執筆者:桜井 悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)
チリのジェトロ・サンテイアゴの所長として、1984年12月から1989年6月まで4年半、滞在した。その間、日智商工会議所でいくつかの仕事のお手伝いをさせていただいた。その中で4つのエピソードを紹介する。すべて初めてのプロジェクトである。
1)日智商工会議所会報(BOLETIN)発行の経緯
1985年の9月か10月に、その当時の会議所会頭の鴻海茂美さん(チリ東京銀行社長)から、会議所のさらなる発展のため会報を作成したいので是非とも編集長を引き受けて欲しいという要請があった。喜んで引き受けたが、その際、2つの条件を出した。1つは、編集長や編集委員の任期は6ヶ月とすること、その後は、他の人が交代で務め、前編集長は編集委員として残すことによって継続性を保つこと。第2は、極力多くの駐在員、とりわけ若い方々の参加を義務付けるということであった。鴻海会頭には、私の条件を快く聞いていただき、会員の商社、メーカー、銀行、大使館の若手の人に集まってもらい、編集委員会を作った。全員結構忙しかったので、編集会議は月1回とし、その際に、翌月号の掲載記事とその担当、向こう3ヶ月くらいの特集記事や担当者を決めることにした。編集委員には、任期中に必ず最低1つの記事を執筆してもらった。このようにして、第1号は、1985年12月に発行された。もちろんその当時は、現在のような立派な体裁ではなく、藤尾清事務局長がワープロ(その当時から徐々に普及しつつあった)で打った10ページ程度のものだった。
発行されると編集委員もだんだん面白くなり、シリーズで特集を行おうということになり、米国、ドイツ、英国、フランス等の外国商工会議所がどのような活動を行っているかを編集委員が分担して取材した。また会員企業に対しアンケートも行った。その中には、会員企業のひいきのレストランやナイトクラブ・ランキングといった遊び心のある質問もあった。私も編集長として、企業の駐在員やそのご家族にお役に立つような記事をいくつか執筆した。その中には、「チリ温泉めぐり」や「サンチアゴ銅像めぐり」、「サンチアゴ博物館めぐり」等が含まれている。最初は10ページだった会報も徐々に20ページを越えるようになった。6ヶ月たった後もずっと編集委員として残ったが、途中で途切れることなく、ますます立派な会報になっていった。2005年7月には、第200号を発行するに至り、ページ数も200ページとなった。2014年度からはWEB版になり、今年の6月には、第256号を迎えるという。会議所の会報を時々見ると、発行当初の精神がしっかり残っていること、ボランティアによる執筆が多いことに驚かされる。
2)サンテイアゴ・メトロポリタン・ソフトボール大会でカマラ(日智商工会議所チーム)堂々優勝
ジェトロ・サンテイアゴ事務所は、1人事務所であり、割合自由に会議所の仕事のお手伝いをさせてもらった。ジェトロは政府機関ということで、日智商工会議所では顧問という肩書であった。最初の仕事は、スポーツ委員で、会議所のソフトボール・チームに参加した。後にキャップテンや監督なども勤めた。ソフトボールと言っても、我々が通常考えるソフトボールとやや異なり、ピッチャーは、4~5メートルばかり上に高く投げ、バッターは落ちてくるボールを思い切り打つといったものであった。当時、トヨタ・チレの社長であった岸野友治氏(レストラン将軍のオーナー、元日本人会会長、小説「革命商人」のモデル)が監督であったが、その時に、サンテイアゴ・メトロポリタン・ソフトボール・リーグで堂々優勝した。リーグは、アメリカ商工会議所やチリ大学、カトリック大学、シェラトンホテル等々9チームで成り立っており、総当たり戦で優勝を決定する。バルパライソからは米国の屈強な海兵隊の選手も参加していた。優勝した際には、サンチアゴの有力紙のLA TERCERA紙に写真入りで掲載された。当時、チームには、丸紅のH氏、豊田通商のK氏、前川製作所のS氏、日本人学校のI先生、N先生、大使館のS氏、MOAのK氏等錚々たる名手がいたが、小柄な日本チームが筋骨隆々の米国チームに打ち勝ち優勝にいたったことはまさに奇跡であった。
当時のカマラのチーム、前列左が岸野監督
3)家族そろってのソフトボール大会の組織
上記リーグは、日曜日に、サンテイアゴの国立競技場のソフトボール・グラウンドで行われていた。いわゆるメイン・スタジアムではなく、隣接したソフトボール専用のグラウンドで、2面あった。会議所の活動として、家族そろってのスポーツ・イベントとして何かないかと考え、ソフトボール大会を組織することにした。隣接したグラウンドとは言え、国立競技場で家族そろってソフトボールを楽しむことは、なかなかカッコいいし、日頃駐在員の男性だけが、ゴルフをするよりはるかに健全である。借り賃も安いこともあり、2面を借り切って、実行に移すことにした。当初、参加者が集まるかどうかが心配の種であったが、やってみると、駐在員、夫人、子供たちが多数参加し、4チームができあがり、総当たり戦で行った。最初、うまく行ったので、その後毎年開催した。家族ぐるみのイベントが少なかったので大好評であった。
4)会議所日本図書館充実キャンペーンの組織
当時。セントロにあった会議所の事務所の片隅に、日本の小説等を中心とした日本語書籍を整理した本棚があった。当時の藤尾事務局長と相談し、さらに書籍を充実させることによって駐在員や日系コロニアの人々に役立てようと考えた。月報等でキャンペーンを行ったり、駐在員の帰国時に所有本を寄贈してもらうことにした。最初は、帰国する駐在員の協力が十分に得られなかったが、徐々に賛同者が増加していった。その後商工会議所の事務所がセントロ(市中心部)からラス・コンデス地区に移転し、事務所も大きくなったが,2階に充実したライブラリーができあがった。私も最大の書籍寄贈者の1人として、帰国後も約100冊の新刊文庫本を送付した。
「写真」帰国直前に、駐在員夫人の集まりである「コピウエ会」で「チリ駐在生活を楽しむ方法」についての話をする筆者。