執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)
今は新型コロナウイルスの蔓延で、全国の花火大会は、残念ながら、次々と中止に追いやられている。しかし、花火は夏の風物詩として、大いに癒される一大イベントである。日本政府は、「クール・ジャパン」という名称で、海外向けに日本の素晴らしい文化や技術等のPR活動を世界中で展開している。ジェトロは、海外で行われる見本市や博覧会の機会に、日本が世界に誇る「打ち上げ花火」をイベントとして時折行っている。私も過去3回にわたって、打ち上げ花火の素晴らしさを体験することができた。以下紹介する。
1973年に初めてサンパウロに出張した。サンパウロ日本産業見本市の組織・運営のためである。その当時、ブラジル経済は絶好調で、「ブラジルの奇跡」と呼ばれていた。スーパー・ミニスターのデルフィン・ネット大蔵大臣が大活躍していた時代であった。まさにブラジル・ブームの真っ盛りで、日本企業のブラジル進出ラッシュは目を見張るものであった。
この見本市は、サンパウロで最大の展示会場であったアニェンビー展示会場(今はサンパウロ・エクスポ展示場が最大)で開催された。日本から政府特使として、藤山愛一郎氏が派遣され、開会式には、ラウド・ナテル・サンパウロ州知事が参列した。屋内・屋外合わせ20、000平米を使用したジェトロ史上最大の見本市であった。商談も活発に行われた。
私は、PR・広報、セミナー、催事の担当として、73年2月半ばから5月まで3ヶ月間、サンパウロに滞在した。PR・広報と言っても、すべて自分でやるしかなく、アシスタントの日系ブラジル人でジャーナリストの故ウイルソン高橋さんと一緒に、ニューズ・リリースを作り、ポルトガル語に翻訳したり、広告・宣伝計画を立案したりした。一番効果があったのは、新聞社めぐりで、ニューズ・リリースと小さなお土産をもって、サンパウロの有力紙やテレビ局を次から次とまわり、日本産業見本市を周知させるというやり方であった。訪問すると小さい記事にしてくれたり、新聞記者発表の時には、旧知の記者が出席し、後で記事を書いてくれたりした。当時存在したVARIG航空との共催でサンパウロ州の巡回イベントも数多く行った。上司の石沢正さんのテレビ出演も相次いだ。それら一連の活動が効を奏してか、見本市が始まると地方の日系の方々が、連日十数台のバスを連ねて見学に馳せ参じてくれた。その光景は感動的なものであった。この見本市では、現地のブラジル日本商工会議所やブラジル日本文化協会(文協)を中心とした受け入れ委員会が300円くらいの入場料を徴収したが、2週間の会期中、合計で35万人の来場者があった。収益も相当額になり、後にブラジル日本商工会議所や日系最大の組織である文協(現ブラジル文化福祉協会)に寄付した。
催事は、展示会場に隣接した大劇場と展示場内の特設ステージの2か所で会期中の2週間、毎日、途切れなく実施した。1日の催事スケジュールをみると、大劇場では、映画3回、日本舞踊・日本音楽2回、助六太鼓、ファッション・ショウ、沖縄民俗舞踊が休みなく上演され、特設ステージでは、エレクトーン3回、パンの芸術、活花実演2回、友禅染実演2回、日本舞踊・音楽2回、沖縄民俗舞踊2回、空手、剣道、助六太鼓、茶道実演と合計16回の多彩なイベントを展開した。これ等はひとえに日系コロニアの方々のおかげであった。加えて、経済セミナー2回、出展企業による技術セミナー10回を行った。
全てのイベントの中で最も人気を集めたのは、日本の花火の打ち上げであった。花火は常に華やかであるが、お金も手間暇も相当かかる。日本から花火師を招かなければならないし、爆発物なので輸送が大変である。サントスの港に花火が到着すると通関がこれまた大変で、日本から派遣した通関業者に依頼することになる。花火の保管は通常、軍の管理となっている。花火師は有名な「株式会社元祖丸玉屋小勝煙火店」の先代社長であった。一度、サンパウロでお酒を一緒したが、風格があり、痛快な人物であった。
それ以前に、サンフランシスコで花火事故があったため、ジェトロの花火担当は、花火の経験があるベテラン展示部員が担当した。当日の天候も左右するし、結構神経を使う難しい仕事である。花火は2回行った。1回目は、仕掛け花火、打ち上げ花火に加え、日本で言う「ナイヤガラの滝」で、ブラジルでは、当然、「イグアスの滝」と名称を変えることになった。この花火は、大変な評判を呼び、翌日の新聞に写真入りで大々的に取り上げられた。当方は、大喜びだったのだが、2回目の花火の日取りが間違って紹介されていたので、細心な日本人の常として、大いに心配になった。そこで、アシスタントのウイルソンさんに、新聞社に訂正を入れてもらおうと言うと、「そんなことは必要ない」との答え。何故と聞くと、「ブラジル人は新聞を読まないし、2回目の花火に関心のあるブラジル人なら日時を確認するはずだということであった。さすが大まかなブラジル人だと感心したものだった。2回目も、無事成功裡に終了し、花火の威力に脱帽したものだった。
現在のベネズエラからは想像できないが、ジェトロは、ベネズエラのカラカスで、1967年と1970年に単独の日本産業見本市を開催した。ベネズエラが最も好景気の時代であった1977年に、3度目の「カラカス日本産業見本市」を開催した。通貨のボリバルも対ドル比率で極めて強く、駐在員仲間の麻雀の負けの支払いもドルではなくボリバルに限るという時代であった。電気技師などもスペイン人やイタリア人で、短期に出稼ぎでベネズエラにやって来た人々であった。稼ぐだけ稼いで本国に帰ると言っていた。
1977年3月4日から13日までの10日間、同見本市は、カラカスのプラサ・ベネスエラ展示会場で開催された。ざっとあらましを紹介すると、展示面積は、屋内3,500平米、屋外1,500平米で、日本企業87社が出展した大規模な日本産業見本市であった。開会式には、日本政府代表として木村俊夫元外務大臣、ベネズエラ政府からは、アルバレス・ドミンゲス勧業大臣、エルナンデス・アコスタ鉱山エネルギー大臣の臨席を仰いだ。展示以外にも生け花の実演、柔道・レスリングの実演、花火ショー、経済と農業の技術セミナーがあった。10日間の総入場者数は、93,800人に及んだ。1975年には、JAVEC(日本・ベネズエラ経済協力懇談会)が発足し、両国の経済関係が大いなる盛り上がりが見られた時期であった。幸いなことに商談も活発に行われた。
私は、1976年に、見本市事前調査のために3週間、1977年の本番時でも2週間、カラカスに滞在した。
見本市の概要は前述のとおりであるが、一番のアトラクションは、間違いなく日本から持ってきた花火であった。海外で花火を挙行するのはなかなか手間暇がかかる。日本から花火師を連れてくる必要がある。この時も丸玉屋小勝さんに来てもらった。爆発物なので陸軍省などが絡んでくる。保管手続き等に時間がかかるし、手間暇がかかる。失敗は許されないので、ここでもジェトロのベテラン展示事業部員が責任者となって、取り仕切ることになる。
開会式のレセプションの際に華々しく花火を打ち上げたのだが、カラカス市民を魅了し、びっくりさせた。イグアスの滝(日本ではナイアガラの滝)と称する花火も行った。展示会場の横を走っている高速道路の上空に花火が炸裂するので、走行中のほとんどすべての運転手は車を停車し、終了まで花火を鑑賞している風景が会場から良く見えた。その間、交通は完全にストップした。大変印象的な光景であった。1967年と1970年のカラカス日本産業見本市にも花火を上げたが、この時も出席したベネズエラ要人には大いに喜んでもらったという。
日本の夏を彩る花火は本当に素晴らしい。日本製の花火は、世界でも最も優れていると言える。したがって、海外で開催される博覧会や大型見本市の併催事業として最適である。1992年セビリャ万国博覧会は、コロンブスのアメリカ到達500周年を記念しての大行事で、70年大阪万博以来、22年ぶりの大型の万博であった。1992年中に、スペインは、オリンピックをバルセロナで、ヨーロッパ文化都市をマドリードで、万博をセビリャで開催し、最も輝いていた年であった。
セビリャ万博は、1992年4月20日から10月12日まで開催されたが、合計4,182万人の来場者があり、大成功であった。日本館は、「王冠の中の真珠」と呼ばれ、人気館の1つであった。合計、500万人を超える入場者があった。また、日本館は、会期中に、国家元首級が19名、大臣クラスが190名を受け入れた。
ジャパン・ウイークは、7月20日を中心に展開された。19日は愛・地球博をプロモートするための「愛知デー」、20日は「ジャパンデー」、21日は「東京デー」とされた。東京都が2,000万円を拠出し、21日の「東京デー」のメイン・イベントとして、花火を打ち上げることになった。同時に「東京デー」のレセプションを日本館の太鼓橋の上の大舞台で行い、花火を見ながら歓談するという趣向であった。安藤忠雄氏設計による日本館は、博覧会上内の建築の中でも一際注目を集めていた。この時も招待客は日本の花火の素晴らしさに感激し、大いに喜んでもらった。今はやりの「クール・ジャパン」の先駆けであった。
隅田川花火の様子
その後の余談
2020年2月に幕張メッセで、「イベント総合EXPO」が開催された。会場を回っていると、懐かしい「丸玉屋」のブースを見つけた。たまたま同社の社長の小勝一弘さんがおられたので、思わず声をおかけし、ジェトロと花火との関係につき立ち話をさせたいただいた。写真の中にも「クールジャパン・プロジェクト」の文字が出て来るのがわかる。 できるだけ早く、コロナウイルスも終息し、また華々しい花火大会を楽しみたいものだ。
以 上