタンプは、1965年2月27日、グアテマラ側の入国スタンプも同日の、1965年2月27日押されていて、思えばあっけない地続きの国越えであった。
2)フロンテーラを通過しグアテマラへ
フロンテーラを越しても、売り子の売り物や税関の近辺で売っているものは変わらず、言葉も同じ、唯一『通貨が”コロン(Colon)から“ケツアアール(Quezal)”に変わったことが変化であった。このとき、Ⅰケッツアール=USドル、1ドルだった。このような経験をして、ラテンアメリカ地域は言語、宗教、人種がほぼ同じであることを実感して、初めての地続きの国越えであったが、余計に『変化に乏しい最初の経験であった』ことが確認できた。
そこから、グアテマラの首都、グアテマラ・シティーへ向かってバスは走り続けたが、 風景は遠方の山が増え、小さな川の橋を通過して、その下を見ると“川で洗濯する女の人たちと、それを川岸の草むらに干している風景が繰り返された。グアテマラ・シティーに到着して、このころは、まだ、シエスタ(Siesta:昼寝)の習慣があり、聴いてはいたが、昼食後は町の全ての商店が閉まっていた。昼食は小さな中華料理店を見つけて、何人かで入って親父に注文しようとしたが、メニューはすべてスペイン語で、良く分からず、漢字で”餃子”と書いて、ようやく食事にありつけた。
首都の後は、近郊の1700年代までの最初の首都であったアンティグアへ向かった。そこは大地震で町全体が倒壊して廃墟となり、そのまま残されている場所で、小さな旅籠”ポサダ・ベレン”に宿泊、その中庭、パティオでグアテマラ織を織る先住民、マヤ民族の末裔の姿が印象に残っている.外へ出ると、廃墟となった天井の屋根が落ちた教会の跡に咲くブーゲンビリアの美しい赤い色が瞼に焼き付き、青い空を見上げると活火山であった,ボルカン・アグアの雄姿がじかに見られ、他方、町の生活用水の共同水場に集まる女の人が洗濯する姿が、妙に街道筋で度々見かけた、川で洗濯する女の人に重なって見えた。
3)グアテマラからメキシコ入り
グアテマラの山々の風景は日本とよく似ており、その後にマヤ時代の都であったキッチェ族のチチカステナンゴや、美しいアティトラン湖を訪ね、この地を後にしてメキシコへ向かった。メキシコとのフロンテーラに着くと,丁度、昼食時となり、イミグレーションも税関も閉まっていた。そこで、日本からの重要なミッションであると告げると、レストランで食事中の係官を呼んできてくれて、無事に出国でき、少しくぼんだ所の川にかかる橋を渡って、メキシコ側のイミグレーションと税関の建物へ行った。
メキシコ側の税関の建物はコンクリートの立派な建物で、日本の昔の関所のような雰囲気であった。ここで筆者は二度目の“地続きの国越え”の経験をして、入国審査を通過して、今度はメキシコ側のバスに乗り換えた。この時、1965年3月5日、Talisman,CHIS とスタンプが押されている。グアテマラ側の出国スタンプは、1965年3月5日、Talisman,San Marcosと押されている。バスは丘陵地帯を抜けて、メキシコ平原を走りオアハカの街へ、ここで一泊、通貨はケツアールからメキシコ・ペソに変わった。この時のメキシコ・ペソの対ドルレートは1USドル=12,5メキシコ・ペソの固定レートであった。
4)メキシコの青年との交流
通貨は変わったが、言葉、宗教、人は変わらず、宿泊したホテル・パンアメリカーナに夕方になって、日本人珍しさに、地元の女子学生が大勢押し寄せてきて、その夜は、その高校のバスケットの試合があるので、見に来てくれと言われ、それを見に行った。その帰り道に、一人のメキシコ人の青年と肩がぶつかり、日本であれば喧嘩になるところだが、その青年は、”あなた方は日本人か?“と話しかけてきて、“そうだ”と答えると、今夜、自分の家で近所の人を呼んでパーティーを開くから来ないか、と誘われた。途中でコカ・コーラとポテトチップを買って彼についてゆくと、大きな中庭のある家で家族に紹介され、やがて近所の友人が集まりパーティーが開かれ、家族からは、日本の国歌を歌ってくれと頼まれて、君が代を歌う羽目になってしまった。
彼の名前は、ロベルト・クルス(Roberto Cruz)と言って、メキシコ・オリンピックに来ないかと言われたが、その後はチャンスがなく、文通を続けるのみとなって、やがて彼も米国のボルティモアで働き、そこに住居を構えることとなった。翌日は、再びバスでオアハカからメキシコ・シティーへ向かい、1965年3月7日の筆者の25歳の誕生日にメキシコ・シティーに到着して、サン・ファン・デ・レトランとチャプルテペック通りの交差する、道路の真ん中に教会のある向かい側のホテル、ビレーイェス(Hotel Virreyes )に宿泊。その夜は、メキシコ自治大学(UNAM)の学生のたまり場の喫茶店で、日系人の学生も含めて誕生を祝ってくれた。
2.『Ventanilla Unica(One Stop Service)』=Land Bridge 調査のフロンテーラ通過=
あるとき『エルサルバドル東部開発調査』に参加して、同国東部の近い将来の経済開発調査において、首都のサンサルバドルから毎日のように、東部フロンテーラ、すなわち、隣国、ホンジュラスのフロンテーラへ行って、物流調査を行いフロンテーラの往復する輸送トラックをインタビューして、ある時は税関、イミグレーションにパスポートを預けてホンジュラス側へ渡る許可を得て一時の入国をした。ここもそれほど大きくない川に橋がかけられていて、両国の人はほぼ自由に行き来していた。筆者も徒歩で一時的にホンジュラス側へ渡り、ホンジュラス側のイミグレーションの手前まで行って,入国はせず、その手前で通関待ちをしている数台のトレーラー・トラックのドライバーにインタビュウーして積み荷の内容や物流の状況を聴いた。そのほとんどが、グアテマラ人で、グアテマラから農産物を積んでコスタリカまで運び、帰りはコスタリカから果物などをグアテマラへ運ぶとのこと、したがってエルサルバドルは通過だけのトランジットであるとのことであった。
また、別の日に、エルサルバドルの東部、ラ・ウニオン港から陸路でホンジュラスの大西洋岸サン・ペドロ・スーラへ至る『ランド・ブリッジ』構想の調査を車両でフロンテーラを越えて輸送調査を行い、その帰途はマヤ遺跡のホンジュラスのコパンを経由して、別のホンジュラスとエルサルバドルのイミグレーションと税関を通過した。この時にホンジュラス側のイミグレーションでパスポートを提出すると、そこでホンジュラス側の出国スタンプが押され、その窓口からパスポートが返却されると思って待っていると、中の係官が、左側の窓口へ行けと合図され、その通りに左側の窓口へ行くとパスポートはエルサルバドル側のイミグレーションの入国スタンプが押されていて返却された。
この窓口では机が隣り合わせで事務処理がなされていた。正に効率的な『Ventanilla Unica(One Stop Service)』が機能していた。このサービスは中米で共通のシステムとなっているはずであるが、前述の、物流のトレーラー・トラックのトランジットの例では、グアテマラとエルサルバドルの税関とエルサルバドルとホンジュラスのフロンテーラの税関では、トラックの積み荷のデータなどの情報がうまく機能していないようであった。この時も、筆者は二度の陸路、足と車によるフロンテーラの”地続きの国越え”を経験できたことになる。