連載エッセイ60:ラテンアメリカのフロンテーラ(Frontera)後編 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ60:ラテンアメリカのフロンテーラ(Frontera)後編


連載エッセイ59

記憶:ラテンアメリカのフロンテーラ(Frontera)後編

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株))

3、四ヶ国ドライブによるフロンテーラ越え=ブラジル・ウルグアイ・アルゼンチン・パラグアイ・ブラジル、10日間、7,700キロメートル・ドライブ=

1971年の暮れから新年にかけて、四ヶ国をブラジルの国産車、『フォルクスワーゲン・カブトムシ』で計画した。当時はどの国も、関税により自国の製品保護が厳しいこと、政治的不安要素としての反政府テロ組織の活動が活発であったため、日本人が他国へ移動する場合、人間のビザはほとんどいらなかったが、自動車のビザを取得するのが必要であった。最初のブラジルからウルグアイへ入国する場合、サンパウロのウルグアイ領事館へ車のビザ申請、指定フォーム・シートに書く内容はシャーシー番号、エンジン番号、ナンバー・プレートの番号、車体の色と特徴、カーラジオの有無,そして、スペア―・タイアを含む5本のタイアの製造番号まで記載する必要があった。

これは、使用する車がブラジルの『国産車』であり、ブラジル外で品質の良いタイア、エンジン、カーラジオなどを付け替えてくる人がいるためということであった。そして、もう一つは、ウルグアイでは反政グループ”ツバマロス”の活動が活発であったので、ガソリンスタンドでの給油は、一回10リットルに制限されていたので、ブラジルを出る前に、“ポリの補助タンク”を用意する必要があったためである。車のビザ取得後、つぎはブラジルとウルグアイのフロンテーラ通過時のイミグレーションと税関の所要時間予側設定であった。多分時間がかかると予想して,一か所当たり2時間と予測した。

そして、先ず、最初のフロンテーラのブラジル側のチューイ(Chuy)のイミグレーション・税関に着いた。ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スール州はどこまでいっても平坦な牧場地帯で、このフロンテーラも周囲に何もないところにポツンと建物があるだけで、隣接するウルグアイの税関は見えない殺風景なところであった。パスポートと車のビザを提示すると、係官は簡単に出国スタンプを押して、家族が乗っていたので、ほとんど検査もせず20~30分で出国、続いて少し走って今度はウルグアイ側のチューイ(Chui)の入国でも、車のビザを係官がチェックしたが,エンジンルームを開けただけで、シャーシーやエンジン番号の検査はなく、やはり20~30分で入国できた。ウルグアイ側もフラットな牧場ばかりで、ブラジル南部と風景は変わらず、人口の少ないのを感じたぐらいで、後日、道に迷って牧場を尋ねたら、まず先に出てきたのは犬で、つぎに馬が出てきて、人間はなかなか出てこなかった。

4.隣の国へ夕飯を食べに

1999年になって、『ウルグアイ国林産工業開発調査』で久々にウルグアイ東方共和国を訪ねる機会があり、全国の植林地を調査した折に、首都のモンテビデオから真北に500キロメートルのところにリベラ(Rivera)と言う町があるが、そこは、ブラジルとのフロンテーラであり、町がフリーゾーン的で、ブラジル人が車でウルグアイ側の輸入品を購入して自由に行き来していた。筆者はここで面白い経験をした。

この町はイミグレーションも税関もなく、フロンテーラはどこかと探して歩いていて、その辺の人に聞いたところ、その答えは『あそこに見える洋品店とスーパーマーケットの壁のところがフロンテーラだ』との答えが返ってきた。驚いた、その前は普通の道路で、そこには旗のポールが立っていて、その先は小さな公園があり、ポールには両国の国旗が掲揚されていた。そして、翌日の夜、夕食を”今日はブラジルへ食べに行こう“ということになり、それこそ地続きでフロンテーラに何の印もない道路を歩いて、ブジル側のホテルのレストランへ入った。そこでブラジル料理を食べ,セルベージャ/セル ベッサ(Beer)を飲んで、さてホテルのボーイさんに”御勘定“というと一枚のお勘定書き持ってこられて、ここでボーイさんが説明してくれたのが、『三種類の金額表示』であった。すなわち、”ブラジル・レアル(Real),ウルグアイ・ペソ(Peso)、そして、USドルで、”どの通貨で払ってもよい“とのことで、換算はその日の公定レートで換算してある、との説明で、筆者の手持ちはウルグアイ・ペソであったので、ペソで払った。このフロンテーラで、面白い初めての経験をした。

1)ウルグアイからアルゼンチンへフェリーで

さて、ウルグアイでは少しのガソリン給油をして、次の国、アルゼンチンへモンテビデオからフェリーでブエノスアイレスへ渡った。あの広いラプラタ川の海の様な河口を長い時間かかって航行し、フロンテーラはその其の河口の中間で通過して、出入国のイミグレーションは、そのフェリーの中で行われた。夕暮れのブエノスアイレス港に到着して、今度はそこでの通関と車の入国審査、係官はタイプライターを前にしてインタビュー形式で、車に関する質問、すなわち、車種、色、ナンバー、エンジン番号、行き先、目的などを矢継ぎ早に質問してきて、最後に,その申請書を手にして車のところへ移動して、簡単な検査を受けて係官はそれに承認のサインをして、これがアルゼンチン滞在中の『運転免許証』だと告げられた。

無事に入国してサンマルティン広場の近くのサンタフェ通りに面した、ホテル・クリリオンにチェックインして、翌日はパレルモ公園内にある『アルゼンチン自動車クラブ:Club De Automobil Argentina』へ行き、旅行ルートを説明すると、ラプラタ川に沿って北上してパラグアイへの詳細な地図を渡してくれた。この地図は日本でいう、”タバコ屋の角まで“表示されている親切なものであった。そして、係の人の注意は『アルゼンチンでは一元さんの車の旅行者は街道筋でガソリンを入れると、水を入れた悪質なガソリンを入れられるので、目的地に着いたら、ホテルへ入る前に、この自動車クラブのマークのあるYPF{国営石油公社}のガソリンスタンドで満タンにしておくのが安全です』と親切に教えてくれた。

翌日、ラプラタ川に沿って、夏のパンパス草原を北上、アルゼンチンもウルグアイと同様、反政府行動があり,州境に近づくと州警備が厳しくなり、軍の警備兵に必ず停止を命じられ、パスポートと免許証のチェック、と乗員の顔のチェックをされた。そして、フロンテーラの町、エスタンシアに昼頃に到着、パラグアイにわたるフェリーに乗ろうとしたところ、丁度昼で今は乗船できない、俺たちの昼めしが終わるまで待て、と言われ、彼らは、フェリ-の甲板で豪華なアサード(Asado:アルゼンチンスタイル焼肉)をしていた。

2)アルゼンチンからパラグアイへ

筆者の方も昼食を取り、ようやくフェリーに乗ってパラグアイ側へ渡った。ここでもあっという間の出入国で、川の上と、わずかな徒歩で、地続きの国越えをしてしまった。そして、通貨はアルゼンチン・ペソからパラグアイ・グアラ二―(Guarani)に変わった。人種は、アルゼンチン側のイタリー系とスペイン系の人々から、パラグアイの先住民、グアラ二―族の人とスペイン人との混血であるメスチーソの人々に代わり、文化は”アルゼンチン・タンゴ“から、パラグアイの”アルパ{インデアン・ハープ}、とチャランゴ(アルマジロの皮でつくる、小型のギター)”の世界になった。
  
当時のパラグアイは、まだ、森林伐採,焼畑農業が盛んで、首都アスンシオンから真東のイグアスへの街道は日系人の入植した村も多く、街道筋にはのぼりが何か所も見られて、そこには日本語で商店の名前が書かれていた。この街道を走って、一路イグアスの滝へ向かい、イグアスの滝は三カ国のフロンテーラとなっていて、ほぼ自由に行き来でき、有名な『悪魔ののど』の近くには、ホテル・カタラッタス・ド・イグアスというブラジルの素晴らしいホテルがある。

この滝の周辺は,三カ国のフロンテーラで”地続きで国越えができる“ところである。最後に、パラグアイとブラジルのフロンテーラには”友情の橋“(Puente De Amistad)という橋が架かっていて、そこを渡ればブラジルのイミグレーションと税関がある。パラグアイ側の“Ciudad Del Este{東の町}”というところはフリーゾーン的な役目で、ブラジル人が徒歩で橋を渡って買い出しに来ていた。筆者も帰途はこの橋を渡って、サンパウロへの最後の1,000キロメートルのハンドルを握った。ブラジルの国産車、カブトムシは真夏の四か国の街道、7,700キロメートルを10日間、よく走ってくれた。
 

5.コンクリートの空間で両国を行き来

パラグアイとブラジルのフロンテーラには、世界最大のイタイプ―水力発電所が存在する。この人工湖の堤防の長さは7.7キロメートルあり、発電機は20基で総発電量は、1,400万キロワットである。この発電所は自由に見学でき、その20基の発電機は両国均等になっていて、パラグアイ国の需要量は少ないので、余剰電力はブラジルへ売電されている。そして、入り口から入ってエレベーターでコントロールルームに降りると、そこはガラッとした空間で、端っこの方で少ない人員で発電のコントロールがなされていた。

ここで言いたいのは、このガラッとしたコンクリートの空間の中に、パラグアイとブラジルのフロンテーラが存在するのである.ほんのわずかのしるしがあるだけで『コントロール・ルーム内の、地続きの国越えが』両国間で瞬時に出来るのである。なかなか経験できないことである。

6.”太平洋戦争“で三か国のフロンテーラが大きく変化 =『太平洋戦争と言っても』ここでは、“チリ―対ペルー・ボリビア連合軍の戦い”である“=

ペルーとチリ―の、今日の太平洋岸には、複雑なフロンテーラの歴史が存在する。筆者の話は”地続きの国越え”の話であるので、筆者のチリ―経済・投資調査の国際流通開発調査の経験から、チリ―からボリビアへの地続き越え、そして、チリ―・ペルーのフロンテーラ調査をもとに、このフロンテーラの変化を含めて考察してみたい。

1)三等バスでチリからアルゼンチンへ

まず、チリ―の首都、サンチャゴから三等バスで,物流調査のためアンデス山脈を越えて、アルゼンチンのブエノスアイレスまで走り、アルゼンチン側のコンテナー貨物がチリ―側の二か所の太平洋岸の港,バルパライーソとサン・アントニオへ輸送されるOne Stop Serve に対して調査したが、その際、チリ―側からアンデス越えのチリ―側のコンテナーヤードであるロス・アンデスの町を通って、日本の日光のいろは坂よりも急なカーブが続く{トラックでは、コンテナーを積載すると、せいぜい時速10キロメートル以下でしか走れない}峠を登り、左側にチリ―で有名な、そしてアルゼンチンからのスキーヤ―が多い、ポルティーヨ・スキー場を見て、アルゼンチンとのフロンテーラ、クリスト・レデント―ル(Cristo Redentor)、南米の最高峰、アコンカグアのふもとのイミグレーションと税関に到達する。ここはトラックとバス、乗用車は別べつのルートになっており、バスの乗客は予めバスの車掌がリストアップしたパスポート・リストに基づいて、出入国審査を受けて、かなり大きな建物の中で税関検査を一人ひとり受けた。

チリ・アルゼンチンのフロンテーラ:アンデスのクリスト・レデントール

再び、バスに戻って陸路、地続きの入国を果たして、この時はかなりの雪であって混んでいて寒い国越えであった。以前、この峠のルートは、サンチャゴからアルゼンチンの有名なワインの町、メンドーサまでアンデス越えの鉄道が走っていたが、冬、ここは豪雪地帯で、度々雪崩が起こり、ついに廃線となってしまった。

サンチャゴから筆者の乗った三等バスは、ペルーのリマ発の便で、メンドーサからブエノスアイレスまではペルー人の運転手が、夜中のパンパス草原を時速120キロメートルぐらいで飛ばし、怖いぐらいであった。このルートの道路は良好であるが、ペルー、チリ―からの乗客は商売用も含めて大量の荷物を持っており、フロンテーラの税関でトラブルを起こして時間を要して、しばしばメンドーサ到着が遅れる。この時も3時間遅れの到着となった。

2)チリ―・ペルー そしてチリ―・ボリビア、フロンテーラ

続いて経験したのがチリ―とペルーのフロンテーラの調査で、フロンテーラの税関を訪問して、通関手続きを視察し、歩いて両国の間を往復した。イミグレーションと税関は立派な建物で、係官のチェックポイントはペルー側から持ち込まれる麻薬とのこと、車のシャーシーまで潜り込んで検査が行われていた。この建物の前後の道路沿いには民家はなく、チリ―側の土獏の地域は、いまだに”太平洋戦争時”に埋められた地雷が残されていて、あちこちに注意の“ドクロ・マーク”が見られた。この道路と並行してチリ―のアリカ港からペルーのタクナに至る鉄道が敷かれている。

そして筆者は、チリ―北部の港町、アリカから東のアンデス越えのボリビアのラパスへの物流調査のため、タクシーで500キロメートル、8時間のフロンテーラ越えを実行した。

チリ―のアリカを出ると、すぐに登りとなってチリ―・ボリビアのフロンテーラである“チュンガラ(Chungara)”へは徐々に海抜4,000メートルの高原に近づき、このフロンテーラまでのルートは一軒の運ちゃん食堂とチリ―陸軍の兵舎、そしてチュンガラ湖の近くには先住民の民芸織物の青空マーケットがあるだけで、ときどきピクーニャの家族を見るぐらいである。

チュンガラのイミグレーション・税関は、ここでもトラックと別ベつとなっていて、トラックは通関待ちの長い列ができていた。タクシーはちょっと降りて地続きを通過できた。この陸路のゲートからはボリビア側のゲートは全く見えず、この付近には民家もない。

担当官にこの場所の海抜を聴いたところ、4,650メートルとのことであった。そして、ボリビア側のイミグレーション・税関まで、少し走り、ボリビア側の入国審査、税関審査を通過すると、それを待っているかのように通貨を交換する”両替屋“がどこともなく群がってきて,チリ―のペソからボリビアペソへ、USドルからボリビアペソへの交換をせがむのであった。


海抜4,650メートル チリ・ボリビアのチリ側国境税関チュンガラ

このゲートの近辺にも、ほとんど民家はなく、筆者がこのルートを走った時期は12月の夏の時期であったが、海岸は夏でも、海抜4,500メートルのアンデスのアルティプラ―ノでは寒いみぞれ交じりの冬の気候であった。地続きで入国してから、道路沿いには民家も木々もなく、時々見られるのはラクダ科の動物、ビクーニャの家族で、数頭の家族ごとにイッチの草をはむ姿だけであった。チリ―のアリカからボリビアの首都、ラパスまでは8時間の行程であったが風景は全く変わらなかった。

ここで、この三か国、すなわちチリ―、ペルー、ボリビアの複雑なフロンテーラの変遷を参考図で説明してみると、その複雑さが良く分かる。ボリビアは太平洋に面した領土を持っていたが、この地域の資源をめぐってチリ―とボリビアの紛争となり、続いて、これにボリビアに対してペルーが加勢して、チリ―対ボリビア・ペルー連合軍の戦いとなった。

最初は、連合軍側が有利であったが、1879年から1883年と戦闘が長引くとチリ―が攻勢となり、ついにチリ―が勝利、その後の折衝により、ついにボリビアは太平洋側への出口を失い、ペルーもアリカの南の領土を失う結果となった。その結果、今日の複雑なフロンテーラとなった。

開発調査でアリカの南の農場を訪ねたが、この土地は以前ペルー領で、父はペルー人、その後に生まれた私はチリ―人で、現在はここでチリ―人として主に果実のマンゴーを栽培して出荷しているが、農業用水の水源はアンデスのボリビア領とのことであった。

一方、チリ―政府としては領土としてのアリカの港に、一部ボリビア専用の倉庫を建設してボリビアへ供与したり、これらはカナダから輸入したボリビアの小麦が納められていたり、港からボリビアへの輸送ルートは、ボリビアのトラック専用として供与している。

さらに、アリカ港内にはペルー専用桟橋をチリ―が建設して、ペルーのタクナから輸送用の引き込み線が敷かれている。さらにチリ―国鉄の民営化では、アリカからボリビアのフロンテーラまでの路線は、入札によりボリビアの会社が落札し、フロンテーラからボリビアにラパスまでの路線はチリ―の会社が落札したと、アリカのチリ―国鉄の所長を訪問した時にほっとした表情で話された。


このように、『フロンテーラ』というテーマで、経験した陸路での国越えを書いても、このラテンアメリカ地域のさまざまな『顔』が描けるのではないかと感じている。