執筆者:富田眞三(テキサス在住ブロガー)
メキシコは隣国の米国と違って、人種差別はほぼゼロである。メキシコの人種構成は60%が混血(Mestizo)、インディヘナと呼ばれる先住民が21%、そしてスペイン人を主とするヨーロッパ系が18%と言われている。一方、「あなたの祖先は誰ですか」との政府機関の質問に、47%のメキシコ人は、スペイン人等のヨーロッパ系の子孫と答えている。即ち混血の統計に60%と47%の2つのグループがあることになる。これには訳がある。
即ち、メキシコ政府が分類する混血とは、1930年以降、メキシコ革命政府が60種類ほどある、先住民語を日常使わないメキシコ人から、スペイン系を除いた人々全部を「混血-Mestizo」と定義したことによる。これは文化的混血を意味し、生物学的混血ではない。従って、混血と分類されたメキシコ人の中には、「自分は生物学的にスペイン人の子孫である」と意識している、47%のグループと「13%(60-47=13)のメキシコ近代社会に文化的に同化した、生物学的意味の原住民の子孫」が混在していることになる。そして、メキシコ人の47%が「生物学的混血」という数字は、スペイン人の血の濃淡は別として、40年間同国に住んだ者として、納得できる数字だと思う。
なお、先住民の子孫が多く住む、南部のオアハカ、チアパス州等の出生証明書には「人種(Race)」という欄があり、先住民の子は「英雄的人種・インディヘナ」と特記されることが興味深い。今回、この項を書くにあたって、メキシコ市生れの息子の出生証明書を見たところ、「人種欄」はなかった。
混血民族の悲しき誕生「混血ーMestizo」という語によって、革命政府はスペイン文化とインディヘナ文化を「混合させた」、スペイン人でもインディヘナでもない、メキシコ人が誕生した、と言いたかったに違いない。それを証明する、記念碑がメキシコ市にある。メキシコ市のトラテロルコに三文化広場と呼ばれる広場がある。三文化とは、先コロンブス期、植民地時代そして現代の文化を意味する。この地は1521年、エルナン・コルテスの率いる、スペイン人征服者たちとクアウテモック皇帝の率いる、アステカ軍との最後の戦闘が戦われた古戦場である。ここにその戦闘を記念する、記念碑が建てられたのは1966年だった。碑にはこう記してある。
写真:(http://alcaldiacuahtemoc.mx/descubre/plaza/)
「1521年8月13日、この地トラテロルコはクアウテモックによって英雄的に防御されたが、エルナン・コルテスの軍勢によって落城させられた。勝者も敗者もなく、それは今日のメキシコである、混血民族の悲しき誕生だった」。「混血民族の悲しき誕生」という語にメキシコ人の万感の思いが込められている。メキシコは征服されたスペインから血と言語(スペイン語)と宗教(カトリック教)を与えられた。従って、この「混血」には革命政府が定義したように、文化的意味の混血も含まれている。このようなメキシコ人が人口の大部分を占めるメキシコは、米国社会とは違って、インディヘナ、混血、白人間の人種差別はほぼゼロと言える。
一方、自分はメシコ語、ナワトル語等の原住民語を日常使用し、文化的にインディヘナである(アイデンティティ)と意識している人々が21%もいる、とは正直私にとって驚きだった。アメリカの原住民である、インディアンはアラスカのエスキモーを含めても人口の1.5%に過ぎないのとは大違いである。アメリカでは、天然痘でインディアン人口の30~40%が死亡したとも言われているが、19世紀半ばまで、インディアンの支配地は外国扱いだったためもあり、大小の戦争が発生し、多数の死者が出たことは確かだった。メキシコではインディヘナは貴重な労働力だったため、世に言われるような、インディヘナの虐殺などなかった。
16世紀、アステカ帝国を降した征服者(Conquistadores)の子孫である、スペイン系は今では少数派に過ぎない。しかし、人口の18%のスペイン系子孫が、メキシコの衣食住関連の産業を押えているのは、厳然たる事実であり、メキシコの主たる経済団体のトップは常にスペイン系が就くことになっている。一方、原住民であるインディヘナは、先コロンブス期から人里離れた山中で自給自足の生活をして、一般社会とは隔絶した存在になっている。なお、インディオは差別語であり、メキシコではインディヘナが政府用語である。
60%の混血の中には、スペイン系の血が濃く残っている白人に近い人たちも、もちろんいるが、彼らの大部分の身体的特徴はインディヘナとそれほど違っているわけではない。このようにメキシコは、白人が人口の70%を占め、黒人は20%以下の米国とは事情が違う。警察官のトップはともかく、一般の警察官は混血が大部分であるため、警官による人種差別などあり得ない。しかも、メキシコには黒人はいないし、奴隷も植民地時代からいなかった。豊富な原住民の労力があったため、米国と違って奴隷の輸入はなく、奴隷制度は禁じられていた。19世紀初頭、当時のスペインの植民地だった、メキシコはテキサスに米国移民を大量に受け入れたが、その条件の一つが「奴隷禁止」だった。
「人種差別ほぼゼロのメキシコ」と書いたが、まったく無いわけではない。筆者が経験した、人種差別の一例を書こう。メキシコ市のカントリー倶楽部でのことである。ウィークデイの昼頃、プレイを終えてロッカー室に行くと、ベンチに座っていた、顔なじみの弁護士から、「Tomita,俺の話を聞いてくれ」と悲痛な顔で言われた。その日、一人で来た彼は、ちょうどスタートしようとしている3人組に、「同行させて欲しい」と頼んだ。すると、一人が彼に向って、「私は色の黒い奴とはプレイしない」と言った。顔を見ると、男は前大統領のエチェベリアだった。流石に筆者の友人は腹がたったが、黙って引き下がった、と語った。これには、筆者まで腹が立った。こんな話は前代未聞である。しかも前大統領がこんなことを言うとは…。
これには、後日談がある。数週間後、或るフォーサム(4人組)がスタートしようとしたとき、エチェベリアが一人で近づいてきて、「ご一緒できますか?」と訊いた。すると、4人が異句同音に「我々は全員そろっていますから」と言って断った、と言う。5人でも出来ないことはないのだが、先日の例があったので、彼らは断ったのである。この快挙はたちまちの内に倶楽部メンバー全員に伝わり、喝さいを持って迎えられた。エチェベリアの祖先はバスク系のスペイン人である。彼は立憲革命党(PRI)の政治家として、常日頃、農民、労働者の味方である、と自認していたが、とんだところで、馬脚を現わしてしまった。
インディヘナ出身の大統領
写真:(https://www.noticiaschiapas.com)
エチェベリアは「黒い奴とはプレイしない」と言い放ったが、メキシコにインディヘナ(先住民)出身の大統領、しかも偉大な大統領がいたことは、有名な史実である。メキシコはもちろん、ラテンアメリカ諸国初のインディヘナ出身の大統領は、オアハカ州出身のベニト・フアレス・ガルシアだった。彼は二期(1858~1872)にわたって、大統領を務めた。また、フアレスから5年後に大統領に就任した、ポルフィリオ・ディアス・モリは、30年近く政権にあった独裁者(1877~80、1884~1912)だったが、彼の母方の祖母は生粋のインディヘナで苗字はMoriだった。Moriは日本の森ではなく、インディヘナの苗字である。
人種問題に関する、米国とメキシコの違いは幾つかある。最大の違いは、奴隷制度である。メキシコには植民地時代から、奴隷制度はなかったし、メキシコには黒人はいない。ただし、先コロンブス期のインディヘナ社会には捕虜を奴隷にする習慣があった。そして、もう一つのアメリカとメキシコとの大きな違いは混血問題である。1863年に発効した、異種族混交禁止法(Anti-Miscegenation Law)によって、米国の白人は黒人との結婚を禁じられていた。この法律によって日本人等アジア人、インディアンも黒人と同列に扱われた。ハリウッドのセックス・シンボルとして名を馳せた、早川雪州は映画の中でさえ、白人女性との結婚は許されなかった。そして白人と黒人の結婚が解禁されたのは、1967年だった。従って表面上米国には、混血児問題はなかった。
一方、メキシコの植民地時代(1521~1810)、スペイン人男性の73%はスペイン女性と結婚した、との記録が残っている。スペイン最大かつ最も豊かだった植民地・メキシコには、当初から一攫千金を狙う多くの独身者が入国して来た。当時スペイン女性は数少ない貴重な存在だったので、同国人女性と結婚できない男が多かった。彼らは先住民の女性を妻としないまでも、現地妻とした例はあった。米国でも、北部から南西部のインディアンと取引に来た、白人たちはインディアン女を現地妻とする例はあった。
コルテスとマリンチェ
写真:(https://www.ateneo.digital.com)
現地妻と言えば、メキシコ・アステカ帝国の征服者となったエルナン・コルテスに、その後のメキシコを予測する象徴的な出会いがあった。1519年、当時エスパニョーラ島(現ドミニカ、ハイチ)で公職に就いていた、コルテスはキューバ総督のベラスケスからコスメル、タバスコ(ともにメキシコの1地方)への探検隊隊長に任命された。コルテスは11隻の船に600名の兵士、16頭の馬(当時アメリカ大陸に馬はいなかった)と14門の大砲を積んでコスメルへ向かった。ここで、マヤ軍の攻撃を受けたが、難なく撃退した。
タバスコに滞在中、マヤ族から種々の贈り物を得たが、その中に女性奴隷20人も含まれていた。奴隷の一人だった、マリンチェはマヤ語の他にナワトル語を話したため、スペイン隊の通訳、道案内として重用され、利発だった彼女は直ちにスペイン語も習得した。そして数年後の1523年、マリンチェはコルテスの長男マルティンを産み落とした。この子は「混血児マルティン」と通称されたが、メキシコ初の白人と現地女性間の混血児として知られている。
その5年後、コルテスはアステカ皇帝・モクテスーマ二世の皇女イサベルとの間に一女を設けた。女児は父コルテスから認知されて、レオノールと命名された。成人後、レオノールは当時世界一の金銀の産出量を誇った、サカテカスのエル・エデン鉱山発見者の一人だった、フアン・デ・トロサと結婚している。
混血児マルティン・コルテス
写真:(https://www.de10.com.mx)
なお、混血児・マルティンはスペイン貴族・オアハカ侯爵という身分の父親を持っていたため、ローマ教皇クレメンテ7世からコルテスの嫡出子として認知され、6歳になると、マリンチェから引き離されてスペインで教育を受けた。彼はスペイン王フェリペ二世の小姓を務めたこともあり成人後、メキシコを訪れた際も、侯爵家の一員として処遇された。彼は1595年スペインで死去した。侯爵家を継いだマルティンは、同名の異母弟だった。なお、彼の母マリンチェは「新しいメキシコ人の象徴的母」として知られている。
1968年のメキシコオリンピックの際、毎夜、多数のメキシコ女性がオリンピック村に「夜這い」したことは、世界的に有名になった話だった。その結果、翌年、メキシコ市で多数のヨーロッパ系混血児が生まれたのだった。自分の子供は白く生みたい、という何ともいじらしい願いがメキシコ女性にはある。筆者のゴルフ仲間のスペイン人のなかに、若いころセールスでメキシコの地方を旅した経験を持つ友人がいる。今思い出したが、彼はお得意さんの家に泊まったとき、その家の娘さんから「夜這いされたことが何度もある」と語っていた。
エルナン・コルテスは通訳兼案内役のマリンチェの他にアステカ皇帝・モクテスーマ二世の皇女にも子供を産ませた。この時代から約80年後の1609年7月、スペイン植民地のフィリピンを出港して、メキシコを目指した、スペイン船・サンフランシスコ号が台風に遭遇した後、千葉県岩和田海岸に漂着したのは、9月30日だった。58名が波浪にさらわれて溺死したが、他の317名は辛うじて上陸できた。今だに語り継がれるエピソードによると、海女たちが冷え切ったスペイン船員たちを自らの体で温めて命を救ったのである。救助された船員たちは30日間、同地で休養したのち、大御所家康に招待されて、駿府へ旅発って行った。その30日間、異国の船員たちは、助けてくれた海女たちと懇ろになり、一年後かなりの数の混血児が生まれたのである。こういうスペイン人たちが、長期滞在したメキシコで多数の混血児を残したのは、ごく自然の成り行きだった。
以上、筆者が「人種差別ほぼゼロのメキシコ」と書く根拠である。(終わり)